第10話 フェブラリーステークス
国生さゆりなる、ごくまれにテレビで見かけることのある芸能人が、かつて絶大な人気を博したアイドルグループの中心メンバーとして君臨していたという事実は、僕にとって『室町幕府の初代管領は斯波義将』というのと同程度の、単なる過去に関するひとつの知識であって、それ以上でも以下でもない。
そもそもかのタレントさんが最も輝きを放っていた全盛期は、実に30年も昔のことだということで、それはもはや歴史の一頁と言っても過言ではない。
そんな歴史的人物が歌唱していた音楽作品は、それすなわち歴史的遺産、かつて確かに存在していた文化の証であり、競馬場にてバレンタインステークスなる特別競走の本馬場入場時に流れてこようものなら、思わず頭を抱えこう叫んでしまうことだろう。
「ヤック・デカルチャー!」
が、今年の僕は昨年までとはわけが違う。
2月のこの季節、バレンタインの雰囲気を漂わせる禍々しいエリアには足を踏み入れぬよう細心の注意を払って行動し、何とか辿り着いた安息の地であるはずの東京競馬場であの曲が流れてくるという不意打ちを喰らい、打ちひしがれるなどという憂き目に遭っていた僕はもういないのだ。
2月16日、僕は今日という日にカッフェエにて女性と待ち合わせをするという、いわばヒエラルキー最上位・バラモンの地位に就いていた。
……いや、まあ、2日前のバレンタインデー当日は家から一歩も出ることなく、唯一顔を合わせた異性であるところの母親にさえ「もう二十歳なんだから今年はチョコ無しね」などと宣告される始末だったのだが。
そりゃないぜアンマー。よくよく考えたら理屈として成り立ってないような気もするし。
しかしまあ、問題はない。
僕はもはや、おっかさんに洋菓子を購入させ、幾ばくなりとも家計を圧迫してしまうような情けない人間ではないのだ。多分ないと思う。ないんじゃないかな……
……ま、ちょっと覚悟はしておこう。
澤多莉さんのことだ、プレゼントなるものはもらうものであって、自分から人にあげるなんて発想は無かったりするかもしれない。
そうでないにしても「どうしてローマで司祭が処刑された日が、1700年後に東洋の島国で女性が男性に贈り物をする日になるのか、納得できるように説明してもらえる?」なんてことを言ってくるかもしれない。いや、どちらかといえば彼女はおそらくそういうタイプだ。
喫茶店『月が丘』の店内はいつものごとく閑散としている。
窓外を眺めると、春は近づいてきている筈なのだが、まだまだ冬枯れ模様。
なんとなく溜息をつく。
生まれて初めて彼女という関係性の人ができてから54日が経過しようとしている。
あの日、現地で見た有馬記念の興奮と感動の余韻のまっただ中、感極まった僕は、つい勢いで傍らの澤多莉さんに言ってしまった。
「さ、澤多莉さんっ!」
「何?」
「ぼぼ僕と、付き合ってもらえませんか⁉︎」
「全然いいけど」
かくして彼女と僕の交際は開始されたわけだが、今のところ恋人同士らしいことはほぼ行われていない。
年越しの瞬間にメッセージを送りあったりもなかったし、初詣は金杯の日の中山競馬場パドック横の馬頭観音だったし、節分に豆まきもしてないし、まだ手も繋いでいない。ましてそれより先に進むことなんて想像すらできない。
そもそも、今日まで大学の試験期間だったため、会う機会も滅多になかった。
一昨日のバレンタインデーの朝には思いきって『今日何か予定ある?』とメッセージを送ったところ、昼過ぎ頃に『家で試験勉強』と返信が来て落胆。『がんばってね^_^』と送り返したが、それには返信が来ずにラリー終了。
結局、付き合う前と同様、僕と彼女を結びつけているのは競馬だけなんじゃないだろうか。
今日ここで待ち合わせしているのも、もちろん明後日に迫ったフェブラリーステークスの検討を行うためである。
決して、試験も終わったしパァっとやって今夜はめくるめく……とかいう話ではない。
もう一度溜息をつき、手元のタブレット画面に目を落とす。
しょうがないから、検討を進めることにしよう。しばらくGⅠもなかったので、事前に二人で意見を交わし合うのも久しぶりのこと。これはこれで悪いものではなかろう。
まあ今回については枠順も出る前から自分の意志は固まっているのだが。
と、ドアベルの音が鳴り渡る。
目を向けると、入店してきたのは麗しの澤多莉さん。冬らしい白いコートに、長く艶やかな黒髪が映えており、つくづくこの人が自分の彼女だなんて信じがたい美しさ。
胸が高鳴る。なんだかんだ言っても、やはりつい期待をしてしまう。
この美しい人が、僕に初めて家族以外からのバレンタインの贈り物をもたらしてくれるんじゃないか。
いや、期待してはいけない。その先にあるのは落胆だ。もし何もなかったとしても、むしろそれが普通で、ガッカリするようなことでは……
