第12話 大阪杯

 確定表示が出て、配当に観衆どよめく場内の一隅、澤多莉さんは表情一つ崩さず、白く細く美しい人差し指でタブレットを操作していた。


「す、すごいよ澤多莉さん! 5万馬券、じゃなかった、5万舟券だよ! ボートでこんな配当、競馬でいえば帯封レベルだよ!」


 などと興奮し口走っている彼氏の方など見向きもせず、眉間を僅かにしかめた。


「見事に後ろから行く馬が内側に入って、先行したいのが外寄りになっちゃったわね……うーん、これをどうとらえるべきか」

「ねえ、大阪杯は明後日なわけだし、とりあえず今は競艇を楽しまない?」

「楽しんでるわよ。あなたも大人だったら『わーい楽しいなー』ってアピールしたがる人ほど実際はさほど楽しんでないって真理を覚えておいた方が良いわよ」

「大人だったら、あえて『わーい楽しいなー』ってアピールすることも大事な場合もある気もするけど」

「そういうときはちゃんとそうするから安心なさい」

「そう……」


 わかってはいたことだが、彼氏との初めての旅行は、そういうときには該当しないらしい。

 たそがれそうになる気持ちを溜息で散らし、コースに目を向けてみる。人工プールの水面は陽光を受けキラキラと輝いている。春の風に頬をやさしく撫でられ、最愛の人に冷やされた心が少しだけ癒される。


 金曜日の昼下がり。澤多莉さんと僕は兵庫県の尼崎競艇場に来ていた。

 高松宮記念の週から始まり、大阪杯の週で終わる二人の旅行もいよいよ大詰め、明日明後日の阪神競馬場が最後の決戦の地となる。

 中央競馬の開催がない平日も、常滑競艇場、松坂競輪場、大垣競輪場、園田競馬場、そして今来ている尼崎競艇場と足を運んでおり、それ以外の観光スポット等には一切足を運んでいない。

 客観的に見て二十歳の大学生カップルによる春休み旅行として、これはいかがなものかと思えなくはない。

 しかも、元々風邪気味だった僕は、高松宮記念で手痛いタテ目を喰らった後に体調が悪化してしまい、特に週の前半は息も絶え絶えで、とても旅打ちを楽しむどころではなかった。


「具合悪いのなら、あなたはホテルで休んでれば良かったのに」


 心配するでもなくそんなことを言われ続け、宿泊時は風邪をうつしてはいけないのでと別々の部屋をとろうと提案したときには、


「もちろんそのつもりだけど? 風邪ひいてようとなかろうとね」


 実ににべもない様子で言い切られてしまった。

 唐突に澤多莉さんと旅行に出ることが決まり、緊張とともに、普段とは異なる彼女の一面が見れるかもしれないという淡い期待、そして更なる関係に進展できるのではと夢膨らます気持ちは呆気なく砕かれ、風邪は治っても萎んだ心はなかなか戻らない。


「そちらこそ。女性と一緒にいるときに溜息ばかりというのはどうかと思うけど?」

「えっ?」


 いつの間にか、澤多莉さんが冷ややかな目をこちらに向けている。

 気付かぬうちにまた溜息をついていたらしい。確かにこれはマナー違反かもしれない。


「ま。競馬のみならず競輪も競艇も負けっぱなしの己の無様さに溜息の一つも出てしまうのは理解できるところではあるけど」


 それで溜息をついていたわけではないのだが、何も言い返せないのも事実だった。

 ボートにしろ競輪にしろ地方競馬にしろ、この旅の間僕は散々にやられている。まあ専門外の急ごしらえの情報で挑んでおり、しかも前半は体調が悪かったのでいたしかたないところではあって、決して僕がギャンブル下手というわけではないとは思うのだが。

 対して澤多莉さんの方は、一体全体どういうわけか連戦連勝、行く先々で高額配当をゲットしており、あれだけ入念に検討して臨む中央競馬ではまるで勝てないのが嘘のような絶好調ぶりだった。


「フフ、哀れな養分さんにお情けをあげようかしら」


 そう言うと、ブラウスの胸ポケットから舟券を取り出し、僕の鼻先へと差し出してきた。


「な、何?」

「どう、私のマンシュウは? いい匂いがするでしょう?」

「……えっと、まあ、変な意味合いは込められていないだろうから普通に答えるけど、紙だから無味無臭だよね」

「そうかしら? 少しぐらいなら舐めてもいいのよ」

「いや、結構です……」

「ウフッ」


 何が満足なのか知らないが、微笑を浮かべて舟券をまた胸ポケットに戻す。その表情と仕草に、ああ悔しいけど綺麗だなあ、しょうもないこと言ってるけど美しいなあと、降参するしかない僕。

