第28話 ジャパンカップⅡ

 カーテンの隙間から差し込む光の強さに、ああ今日はいい天気なんだな、明後日はパンパンの良馬場になるかななどと、起き抜けの頭で朧げに考える。

 枕元の時計を見るともう正午近かった。まあ大学も三年次になれば、祝日に限らず朝から出かけねばならない生活でもないのだが、それにつけてもよく眠った。


 のっそりと起き出し、ひとつ伸びをする。

 少しずつ覚醒してゆく頭で今日はこれから何をしたものかと考えながら、自室から階下へと降りていく。

 授業は無いので、月が丘あたりで澤多莉さんと落ち合い、ジャパンカップの検討をすることになるだろうか。

 それなら朝食どころか遅めの昼ご飯になってしまうが、またマスター特製のピザでも食べようかな。あ、でも母親が何か作り置いてくれているだろうか。


 そんなことをつらつら思いながら、立て付けの悪いドアを開けると、リビングのテーブルには案の定食事の用意がされていた。

 3連休初日の本日、両親と妹は群馬だか栃木だかへと温泉と紅葉狩りを楽しむ旅行に出かけている。

 確か相当朝早くに出立すると言っていたはずだが、日曜に東京競馬場へ行くのでと参加を断った不肖の息子のためにこうして食事を作っておいてくれる。まったく母親という存在には申し訳なくも頭が下がるばかり。


 テーブルを彩るのは、ラップのかかったいつものおにぎりの他、ポテトサラダ、ホッケの開き、焼き鳥に枝豆にイカの塩辛、鳥の軟骨揚げらしきものまである。休日のブランチとしては非常に豪華な食卓といえるだろう。

