第11話 高松宮記念
いつものように閑散としている喫茶店の、いつもの席で、いつものようにタブレットに向き合い、競馬の検討に腐心する、いつもの金曜日が戻ってきた。
春のGⅠシーズン本格開幕。ここに至ってしまった以上、もう夏の終わりまで一直線。駆け抜けるのみである。
やはりレッドファルクスが固いか……いやいやそれとも……
画面上の馬柱に目を向けたまま、手元のアイスカフェオレに手を伸ばす。と、ストローが口内に入っていかない。
「あ」
ひとり間抜けな声を出す。いつもと違い、マスクを付けているのをうっかりしていた。
誰かに見られていなかったかと、思わず周囲に目を走らせるが、店内に他の客は誰もおらず、カウンターの中のマスターは椅子に座り静かに本を読んでいる。
ささやかな決まりの悪さを溜息で散らし、僕はマスクを外してストローに口を付けた。ガムシロップ1個を投入したカフェオレのまろやかな甘い味が口内に広がる。
集中が途切れたついでに、窓の外に目を向けてみる。もう夕刻近いというのに、陽が落ちそうな気配はまだ漂っていない。
近づいてきたかなと思いきやまた遠ざかってを繰り返していた春も、さすがに到来してくれたようだ。
あと幾ばくか時間が経てば、いつものように澤多莉さんがやってきて、いつものようにふたり向き合ってGⅠの検討をする……ことになるかどうかは実のところまだ定かではない。
東京競馬場にフェブラリーステークスを観に行った(そして二人とも馬券を外した)あの日、澤多莉さんは唐突に海外への旅立ちを口にした。
「昨今の猫も杓子も海外留学、海外留学経験を履歴書に書いていなければ人に非ず、みたいな風潮はどちらかといえば好ましく思っていないし、春休み中に行く1か月やそこらの短期留学なんてもはや単なる旅行でしかないとは思ってるんだけど」
澤多莉さんはこう前置きし、
「とはいえ、丁度両親の顔を見に行くついでになるし、向こうも来い来い言ってるし」
「へえー……」
聞きながら、澤多莉さんも人の親の子なんだなあと妙な感心を覚える。
「そういえば聞いたことなかったけど、親御さんはどこの国にいるの?」
「モコゲロビッチャ共和国」
「……どの辺にある国なのかな? そこは?」
「まあ、しばらく私が不在にするってことで、列島には寒気が押し寄せるでしょうけど」
「松岡修造じゃないんだから」
「そしてあなたは寂しくて寂しくて、夜尿症に悩まされるでしょうけど」
「寂しいっていうのは否定しないけど、それはできれば避けたいな」
「春のGⅠシーズンの頃には帰ってくるから。涙と残尿を拭いて、気持ちよく見送ってもらいたいものね」
「泣いてないし粗相もしてないけどね」
そんなやりとりを交わし、澤多莉さんは殊更にあっさりとした口調で、
「ま、そんなわけで。ちょっくら行ってくるわね」
「うん……行ってらっしゃい」
かくして。
府中からそのまま空港に向かい、澤多莉さんは遠くの空へと立ったのだった。
具体的に何月何日に帰国するとか一切告げることなく。
瞬く間に時は過ぎ去り、明後日は高松宮記念という金曜日。出会って以来、欠かすことなく二人でレースの検討を交わしてきたGⅠの枠順発表日。
もしかしたらここに来るんじゃないかと、喫茶店『月が丘』に出向いてきた次第である。本来ならば家で寝ていた方が良いのであろうが、矢も盾もたまらず出てきてしまったことに多少の後ろめたさはあるが。
ちなみに、彼女が出国して以来、電話、ライン、スカイプといった通信は一切繋がっていない。モコゲロなんちゃら共和国は短期留学を受け入れている割に、そのような環境が整備されていないのだろうか。
留学。
その言葉を胸で反芻し、つい先ほどよりも深い溜息が洩れ出てしまう。