 清楚な白いブラウスに春っぽいやわらかな暖色系のカーディガンに身を包んだ若い令嬢は、競艇場や競輪場ではあまりにも浮いた存在でありすぎて、怪異に出くわしたような驚嘆の目を向けてくる者はいても、却って誰も声をかけてくることはなかった。


 それはさておき、ちょっとした辱めともいえるからかいを受けておきながら、やられっぱなしというわけにもいかない。

 内心で『澤多莉さんめ~!』と、離島に住む男子中学生のように歯噛みをして次戦でのリベンジを誓い、次のレースのスタート展示を食い入るように見て、新聞の情報をそれ以上に穴が開くほどに見つめる。


「そんな付け焼刃の生兵法で検討したって無駄だと思うけど」


 澤多莉さんは、ここの名物のタコ焼き(多幸焼と書く)を口に頬張りながら、茶々を入れてくる。


「どうせ心得が無いのだから、いっそ直感のみでやった方がうまくいくのよこういうのは」


 モグモグやりながら、投票カードを躊躇いなく塗っていく。

 澤多莉さんの場合、いっそ競馬でも下手に情報収集やら検討やらはしないで、直感だけで買った方が当たるんじゃないかと言いたくなるが、一時の反発でカタストロフィを招くこともないだろう。


「それこそ大阪杯の検討しながら、片手間で考えて買ってみたりしたら当たったりするんじゃない?」


 などと言いながら、またタブレットの操作を再開する。


「おそらくこの春では一番の好メンバーが揃ったけど、反面、絶対的な有力馬がいないレースでもあるのよね……こういうのをバシッと当てるのが、一番気持ち良いのよね」


 まるでしばしばこういうレースをものにしているかのような言いぶりである。


「人気しそうなのはアルアインあたりなのかしら。まあコース替りの阪神内回りだし、それなりに前の位置からレースできる馬がやっぱり有利ってことになるかしらね」


 と、タブレット画面をこちらに見せてくる。


「あなたはどう思う? やっぱり枠も手ごろなアルアインが有力?」

「え? えーっと……」


 正直、ここでは競艇の方に集中したいのだが、こうしてGⅠの馬柱を見てしまうと、そちらの方につい気持ちが吸い寄せられてしまうもので。


「でも、今回ペースは絶対流れると思うんだよね」

「マルターズアポジーが中山の方行ったのに?」

「うん、ほら、これとこれがいるし」


 馬番10と12を指差すと、澤多莉さんは顎の辺りに指を置き納得したように頷いて見せる。


「なるほどね。つまり、あなたは公正競馬を謳うJRAの方針に逆らって、ラビットを使用する陣営がいると言いたいわけね」

「そこまではっきり言いたいわけじゃないけど……まあ、でもサトノノブレスとヤマカツライデンが先行馬に厳しい流れを作るのは間違いないと思う。ライデンの方なんて、元々速いペースで無茶な逃げをすることが結構あるし」

「なるほど。それで自分自身は大往生ってわけね。ライデンだけに」

「三面拳の雷電とは関係ないけど。まあともかく、展開としては差しも結構届きやすくなるんじゃないかなーって」


 言いながら改めて馬柱を眺めてみる。先刻澤多莉さんが言っていた通り、中団より後ろから行きそうな馬が内枠にいて、先行しそうな馬が外寄りに入っている。


「そうなってくると、格では最上位で、金鯱賞で復活の兆しも見えてきたサトノダイヤモンドが有力ってことかしら?」

「うーん、でも随分とズブくなってるような気もしない? 阪神内回りじゃ加速を始める頃にはゴールの辺りってこともあるんじゃないかなあ」

「騎手もデビューからずっとルメールだったのが、乗り替りになっちゃったしね」

「うん。だったらスワーヴリチャードの方がデムーロとコンビ継続だし、外枠で腹くくったレース運びできるんじゃないかなあって」

「なるほどね。じゃあ本命はスワーヴリチャード?」

「うーん……確かに有力なのは間違いないけど」


 実を言うと、もう少し長い距離の方が適している可能性があって、右回りよりも左回りの方が明らかに良いスワーヴリチャードよりは、目を付けていた馬が2頭ほどいるのだが、どちらも内寄りの枠に入ってしまった。

 いくら差しが利く速いペースになったとしても、内側の馬は前から垂れてくる馬により追い出しが遅れる可能性は高い。直線の長い外回りならまだしも、内回りだとそれが致命傷になりかねない。強引にコース取りするような剛腕が必要になるわけだが、それが出来る男こそが外枠に入ったミルコ・デムーロである。