葛藤している僕の元に歩み寄ってくる澤多莉さんを見ると、右手に包装紙でラッピングされリボンの付いてる箱を無造作に持っていた。
「はいバレンタイン」
抑揚のない声で言い、箱をテーブルの上に置く。
「あ、ありがとう……」
あまりにあっさりだったため、感激することも忘れ、僕は箱を手にとってみた。
「もし気に入ったら使うといいわ」
「あ、食べ物じゃないんだ、何だろう?」
「ネクタイとゴルフボール」
「……お父さんへの贈り物みたいだね」
付き合いはじめて54日。
いまだにこの人の人間性というか人間像というか、そういうものはまるっきり掴めないでいる。
「さて、いよいよ待ちに待ったフェブラリーステークスね。GⅠがない日々は心なしか寒かったような気がしたわ」
「まあ普通に気温が低い日が多かったからね」
対面の椅子に座り、かねやまという泡盛のロックを注文した澤多莉さんは、早速こちらのタブレットを覗き込んできた。
「あなたの本命はコレかコレね」
馬番⑩と⑭を指差す。
「まあ、そうなんだけど……ていうか、1・2着馬はチャンピオンズカップのときと同じになるんじゃないかなって」
「チャンピオンズカップか、なつかしいわね。惜しくも馬券外したあの日のことが、つい3ヶ月前ぐらいのことのようだわ」
「惜しかった記憶はないんだけど……あと、そんなに前じゃないよ」
マスターが泡盛のグラスを持ってくる。どうでも良いが、この店には無いものはないのだろうか?
澤多莉さんはひと口つけると、軽く息を洩らした。
「それにしてもどうなのかしらね。中京の1800と東京の1600はもはや違う競技とさえ言うわよ。特にこっちは不安視されてるようだけど」
指差したのは、馬番⑩のテイエムジンソク。
「東京も初めてなら、これまで最初の3ハロンが34秒台になるようなレースは経験したことなし、芝スタートも、コーナー2つのレースも初めてときてるじゃない。果たしてこれまでのようにいくものかしら?」
「まあ、その不安は確かにあるんだけど……でも、今回は昨年とかのようなペースにはならないんじゃないかなって」
「どうして? 今回も昨年レースを引っ張ったインカンテーションとニシケンモノノフは出てるわよ?」
「でもインカンテーションは騎手が違うし、あれ以来逃げじゃなくて控えてのレースで結果出してるからここで無理はしないんじゃないかなって。ニシケンモノノフの横山典さんは何やらかすかわからないけど、あの馬が速いペースで逃げても、無理についていく馬はいない気がする」
「ほう」
澤多莉さんがまたグラスを煽るのに合わせ、僕もホットココアをひと口飲んだ。
「元々ダートは前に行く馬が有利なんだし、そこそこぐらいのペースなら、力のある先行馬は残れるんじゃないかなーって」
「なるほどね。それがテイエムジンソクだと」
「うん。でも、完全に前有利な展開だったチャンピオンズカップでも、唯一後ろから飛び込んできたゴールドドリームはやっぱ別格かなって」
「で、結局その2頭がワンツーだと」
「うん。順番は自信がないから、この馬連を本線にしようかなって」
「なるほど。そんな風にガッチガチの馬券買って、結局外すマヌケがいましたって話ね」
始まった。
まあ、こんな固い馬券が彼女のお気に召すわけがないことはわかりきっていたが。
「本当にあなたはツメが甘い。どうしてそこまでわかっていて、頓珍漢な結論を出してしまうわけ? むしろ、出せてしまうわけ? もはや特殊能力者ね」
久々に浴びる毒舌はさておいて、ちょっと気になることを言っている。どこかの段階までは同じ見解ということなのだろうか。
「思いのほかペースが上がらず前の馬に勝機がある。だったらニシケンモノノフが逃げ勝つに決まってるじゃない」
ここのところは、地方交流の、それも短距離を主戦場としている穴馬を挙げ、自信満々の澤多莉さん。
「テイエムジンソクはがんばれば2着か3着には入れるでしょうから。せいぜい複勝でも買っておけばいいわ」
「1.5倍つくかなあ……」
「所詮あなたは1.5倍の人間よ」
「なんかよくわからないけど傷つくなあ」
そんなことを言い合いながら。
ああ、やっぱこれなんだなと。
世の中のカップルらしいことをしてないことを嘆く必要なんてまったくなかった。
何て楽しい時間なんだろう。
澤多莉さんと僕はこれでいいんだ。
本命はさておいて、僕がヒモに考えている馬を聞いたら何て言ってくれるだろうか。また罵詈雑言を喰らうだろうか。
胸を踊らせ、僕はタブレット画面を指差した。
(つづく)
◆フェブラリーステークス
澤多莉さんの本命 ニシケンモノノフ
僕の本命 テイエムジンソク
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