就職活動の際に有利になるどころか、もはや行っているのが当たり前ぐらいの風潮があり、同期生のかなりの割合が就活を一年後に控えたこの春休みに海外へと飛んでいることは承知していたのだが、唯一の身近な人までとなると、いやがおうにもモラトリアムの終焉が近いことを実感せざるを得ない。
ひょっとしなくても、今は競馬にうつつを抜かしている時期ではないのだろう。
大学三年生にあがる前の春というのは、己の将来というもの、そのために今できることを真剣に考えるべきであり、決して固そうに見える本命馬を打ち倒しそうな対抗馬を探すべき時期ではない筈である。
ここを有耶無耶にしてしまっては、向後の長い人生、落伍者としての日々を送る憂き目に遭うことは想像に難くない。
三度目の、今度は盛大な溜息。
競馬ばっかりやってないで、自分も留学とか考えた方が良いのかな……
カランコロンカランとドアベルが鳴り響く。
来店してきたのは、黒く艶やかな髪をなびかせた、いつものように清楚で美しい澤多莉さん……ではなかった。
いや、澤多莉さんには違いないのだが、僕の知っているお嬢様然とした服装・佇まいの彼女ではなく、何というか、とても異質な澤多莉さんだった。
その出で立ちは何とも形容しがたいものがある。
上半身は野性味あふれる毛皮のジャケットのようなものを着用、下半身にはピンク色の腰みののようなものを付け、髪の上から原色のヘアバンドのようなものを巻いて、左頬に灰色の妙な紋様を書き入れている。
その澤多莉さん改め謎の民族は、僕がいつもの席にいることを認めると、スッとこちらに近づいてきた。いかにも長期旅行用の大きなキャリーバッグを携行している。
その表情は無そのもので、珍奇な格好も相俟って、まったく何を考えているのかわからない。僕は言葉を失くしながらも、こんな具合なのにそれでも顔立ちが美しいことに感慨のようなものを覚えていた。
目を丸くしている僕の対面の席につくと、彼女は口を開いた。
「さあ、いよいよ高松宮記念ね。何しろ短距離だから、ちょっとした展開のあやが勝敗に直結してしまうってことで、ことによっては大荒れもあるんじゃないかしら」
「いやいやいや! 説明して!!」
「説明?」
頷く僕に、彼女はやれやれといった雰囲気で肩をすくめた。
「……ザビ家により国民が扇動され、独立の機運が最高潮まで達したジオン共和国は、ジオン公国を名乗って地球連邦に宣戦布告を……」
「一年戦争の説明じゃなくて、その格好の説明をしてもらえるかな」
「ああこれ? 実はカクカクシカジーカで……」
注文した霧島の黒と白のハーフアンドハーフを飲みながら説明してくれた澤多莉さんによると、これは留学先ではごくオーソドックスな普段着のような服装で、帰国する際にホストファミリーの女の子とユニフォーム交換的なノリで自身の服と交換に及んだらしい。
「勢いで持っていった服全部あげちゃって。しょうがないからこれ着て帰ってきて、空港から直接ここに来たってわけ」
「へえ、すごいねそりゃ……」
二の句が出ない。僕は尋常ならざる人間と付き合っているんだと、今更ながらに痛感する。てか、どんな国に行ってきたんだ。
「何で着替えもしないで、空港から直接来たのかわかる?」
「?」
もしかして、一刻も早く僕と会いたかったからとか言ってくれるのだろうか。
「帰国早々次の予定が立て込んでてね。さっさと高松宮記念の検討済まさなきゃならないのよ」
……まあ、多忙な中、僕と一緒にGⅠの検討をするということを大事に思ってくれてるのだろう。嬉しく思うことにしよう。
「というわけで、つもるお土産話はそのうち。実際のお土産もワシントン条約的なアレで取り上げられちゃったって話もそのうちってことで」
「大いに気になるところだけど……」
「そんなことより競馬よ競馬。向こうでは競馬がなくてとてもつまらなかったわ」
