第31話 朝日杯フューチュリティステークスⅡ

 窓外を見やると冬枯れの景色。水色の空に木々の枝が剥き出しで伸びている様はどこか物悲しい。

 ここ何日かで急激に寒さが増し、ああ冬もとうとう本格的にやってきたかと思ったが、ここ哲学Dの講義が行われている大教室の中は様相が異なっていた。


 暑い。暖かいを通り越して暑い。むしろ熱い。暖房の設定は何度になっているのか、何か冷凍品の解凍でもしているのかというぐらいに、教室内はムンムンとしている。


 最後列から見渡すと、出席している学生たちは皆一様にコートやらダウンジャケットやらといった衣類を脇におき、可能である限りの軽装で席に着いていた。

 多くの者はシャツの袖をまくっており、中には用意が良いのかタンクトップ姿の者もいるが、それでも涼気を求めてほぼ全員がバインダーなどで我が身を扇いでいる。

 僕の前の席にいる女子などは、しばらくは頑張っていたものの、耐えきれなかったのか上着を脱ぎすてて、おそらくは見せるタイプではないであろうキャミソール姿という大変眼福(に思う人もいるであろう、僕はそうでもないけど)な格好をしている。

 僕もまた上着は早々に脱ぎ、上は半袖Tシャツ一枚となっていたが、それでも焼けつくような暑気にうだりきっていた。


 教壇の老教授は、いつもと変わらず学生たちの様子に頓着することなどなく、熱弁をふるっている。

 本日の講義のテーマは『新世紀エヴァンゲリオンの哲学と衒学』と、還暦を過ぎた教授としては相変わらず攻めた題材で展開していた。

 御多分に漏れず中学高校時代は、僕もそのアニメーション作品に傾倒したクチで、自身が生まれる前に放映していたテレビシリーズから、未だに完結しそうな気配のない新劇場版まで見漁って、ああだこうだと考察してみたりもしたものだった。

 なので懐かしさは多いにあったものの、まあそういった類いに興味を惹かれるのは未成年までであろう。僕は講義を聞き流しつつ、手元のタブレット画面の出走表に意識を集中しようとするが、どうにも頭がぼんやりする。


「随分と調子が悪そうね。ただでさえ性能的に劣るコンピュータが熱で回路をやられてしまった、みたいな具合になってるわよ」


 横から特に心配する風でもなく言ってくるのは澤多莉さん。

 長い黒髪のこの美女は、サウナのごとき室内において、平然と涼しげな表情をしている。


「うん、熱で回路をやられてるってのは満更比喩じゃないかもしれない……あっつい」

「あの教授が年齢にそぐわず極端な暑がりのみならず極端な寒がりで、12月から2月の間は暖房の設定温度を34℃にするって情報を得てなかったの? これだからPC-98は」

「一世を風靡した名シリーズをバカにするなぁっ」


 指摘も力弱くなる。

 それにつけても暖房というのはそんな高い温度に設定できるものなのか。というよりここまで温度が上がると、今度は極端な暑がりの部分に抵触するんじゃないかと疑問は多々あるが、追及するだけの気力もない。