 ていうかこれ……


「……なんか、酒のつまみ系ばっかりのような」


 思わずひとりごちる。

 と、不意にキッチンの方から声が上がる。


「やっと起きたの? 感謝されるべき勤労もしていないくせに、こんな時間まで惰眠を貪るなんて、思い上がった人間もいたものね」


 母親も年齢の割には若い方だと思うが、それよりも遥かに若く透きとおった、自分と同世代ぐらいの女性の------この家の中で聞こえてくるはずのない声だった。


「大方とんでもない淫夢でも見ていて、下着の処理に困っていたんでしょう。まったく異常性欲者ときたら始末に負えないわね」


 などと言いながら、ブルーのセーターに薄いピンク色のエプロンを付けた女性がキッチンから現れ、もう一皿リビングへと持ってくる。


「ささ、澤多莉さん⁉︎」

「いかにも澤多莉だけど」


『それが何か?』とでも言わんばかりに答えると、澤多莉さんはチーズと生ハムが盛られたお皿をテーブルに置いた。

 美人のエプロン姿というだけでも強烈なのに、長い黒髪を後ろで束ねており、見え隠れする白いうなじはもはや罪深くさえある。


 我が家にいきなりいる筈のない人が出現したことへの驚愕とその美しさへの驚嘆とで、二の句が継げないでいると、澤多莉さんはハッと何かに気付いたようにポンと手を打った。


「そうそう、こういうシチュエーションではこう答えるんだったわね……そうです、ワタスが、ヘンな澤多莉です!」


 表情ひとつ変えずにそんなことを言う澤多莉さんが、妙な踊りを始めてしまう前にかろうじて口を開くことができた。


「どど、どうして……」

「どうして生きているのかって? その答えを見つけるため、って言ったらカッコつけすぎかしら?」

「それは確かにカッコつけすぎだけど、そうじゃなくて、どうしてここに?」

「恐ろしい人外魔境かと思いきや、意外にも公共交通機関だけでたどり着けたわ」


 噛み合わない。今日に始まったことではないが。


「そうじゃなくて。何でうちにいるのって聞きたいんだけど」

「あら、ひどいこと言うわね。恋人に対して招かれざる客であるかのように」

「いや、そういうつもりじゃないけど……」


 思わず口ごもる僕に、澤多莉さんは静かに一歩詰め寄ってきた。


「自分は私の家に何回もズカズカ上がり込んで狼藉し放題のくせして」

「……2回しかお邪魔したことないし、特に不埒な行動はしていないつもりだけど」


 言い返しながらも、一歩後ずさってしまう自分が情けない。


「そうだったかしら? まあどうだっていいけど」


 澤多莉さんは踵を返し、またキッチンの方へ。食器棚を物色しながら口を開く。


「挨拶しとかないといけないかなと思って」

「え?」

「こないだあんなことがあったんだし、あなたのご両親に挨拶ぐらいはしとかないと、って思ったの」


 意味ありげな含み笑いを見せてくる。

 言わんとしていることを理解すると同時に、先日の遊歩道での出来事がフラッシュバックされ、一瞬で顔から高熱。


「でも、タイミングが悪かったみたいね」


 どこからか取り出した紙切れをピラピラと見せてくる澤多莉さん。

 留守中は作ったおにぎりと冷蔵庫の中のものを適当に食べときなさいというメッセージが記された、我が母からのありがたい書き置きだった。


「この書き置きによると、帰ってくるのは日曜日の夜ですってね。まったく良いご身分だこと」


 随分と大きなお世話なことを言ったと思ったら、またこちらに意味ありげな流し目を送ってくる。


「ま、むしろタイミングが良かったのかもしれないけど」


 我ながら情けないまでに激しく動揺し、全身から汗が拭き出てくる。


「そ、それはちょっとどういう意味かわからないけど……あ、でもよく住所わかったね? 前に指定席当選のハガキかなんか見せたっけ?」

「知り合ってもう一年以上よ。言葉の端々で大体わかるわよ。昔ネコを飼ってたとか、おやつに黒糖フークレエがよく出てたとか」

「何のヒントにもならないと思うけど……」


 なんてやりとりしていて、ハッと気が付く。


「そ、そういえば鍵は? 家の鍵はどうやって開けたの?」

「鍵なんて掛かってなかったわよ。不用心ね」

「え? そ、そうなの?」


 珍しい。我が家の両親はともに鍵をかけ忘れたりするタイプではない筈なのだが、連れ立っての外出ということで浮き足立ってしまったのだろうか。


「正確に言えば、あんな鍵なんて私にとっては掛かってないも同然だったわ」

「特殊な技術を使ってた!」

「そんなことより、彼女のエプロン姿見て、何も言うことはないわけ?」


 そんなことということもないと思うが、エプロンの裾をつまみ、首を傾げてみせる澤多莉さんの御姿には、もちろん何の感想もないどころか、男子の本懐とさえ言っても過言ではなかった。


「『かわいいね』とか『めちゃめちゃかわええやん』とか『キャワイイねー』とか言ってくれてもいいんじゃない?」

「もうちょっと語彙力があると思ってもらえるとありがたいんだけど」

「まあそんなことより、ブランチでもしながらジャパンカップの検討といきましょう。昨今はコンビニフードもなかなか充実してるみたいね」

「あ、これ全部コンビニで買ってきたものなんだ」

「書き置きと一緒に五千円札が置いてあったから使わせてもらったわ」

「それ広義の泥棒なんじゃないかなあ……」


 などと言いつつ。

 起き抜けにコンビニの惣菜をアテにビールなぞ注いでもらって、日本競馬最高峰とされるレースの検討をすることになったのだった。


「まあ正直今回は馬柱を見るまでもないわね。あなたをはじめとした凡百の輩は、1枠1番の3歳牝馬が本命なのでしょう」


 ホッケの骨を器用に解体しながら言う澤多莉さんに、僕は抵抗なく頷いた。


「うん。今までは3歳牝馬の戦いだったわけでおすの古馬に通じるかわからないって難癖つけることもできるけど、これまで1頭だけ違う動物なんじゃないかって勝ちっぷりできてるし、ちょっと逆らえないかな」

「でも最内枠ってのがアダになることもあるんじゃない? 今まで揉まれる競馬したことないし、しかも相手は歴戦の牡馬たちよ。意外な脆さを露呈するってこともあり得るんじゃない?」


 言いながら焼き鳥を串から外していく澤多莉さんに、僕はこれまた首を縦に振る。


「うん、その心配は否定できないけど、でも内側を距離ロスなく通れるメリットの方が大きいんじゃないかなって」

「なるほどね。まあ、これだけのスターホースを内に閉じ込めようって根性のある陣営もそうそう無さそうだしね」


 言いながら枝豆の中身を次々殻から出していく澤多莉さん。

 いや、それ枝豆の醍醐味が台無し。


「じゃあ本命はアーモンドアイね?」

「うん、勝つ力があるとしたらスワーヴリチャードだけだと思うけど、前走は不利があったにしても負けすぎだし、いつも調教で時計出す方なのに今回はも一つみたいだし、ちょっと難しそうな気がする」

「なるほどね……」


 考え込んだ表情を見せながら、おにぎりを割り、中にイカの塩辛を詰め込む澤多莉さん。

 いやちょっと何してるの。


「確かにサトノダイヤモンドは前走がメイチだったっぽいし、キセキも残れたとして3着っぽい臭いが漂ってるし、ここはミッキースワローしかいないか」

「ん?」


 妙なことを言いだす。


「今まで右回りしか走ったことないけど、実はミッキースワローって左回りがものすごく強いじゃない?」


 そして何の根拠もないことを言い出す。


「マークが最内のアーモンドアイに集まる中、どさくさに紛れて外側まわして勝ってしまうのが横山典という男よ」

「まあ全くないとは言えないけど……格負けしてるんじゃないかなあって思うんだけど」

「あらあら。格だなんて下らないことを言うわね。競馬に限らず勝負は格で決まるわけじゃないわ。現に谷村部長の方が能力も人柄も大原社主を上回っているじゃない」

「その例えはよくわからないけど」


 澤多莉さんは自信ありげに微笑むと、ビールジョッキを豪快に傾けた。

 ちなみに我が家にジョッキは備えておらず、これは彼女が持参したもの。両親への挨拶に何故このようなものを持ってきたのかは不明である。


「ま、レースの検討はおいおい詰めていくとして、食事を済ませちゃいましょう。食べ終わったら買い物にも出かけたいし」

「買い物?」

「ええ。まさかご家族がいないなんて思ってなかったから。お泊まりグッズ持ってきてなかったのよね」


 平然と言うと、軟骨の唐揚げを自分の小皿に取り分け、レモンを絞りマヨネーズをかける。サッパリにしたいのかコッテリにしたいのかよくわからない。


 僕はといえば挙動不審。

 ポテトサラダを口に詰め込み、ビールで流し込んでゲホゲホむせるという失態を披露してしまう。


 そんな姿を微笑を浮かべて見つめる美しい彼女に、背中の窓から後光が差して、僕はひれ伏す他なかった。



(つづく)



 ◆ジャパンカップ


 澤多莉さんの本命 ミッキースワロー

 僕の本命 アーモンドアイ

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