「あ、競馬がない国だったんだ」
「そう。競ヌーしかなくて」
「競ヌー?」
変な格好はしているが、目を輝かせてタブレットの馬柱を見る澤多莉さんの姿に、僕は自分の将来とかはともかくとして、今やるべきことはきっとこの人とともに競馬に全精力を傾けることなんだろうという気持ちになった。おそらく間違っているのだろうが。
「レッドファルクスが阪急杯で着順こそ3着だったものの、素晴らしく強い走りをしていたという噂は留学先にも届いてきたわ。今回ばかりは、あなたの本命も有力と言わざるを得ないわね」
GⅢ戦の結果が、普通に暮らしている限り海外まで届くことは無いとは思うのだが、とりあえずそれは置いておく。
「あ、でも、今回本命は違う馬にしようかなーって思ってるんだけど」
「はあ?」
眉を顰め、左頬の紋様を歪ませる。
「マイルチャンピオンシップの時にレッドファルクス本命にして、ここで買わないあんぽんたんがこの世に存在するって言うの? 怖い」
「い、いや、当然買い目には入れるんだけど、今回もっと狙いたいかなって馬がいて」
「ふーむ」
再び馬柱に目を落とす。画面を指差して1頭1頭丹念に見ながら指を動かしていく。
「コレは前年勝ち馬だけど時計遅くならない限り厳しい、コレはいらない、コレはほんこんさん、コレはおじいちゃん、コレはいらない、コレが強いのは中山のGⅢ以下、コレは……」
指を止め、こちらに顔を向けてくる。
「確かにレッツゴードンキがレッドファルクスより人気しないのであれば、狙ってみるのもアリかもね。昨年の高松宮記念では普通に勝ってて、スプリンターズステークスではクビ差なんで、本来同じぐらいの評価であるべきなのよね」
「うん。鋭い見解だと思うんだけど、僕が本命にしようかなってのは他の馬なんだ」
「あら、ガチガチの馬ばっかり買ってて、競馬界のフォンセ・カガチって悪口言われてるあなたが買いそうな馬が他にいるかしら……」
「完全に初耳だね」
「まさか、体重+18キロで出てきた前走で圧倒的な勝ち方したファインニードルがここでも強いなんて思ってるの? この馬、良い位置とれないとすごく脆いわよ」
「うーん、その見解は議論の余地があるかもしれないけど、僕が本命にしようと思ってるのはこっち」
「ダンスディレクターね。初めからそうだと思ってたわ。くだらない」
突然そんなことを言いだす澤多莉さんに怯んでいるようでは、彼氏など務まらない。
「元々GⅠクラスの実力があるのに、関東までの長距離輸送だと別馬のように弱くなるこの馬が、念願の高松宮記念出走ってことで。ここは絶対に狙いたいところかなって」
「でも、重賞ではシルクロードステークスしか勝ったことないわよ?」
そのツッコミは想定内だ。
「でもよく見て。ホラ、そのシルクロードステークスで去年はセイウンコウセイ、一昨年はビッグアーサーって、その年の高松宮記念勝ち馬に勝ってるんだよ。もし出走できてればってついつい思っちゃわない?」
「わない」
「……」
「だって、条件も意味合いも全然違うレースじゃない」
間髪入れず切って捨てられる。
「そんな根拠でGⅠ実績なしの8歳馬を本命にしようなんて愚かね。自分の愚かさを呪いながら、味噌カツでも食べるといいわ」
「なんだよそれ……じゃあ、澤多莉さんの本命は何なのさ?」
「フフ、競ヌーで鍛えた相ヌー眼がとらえた一頭はこれよ。この馬がGⅠ馬に輝くわ、その名の通りにね!」
澤多莉さんが指差したのは8枠16番・シャイニングレイ。
あら意外なところ。
「あ、今回はそんなメチャクチャな穴馬じゃないんだ。中穴どころというか、穴人気しそうな馬というか」
「ちょっとちょっと、人をむやみやたらに穴馬ばっかり選んでる穴女みたいに言わないでもらえる? まったく、誰かさんはいつになったら私に穴を開けてくれるのかしら」