「競馬も寒暖対策も一緒。きちんと情報を得て、適切に対応できたものが勝利を収めるのよ」


 言いながら、自身が身につけている衣類の襟元を軽くつまんでみせる。

 今日の澤多莉さんは、薄い絹のような素材でできた水色のローブ状の服を着ていた。

 確かに涼しげに見えるし、色白美人の澤多莉さんによく似合ってもいるのだが、大学のキャンパス内にいる者としてはかなり特異な格好でもあった。


「随分変わったもの着てるけど……何なのそれ?」

「これ? 水のはごろもだけど?」

「実在するんだそれ!?」


 目を丸くする僕を、不思議そうに眺める澤多莉さん。


「当たり前じゃない」

「ど、どこで売ってたの?」

「どこって、テパにいる職人さんのところに、あまつゆの糸と聖なる織り機を持参して作ってもらったに決まってるじゃない」

「決まってるんだ?」


 さも当然であるかのように頷く澤多莉さんは、更に付け加えてくる。


「ペイペイでの支払いで20%還元してもらったわよ」

「そんな職人さんまで加盟してるの!?」

「ところで、ペイペイって言葉の響きが何だか卑猥に聞こえるのって私だけかしら?」

「たぶん澤多莉さんだけだろうね」


 この人はやはり底知れないと恐れをなしつつ、いつものごとくGⅠの検討に入る。


「まあ正直、今回は検討の余地がないというか。素直にグランアレグリアが強いんじゃないかなって」

「あら? やっぱり思考回路が焼き切れてるんじゃない? 不安要素だらけの過剰人気馬に手を出すなんて」

「初輸送の牝馬で右回りも初めて、多頭数で内枠に入るのも初めてだっていうのは確かに不安要素かもしれないけど、前走の勝ちっぷり見ると、やっぱり飛び抜けて強いように思えるけど」


 僕の言葉を聞き、澤多莉さんはやれやれとばかりに肩をすくめる。


「まったくわかってないわね。グランアレグリアは輸送が今回初めてだし、今まで東京でしか走ってないから右回りも経験なし、しかも今回多頭数で内枠なのよ」

「いや、それ全部言ったから。わかった上で本命なんだって」

「あらそうなの」


 とぼけた顔して首を傾げてみせる澤多莉さん。そんな可愛らしい仕草に負けるものか。


「じゃあ澤多莉さんはどの馬が本命なの?」

「フフッ、あなたとは積んでるCPUが違うってところを見せてあげるわ。トミーのぴゅう太とは私のことよ」


 自信満々によくわからないことを言いながら、改めて出走表を見る澤多莉さん。


「うん、今日の服装的にはアドマイヤといきたいところだけど、やっぱりこっちね」


 そう言うと、画面を指差した。

 細く白い指が差す馬名は、ニホンピロヘンソン。


「圧倒的人気のグランアレグリアが前走みたいにまた出遅れて後方からのレースになったとしたら、なかなか他の馬たちは動きづらい、膠着したレースになるはず。それぐらいは段ボール箱を四角く切り取ってパソコンだって言ってるあなたにもわかるでしょ?」

「何かいきなり工作になっちゃったけど。まあレースについてはわかるよ」

「そうなったら、後ろは仕掛けるタイミングが遅れてしまって、先行した馬が残ることになるってのは、チーズバーガーパソコンのあなたにもわかるでしょ?」

「急にソフマップのオリジナルPC? 」


 要するに澤多莉さんが言うには、穴を開けるとしたら後ろより前の馬、特にニホンピロヘンソンは前走で出遅れからテン速く逃げる形をとり、かつ上がりも最速という、物凄く優秀な逃げ馬の可能性があるとのことだった。


「まあ絶対にないとは言えないけど……」


 そう、競馬に絶対はない。

 どうにも僕には固く決まるように思えて仕方ないが、勝負は蓋を開けてみるまではわからない。

 だからこそ競馬は面白い、よし今回はどんな馬券を買おうかと密かに闘志を新たにする。


 と、澤多莉さんが変わらぬ淡々とした口調で僕に語りかけてきた。


「今年のGⅠも残り3つ、チャンスも残り3回ってことだし、ここは何とか当てたいところよね」

「チャンスって?」

「あら、言ってなかったかしら? 私、もしこの秋のGⅠで一度も馬券当たらなかったら、あなたとお別れしようと思ってるのよ」


 あっさりと、涼しげな表情を一切崩さずに言ってのける澤多莉さん。

 あまりの発言に理解が追いつかない。


「……………………………え?」


 かろうじて息が漏れるような声が出る。


「ちなみに、お別れっていうのは男女交際を取りやめるって意味ね」


 こちらの目をきちんと見据える澤多莉さんの瞳には、一点の曇りもない。


「あなたのこと嫌いじゃないし、できることなら交際は継続したいと考えているから、どうにかして当てたいものね」


 気が遠くなりそうなのは暑さのせいもあるのだろうか。


 混濁してゆく意識の中、ニホンピロヘンソンの浜中騎手にはどんな斜行をしてでも勝ってほしいなどと、競馬ファンにあるまじき念を抱いてしまった僕を、どうか許してほしい。


(つづく)



 ◆朝日杯フューチュリティステークス


 澤多莉さんの本命 ニホンピロヘンソン

 僕の本命 グランアレグリア

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