第30話 阪神ジュベナイルフィリーズⅡ


 氷が溶け、グラスの中でカランと鳴ると、それが合図であるかのように、軽快な音楽が流れ始めた。

 僕たちの生まれるはるか前の流行歌であるが、何度か耳にしたことのある、馴染みの曲だった。

 L字型のソファ、僕の斜め前に座る黒髪の美女は水割りのグラスのすぐ横に置いてあったマイクを手にとった。


 澤多莉さんとの交流も一年余りになるが、カラオケに誘われたのは初めてだった。

 自分自身はあまり歌には自信がないのだが、彼女の歌声が初めて聴けるとあって、大いに胸を膨らませて小学生の頃家族で訪れて以来十年ぶりぐらいでカラオケボックスにやってきたのだった。


 彼女の歌声は期待をはるかに凌駕していた。

 上手いなんてもんではない。プロの歌手にもひけをとらないほどの美声と抜群の歌唱力に、僕は呆然とし、心底打ち震えた。

 もしどこかの芸能関係者がこの令嬢然とした美女を発見したら破格の条件でスカウトするだろう。もしそれでデビューに漕ぎ着けたら瞬く間にトップスターになってしまうだろう。

 僕は改めて、本来なら住む世界の違う人と交際させてもらっていることに、僥倖と畏怖を感じていた。


 マイクを口元に近付け、軽く息を吸い込む澤多莉さん。

 歌ってくれるナンバーはプリンセスプリンセスの『Diamonds』

 ご存知でない方は、是非原曲を先に聴いていただきたい。


 前奏が終わり、美しい歌声が室内に、そして聴く者の心に響く。


 ♪アナルに長ネギ

 ♪ぷっさしたおじさん

 ♪ママの不倫相手

 ♪桃白白に似ているんだ ていうか本人


 ♪タピオカブームに

 ♪あいみょんブーム

 ♪次はきっと爆死ブーム

 ♪渋谷の街でJKが 大量爆死


 ♪未来の吉田栄作を

 ♪育て上げる養成所

 ♪入学希望者八人

 ♪一人残らず黒人


 ♪生まれてきて ごめんなさい

 ♪生まれ変わって お寿司になる


 ♪誤認逮捕だね AH(AH)

 ♪ドカベンの四巻 AH(AH)

 ♪読みながらシコってた 名物おじさん


 ♪あのとき感じた AH(AH)

 ♪予感は本物 AH(AH)

 ♪キングオブコメディの あいつの末路


 高らかに歌い上げ、澤多莉さんは潤んだ瞳で虚空を見つめている。


「えーっと……」


 僕がようやく口を開くことができたのは、後奏がかき消えてからだった。


「その歌詞、何?」

「ちょっとうろ覚えなのよね」

「いやいや、『あのとき感じた予感は本物』ってところ以外メチャクチャだったから」

「そうかしら」


 澤多莉さんはまったく悪びれる様子もない。

 彼女の歌声と歌唱力は抜群であったが、何らかのポリシーなのかどの曲もモニター画面の歌詞をまったく見ずにオリジナルで歌っており、まあ率直に言って台無し感が凄いことになっていた。


 テーブルにマイクを置き、代わりにグラスを手にとり水割りに口をつける澤多莉さん。

 ブラックライトがほんのり照らす彼女の姿は、たとえクレイジーな歌を聞かされた直後であっても妖艶に美しい。


「さあ、今の曲をもって、私vs貴方によるプレ紅白歌合戦も前半戦が終了したわけだけど、途中経過はどんなものかしらね? 負けた方は逆立ちして鼻からペンネアラビアータ食べる罰ゲームが待ってるし、緊張するわね」

