第29話 チャンピオンズカップⅡ

 12月。

 師と呼ばれるほどの高位者ですら忙しく走らねばならないという時期。ましてやまだ何者でもない学生ごときは常に全力疾走していなければならない季節に突入した。

 実際、この時期の大学生というものはとかく忙しい。


 1、2年生は学年末の試験に向けて、学生の本分たる勉強に励んでいる。大昔は大学の定期試験なぞ毎年同じような出題しかされず、代々受け継がれてるアンチョコを入手すれば完了なんて時代もあったそうだが、昨今そんな授業は滅多にない。

 4年生は言わずもがな卒業論文の仕上げの時期。質はともかく量は必須の最終課題をやっつけるのはそれなりに難儀らしい。

 大半の履修を終え、本来であれば残り僅かのモラトリアムを謳歌できても良さそうな3年生とて、就職活動たけなわときている。

 本格的な採用活動が始まる春を待っているのは余程の呑気者だけで、ほとんどの学生は説明会やインターンシップに参加するなど自らの将来のために血道を上げている。


 理系の学生に至っては、それらに付け加え、理学部棟に篭っての研究漬けの日々だという。

 実に三割もの留年率を誇る物理学科の学生が、身につけている白衣以上に蒼白な顔色でキャンパス内を彷徨している姿は、この時期の風物詩となっている。


 そんな誰しも身辺多忙でキリキリ舞いしているこの時期に、いくら土日とはいえ旅行に行っちゃう奴、しかも競馬なんてやっちゃう奴、しかも彼女づれの奴、なんて者は果たして存在して良いのだろうか。

 窓外にそびえる日本一高い山を眺めつつ省みる。


 目の焦点を手前にずらすと、黒髪のロングヘアーが窓からの光を受けて煌めき、透きとおるような色白の肌に、整った目鼻立ちを有した完全無欠に美しい女性の横顔。薄い橙色のセーターが寒い季節にほのかな暖かみを与えてくれる。

 大学三年生でありながら就職活動もせず、隣にこんな人を連れ、昼は競馬、夜は名古屋メシという旅行を楽しもうという奴。どう考えても許される筈がない。


 宇宙一の果報者であることの幸せと表裏にある不安な思いをこちらが抱えていることなど知る由もなく、隣の澤多莉さんはシューマイ弁当をアテに缶ビールを飲みながらスポーツ新聞を読んでいる。

 いやそれはサラリーマンの人が楽しむやつだから。


「5年で30億かぁ。野球選手って儲かるのね。ちょっと今日から素振りでも始めてみなさいよ」


 声もまた透きとおるように澄んでいるのだが、言ってることはこんなんだから困ったものではある。


「うーん、ちょっと今からじゃ難しいんじゃないかな」

「あきらめるのはまだ早いわ。こんな言葉もあるじゃない。『あきらめたらそこで人生終了・廃人確定だよ』って」

「あの先生そんなひどいこと言ってたかな」


 澤多莉さんはスポーツ紙の記事を示して食い下がってくる。


「でも5年で30億ってことは、定年まで40年と考えても240億よ。それだけあれば割といい暮らしできるんじゃない?」

「あぶさんばりに現役続けないといけないよねそれ」


 そもそも新卒で職に就けるかも甚だ不安なのだが。


「ま、あなたは丸選手どころか、丸出だめ夫ってところだもんね」

「……」

「さ、綺麗にオチたところで、GⅠの検討でもしましょうか」

「いやいやいや、クオリティにだいぶ疑問があるよ」


 澤多莉さんは何故か若干のドヤ顔を決めながら、スポーツ紙をめくり競馬欄を開くのだった。


「ダートはちょっと相性悪いのよね。昨年のロンドンタウン、今年のフェブラリーステークスのニシケンモノノフと、惜敗続きで」

「どっちもしんがり負けだった記憶があるけど」


 まるで芝なら相性良いかのような言い方も気になったが、それ以上の追及は避けておく。


「それにしても、芝と違ってトップホースがみんな集まってきてエエわぁと思ってたらゴールドドリームが回避してしまったのは残念な限りね。折角人気吸い取ってくれるかと思ったのに」


 出走できたらおそらく勝ち負け必至だったろう前年勝ち馬をバッサリ切る予定だったらしい。さすがというか無謀というか。


「というわけで、あなたみたいな典型的養分がハエのようにたかる馬はルヴァンスレーヴ一択になってしまったわけだけど」

「随分な言われようだけど、僕の本命はルヴァンスレーヴじゃないよ」

「なんとっ」


 目を丸くしてみせる澤多莉さん。


「あなたが1番人気以外を本命にするなんて。天地がひっくり返って、高須院長が左寄りの発言を連発するんじゃないかしら?」

「そこまで言われるような実績ではないつもりだけど」

「あら、それはおみそれしたわ」


 と、口元に笑みを浮かべる。


「てことは、2番人気になるであろうケイティブレイブなんかももちろん選ばないわよね。直線長い中京だけどコーナー4つだしメンバー的にもペースは流れず、好位につけられる実力馬に有利な展開になりそうだとか、福永はこの馬に関しては自信を持って乗っているとか安直なことはまさか考えないでしょうし」

「……今おっしゃられた理由でケイティブレイブが本命です」

「つくづくどうしようもない男ね」


 毒づきつつ、スポーツ紙の馬柱を指差してみせる。


「枠順をよく見てごらんなさい。ノヴァとソアのダブルサンライズに挟まれてるじゃない。ゲートを出た瞬間にクロスボンバーを喰らってメンコを剥がされるのが関の山よ」

「そんなヘル・ミッショネルズみたいなマネしてくるかなあ」

「だったら私の本命はこれしかないわね」


 指差したのは、7枠12番。


「こっちも完璧超人のジ・オメガマン、と見せかけてその隣の、特にこじつけが思いつかないウェスタールンドよ」


 枕詞は放置して、澤多莉さんの本命馬の馬柱を改めて見てみる。


「うーん、確かに2走前の末脚を見ると怖い1頭ではあるけど、どうかなあ……」

「もしかして夏前後の快進撃がフロックで、武蔵野ステークスで化けの皮が剥がされたとでも思ってるの? あれこそ走ってる途中で隣の馬にパロ・スペシャル喰らって走る気なくしたに過ぎないじゃない」

「まああの不利は確かに大きかったかもしれないけど」

「それに、ダートではそれまで右回りのコーナー4つのレースしか使ってなかったのを、急に左回りのコーナー2つだから戸惑った可能性もあるわね。察するにもう半周あると思ってたんじゃないかしら。逆山田ってところね」


 相変わらずトンデモな理論をそれらしく言っている澤多莉さんを見ていて、ふとどこか遠くで思いがよぎる。


 好きな人と旅に出て、隣の席でこうして喧々と競馬の検討をして。

 こんなのバチが当たることはまず間違いない。


 まあどうってことない。

 たとえ凄惨な罰が待っていようと、この幸せの前では些事でしかない。



(つづく)



 ◆チャンピオンズカップ


 澤多莉さんの本命 ウェスタールンド

 僕の本命 ケイティブレイブ

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