微妙なことを言い、焼酎グラスに口を付ける。
どのような意図があっての発言か量りかねるが、僕はただうつむくことしかできない。
「もう6歳になるというのに未だに8戦しかしてなくて、成績は【4.0.0.4】のピンかパー。実に面白い馬だと思わない」
「まあ確かにね。まだ真価がわからないし、昨年のCBC賞は1頭だけメチャクチャな脚で飛んできたし、ことによってはここでも勝負になるかもしれないね」
確率がどれぐらいあるかはともかく、とはあえて付け加えない。
「あなたも少しは競馬というものがわかってきたようね。でも今更気づいても手おくれよ。彼女の本命馬に乗っかるなんて、男としてそんなみっともないことはないわ」
別にそんなことないとは思うのだが、まあ、どちらにしてもそうしようとは思っていない。広く買う時にヒモに入れるぐらいなら良いかもしれないが、あまりにも不特定要素の多すぎる馬であり、そもそも本領発揮できたとして、この舞台で通じるかもわからない。
「せいぜい、私の勝利を讃えながら、海老ふりゃあの尻尾でもしゃぶってればいいわ」
「さっきから何言ってるかよくわからないんだけど……」
「あらいけない。もうこんな時間」
時計を見やり呟くと、澤多莉さんは残っていた焼酎を一気に飲み干した。
「そろそろ行かなきゃ。一回帰って、荷物まとめなおさないと」
「荷物まとめなおす? またどこか行くの?」
「ええ」
てことは、今回はいつものように一緒に競馬場へ行き、現地の競馬を楽しみつつGⅠレースをターフビジョンで観戦するということはできないのだろうか。
しかしまあ、却って幸いだったかもしれない。いくらほとんど治りかけとはいえ、万一伝染してしまっては申し訳ない。
「へえ。どこ行くの?」
「名古屋」
「え? もしかしてそれって……」
「たまには東京と中山以外でも現地観戦したいじゃない」
まさかの中京現地観戦とは。驚く僕の方を見向きもせず、澤多莉さんは席を立ち、キャリーバッグを手にとって、唐突なことを言ってきた。
「荷物まとめて品川駅集合ね。今夜の新幹線で行くから」
この人はいつも唐突だ。唐突にこんなことを言ってくる。
「ああもう、顔に書かれたこのラクガキも落とさなきゃいけないんだった」
「あ、それラクガキだったんだ。民族的な何かしらではなくて」
そんなこと言いながらも、急激に緊張が胸にせりあがってきた。
唐突に降ってわいた澤多莉さんとの旅打ち。行先は新幹線で一時間半やそこらの名古屋とはいえ、彼女との初めての旅行。当然これまでの人生で経験したことなどなく、長らく想像の範囲ですらない所業だった。
いや、でも今の僕は……
「まあ、長旅とはいえ、国内なら大体のものは旅先で調達できるし、荷物っても大したものにはならないでしょうけど」
手元のキャリーバッグを見ながらそんなことを言っている。ん? 長旅??
「飛行機の中で思いついたんだけど、楽しみだと思わない? 決まっているのは明日明後日中京競馬場へ行くのと、その次の土日は阪神競馬場に辿り着いていることだけの行き当たりばったりの旅。そうだ、今私が思いついたオリジナル企画なんだけど、行先をその都度サイコロ振って決めるっていうのはどう?」
怒濤の唐突。
これについていけるだけの俊敏な脳神経は持ち合わせておらず、言われていることがなかなか理解できず、軽いパニックに陥る。
そんな中、これだけは言わなきゃいけない、でも言えそうもないなと半ば諦める自分がいた。
僕、風邪ひいてるんだけど。
(つづく)
◆高松宮記念
澤多莉さんの本命:シャイニングレイ
僕の本命:ダンスディレクター
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