「今日のカラオケがそういう趣向だったって初耳なんだけど。あと罰ゲームが厳しいよ。辛いし太いし」


 こちらの言葉には耳を貸さず、澤多莉さんは再びマイクを持ち、楽しげにアナウンスを始めた。


「さあ、点数は……ジャカジャカジャカジャカ、ジャン! 33対4で紅組リード」

「何でや! 阪神関係ないやろ!」


 思わず声を張り上げる。

 澤多莉さんが口元を微かにゆるませたのを見て、僕はまんまと誘導に引っかかったことを悟った。


「そうそう阪神といえば、阪神ジュベナイルフィリーズはどうなるかしら」


 内心何じゃそりゃと思いつつ、歌合戦の後半に突入する前に、今度のGⅠレースの検討に入るのだった。


「まあ、どの馬もまだ全然底が見えてないってことで、2歳馬のレースばっかりは難しいわよね」

「去年もまったく同じこと言ってたような気がするけど……」

「なによ。どうせ『まるで古馬のレースなら簡単であるかのような口ぶりだな、このヤリ◯ンビッチ女め』とか思ってるんでしょ」

「後半部分はまったく思ってないから」

「前半は思ってるってことね」

「うっ……」


 言葉に詰まる僕に冷たい横目を向け、


「そんなに人のことをけなすぐらいだから、さぞかしお見事な検討をなさっていらっしゃるのでしょうね。後学のために聞かせてもらおうじゃない」

「ううっ……」


 そんな言葉を吐きつつも、先週2番人気11着の馬を本命にしていた僕を嘲笑うかのような姿勢を見せる、8番人気2着の馬を本命にしていた澤多莉さん。

 もっとも、本命頭固定でしか買っていないので、彼女も馬券は外していたのだが。


 僕は怯みつつも、テーブルに置かれたタブレットに表示されている出走表を指差した。


「まあ人気しそうだけど、クロノジェネシスとダノンファンタジーは前走見る限り相当強そうかなあって」

「どっちも好位や中団から速い上がり使って完勝してきた馬ね」

「うん。まだ使ってる数が少ないからわからないけど、テンも良くて決め手もあるとなると、期待はしちゃうよね」

「なるほどね。じゃあその次ぐらいに人気になりそうなシェーングランツは、スタート悪くて後ろからのレースになるのが厳しいって見てるわけ?」

「まあ重賞勝ってるわけだし有力だとは思うけど、前走は展開向いた部分も大きいのかなって。初めての関西輸送も気になるし」

「ふーむ」


 顎に手を当て、出走表を丹念に見つめる澤多莉さん。


「そうなると、アルテミスステークスではシェーングランツにつかまったビーチサンバの方が今回は面白いのかもしれないわね」

「うん。確かにそうかもしれないね」

「やっぱりこの4頭あたりで決まるかしら」

「うーん、この辺かなって思うけど。まだ1戦か2戦しか使ってない馬が多いから未知数な部分は考えたらキリがないし」

「なるほどね」


 澤多莉さんは鼻で軽く息をつくと、おもむろにマイクを手にとった。


「まんま1番人気から4番人気の馬じゃない。相変わらずくっそつまらない予想をする人間ね」


 なぜかエコーがかかっており、最後の『ね』の音が反響する。


「私の本命馬を知りたいですって? そこまで言うなら教えてあげようかしら」


 と、今度はすかさずカラオケのリモコンを手にとり、素早く入力し送信する。

 ほどなくしてモニター画面に曲名が表示される。本名陽子カバーの名曲『カントリーロード』だった。

 前奏はなく、すぐに澤多莉さんの美しく澄んだ歌声が響き渡った。


 ♪阪神でー 勝つのーはー

 ♪福永かー 浜中かー

 ♪そーれーとーもー ヤスナーリーかー

 ♪早くー 言いたーいー


「いや早く言ってよ。あと岩田騎手は日曜日香港行ってるから」


 一応ツッコミを入れつつも、素晴らしい歌声に聞き惚れたり、歌詞に首を傾げたり。


 ♪サラリーマン やめたくて

 ♪鏡にルージュで 辞表を書いた

 ♪田舎でやりたいこと

 ♪エロい形の大根作り


 ♪カントリーロード 父さんの

 ♪職業は 賽銭ドロ

 ♪真人間に 戻れない

 ♪気がする カントリーロード


 ♪どんなくじけそうな時だって

 ♪常にちくわをくわえてる

 ♪心なしか下半身が溶けてゆく

 ♪戦国大名


 ♪カントリーロード 阪神で

 ♪勝つのは 池添ー

 ♪ガッツポーズ キモそうな

 ♪気がする 池添ー


 歌い上げ、そっと目を閉じ、頭を下げる澤多莉さん。

 静かにマイクを置く姿は、何故か神々しくすらあった。


 ちなみに後から聞いた澤多莉さんの見解によると、池添騎手騎乗のメイショウショウブは新馬戦ではスタート直後に躓き、その次も出遅れており、全く真価を発揮できていなかったという。

 ダートを挟んで、前走のデイリー杯では牡馬の強豪・アドマイヤマーズと良い勝負をしており、実はゲートさえ出れば問題なく勝ち負けというレベルだということらしい。


 それにしても、なぜ替え歌で伝えてきたのか。なぜカントリーロードだったのか。

 まあ澤多莉さんのことなんで別に深い意味なんてないだろう……


「あっ」


 ふとその意味に気付き、思わず間の抜けた声を上げる僕を見て、澤多莉さんは満足そうに微笑んだ。


(つづく)



◆阪神ジュベナイルフィリーズ


澤多莉さんの本命 メイショウショウブ

僕の本命 クロノジェネシス

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