 そうなると、やはり内側の差し馬は少し割り引く必要があるか―――

 考えがまとまりかけたとき、澤多莉さんが口を開いた。


「何だか必死に無い知恵を絞っているようだけど、もしかしてこんなこと考えてるんじゃない? 『いくら差しが利く速いペースになったとしても、内側の馬は前から垂れてくる馬により追い出しが遅れる可能性は高いナリ。直線の長い外回りならまだしも、内回りだとそれが致命傷になりかねないナリよ。強引にコース取りするような剛腕が必要になるわけナリけど、それが出来る男こそが外枠に入ったミルコ・デムーロナリねぇ。そうなると、やはり内側の差し馬は少し割り引く必要があると思ってるナリよワガハイは』ってね」


 こちらの心の声を、語尾がコロ助になっていること以外は寸分違わず正確に看破してみせる澤多莉さん。脅威としか言いようがない。


「まあ、図星どころじゃないぐらいに図星だけど……」

「じゃあ本命はスワーヴリチャード?」

「うーん……いや、こっちにしようかな」

「あら。そんなに人気しないんじゃない? 珍しい」


 僕が指差したのは、3枠5番のペルシアンナイトだった。


「うん。マイルチャンピオンシップも勝っててマイルが適距離だと思われてるけど、昨年の皐月賞で途中でペース上げる走り方して2着だったし、距離は十分持つと思うし、差しが利く展開になれば有力かなあって。できればもっと詰まりにくくて他をマークしやすい枠が良かったけど、まあ5番だったらOKな範囲かなって」

「なるほどねぇ」


 澤多莉さんはこちらに見透かしたような目を向け、口角を少しゆるめた。


「じゃあ私はこっち本命にしようかしら」


 澤多莉さんが指差したのは、枠順出る前に僕が狙おうと思っていた2頭のうちのもう1頭だった。


「ミッキースワローかあ……確かに強いと思うんだけど。1枠1番はちょっとどうかなあって」

「この枠に入った以上、横山ノリさんはおそらく腹をくくって内側が開くのを待つレースをするでしょうね。で、実際今回は前が開くわ」

「えっ?」


 断言した澤多莉さんの表情は、自信満々そのものである。


「どうしてそんなこと言えるの?」

「あなた自分で言ったじゃない。今回サトノノブレスとヤマカツライデンがラビットやるって」

「まあ、あんまりあからさまなことはしないだろうけど、でもその役割に近い走りはするとは思うかな」

「で、それぞれ同陣営のサトノダイヤモンドとヤマカツエースはどこの枠に入ってる?」

「……あ!」


 理解。なるほどそういうことか。


「ダイヤモンドは2番、エースは3番、もしその2頭を押し上げたいとしたら、内側を塞ぐような走りをすると思う? あえて直線はコースの中ほどか極端なラチ沿いを通って、内側のどこかに通り道を開ける筈よ。で、そこを抜け目なく使うのは戸崎でも池添でもなく百戦錬磨の横山典さん。なかなか面白いシナリオだとは思わない?」


 確かに面白い。こんな見立てがずばり的中したらさぞかし気持ちいいだろう。


「あなたの本命馬に乗ってる福永は、必死こいて外に出そうとした結果、内側開けた先行馬に進路を塞がれる、なんてオチが待ってるんじゃないかしらね」

「うっ……」


 それもいかにもありそうである。


「さて。勝つ馬はわかったところで、問題は相手探しだけど……」


 再度二人でタブレット画面を覗き込んだところで、次のレースの販売締め切りを告げるオルゴール音が鳴りだした。


「あっ、早く舟券買いに行かなきゃ」

「どうせ当たらないんだからやめとけば?」

「いや、次こそは大丈夫。ここは初心に帰って千鳥の大悟さんが言ってた金言に従おうかなって」

「『なんやかんやで1が勝つ』ってやつね」

「そうそれ。結局ボートは1が圧倒的に有利なんだから」


 意気込んで投票カードを塗る僕に、澤多莉さんが囁くように伝えてきた。


「じゃあ、大阪杯の検討の続きは、今夜、ホテルの部屋ですることにしましょうか」

「!?」


 鉛筆の動きが乱れ、枠を大きく逸れて塗りつぶしてしまう。


「な、なななな?」


 泡食って言葉を出ない僕を尻目に、券売機の方に向かう澤多莉さん。


「あなたもゲットできるといいわね、マンシュウを」


 特に他意はなく、次のレースのことを言っているのだろう。

 僕は必死に呼吸を整える努力をし、新たな投票カードへの記入にとりかかった。


 ちなみに次のレースでは、僕が軸にした1番は勝ちこそしなかったが3着に入り、3連複6点で860円という微妙な勝ちを拾うことができた。

 1番を3着付で買っていた澤多莉さんは3連単を少点数で当てて、3万円以上の配当を手にしていた。


 なあに、日曜日の勝負に勝ってみせればいいんだ。


 澤多莉さんのマンシュウに負けるものかと、奮い立つ僕であった。


(つづく)



 ◆大阪杯


 澤多莉さんの本命 ミッキースワロー

 僕の本命 ペルシアンナイト

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