第32話 有馬記念Ⅱ

 1枠1番オジュウチョウサンから8枠16番サクラアンプルールまで。

 日曜日に夢へと走る16頭の馬名を今年の時事ワードに絡めつつ読み上げるアナウンサーの名(迷?)調子を聞き終え、僕は無言でワンセグを切り、タブレットの画面を切り替えた。

 つい先ほど枠順が決まったばかりの、第63回有馬記念の出走表が表示される。


「ふーむ」


 正面に座る澤多莉さんは椅子の背もたれに身体を預け、考え深げな面持ちで窓外へと目を向けた。

 つられてそちらを見やると、番組開始時は明るかった外の通りにはすっかり夜の帳が下りている。


 喫茶店『月が丘』はいつものごとく閑散としており、僕たちがいつものテーブルで有馬記念枠順抽選会の生中継を視聴開始してから終了するまで、ただの一度もドアベルが鳴ることはなかった。

 経営状態はどうなっているのか大いに気掛かりなところであるが、今は他者の心配をしている場合ではない。こちらも深刻な、もしかしたら人生最大かもしれない大きな問題に直面しているところなのだ。


「ちょっと天気予報の画面にしてもらえるかしら?」


 澤多莉さんの要望に応え、タブレット画面を操作し、天気予報のサイトを表示する。

 当然のことであるが、対象エリアは千葉県船橋市にセットされている。


「土日とも降りそうな降らなさそうな微妙な感じね。まったく天気予報の精度が100%になるのと、人類がAIに制圧されるのとどっちが先になることやら」


 何やら穏やかでないことを言っているが、表情は真剣そのものだった。

 それはそうだろう。これから我々が取り組むのは、一年の総決算と言っても過言ではないグランプリレース・有馬記念なのだ。天候ひとつにも過敏になるのはむしろ当然のこと。


 それだけではない。


 澤多莉さんと僕との日々がこれからも継続していくか。それとも終了となるか。


 ホープフルステークスもあるにはあるが、これまでの2歳重賞における澤多莉さんの本命の選び方と結果を見ていれば、まず望みを持てないことは自明。

 実質、この有馬記念が最後のチャンスであることはほぼ間違いないだろう。


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 秋のGⅠで一度も的中しなければ別れる。


 唐突に言い出した澤多莉さんだが、彼女なりに思うところがあったらしい。


「思うにこのエリート馬券師の私がこうも負け続きなのは、自分の中で馴れてしまったことが原因だと思うのよね」

「正直負けてもそんなに悔しく感じなくなってきたというか」

「ここはひとつ負けたら取り返しのつかないものを何かしら賭けようかと思って」

「全財産っていうのも考えたんだけど、それだけ注ぎ込んだらおそらく単勝元返しになってしまうし」

「じゃあ何を賭けるか。私にとってそれなりに大事なもの。失ったら『あーあ』ぐらいには思うもの……」

「あなたという存在がまあ丁度良い塩梅かなって」


 結構な言われようにショックを受けている暇などなく、僕は澤多莉さんを翻意させるべくあらゆる言葉を尽くした。


 確率はいつか集約してくるもので、いずれ当たる時は必ず来ること。

 秋のGⅠが終わっても、またすぐに春のGⅠはやってくること。

 そもそもこの秋、澤多莉さんの本命馬の複勝回収率は150%を超えており、馬券の的中こそしていないものの、むしろ賞賛されるべき素晴らしい結果を出しているということ。


『競馬の結果なんかで別れたりしたくない』という言葉は、競馬を通して出会い結びついた僕たちにとって、相応しくないと思い、すんでのところで口から出そうになるのを押しとどめた。


 しかし、澤多莉さんの決意は固く、僕にはそれを翻すことはできなかった。


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 澤多莉さんはグラスに口をつけ、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。長く艶やかな髪がかすかに揺れる。

 この美しい人の、普段の令嬢然とした佇まいとはまた異なったどこか妖艶な仕草を前に、僕の胸は一層波立つ。

 そんな思いを知ってか知らずか、目の前の美女は軽く嘆息してみせた。


「それにしても、あのお方の引きの強さには脱帽するしかないわね。あのゴッドハンドでどれだけの女を泣かしてきたことやら」


 姿形や所作は妖艶でも、話す内容は単なる下世話なエロでしかないのは玉に瑕なのか、むしろ魅力の一部なのか。


「うーん、武豊さんのクジ運の強さに感動して泣いてしまう女性さえいるんじゃないかってことを言ってるんだろうけど、表現に語弊があるんじゃないかと」


 一応指摘しておく。


「そう? じゃああのゴッドフィンガーでどれだけの女をイカせてきたのやら」

「…………」

「何溜息なんてついちゃってるのよ? 幸せが逃げていくわよ」


 対面の男性にジト目で見られていることなど気に留めるでもなく、澤多莉さんはグラスをあけるとフレンチ・コネクションのおかわりを注文した。

 品書きにはコーヒー各種と紅茶類といくつかのジュースしか記載されていないこの喫茶店で、何故こんなカクテルが当たり前のように出てくるのか甚だ疑問ではあるが、今はそんなことを気にかけている場合でもない。


 確かに、このままでは幸せが逃げていってしまいかねない。

 それを回避するためには------


「ま、これでオジュウチョウサンの馬券が売れてくれるなら、こんなにありがたいことはないわよね」


 言いながらタブレット画面の出走表、1枠1番の馬名を指差す。

 おかわりのグラスが届くと同時に、本題へと突入。


「さすがにこれまでとはメンバーが違いすぎるし、単純に1000万条件をギリギリで勝ち上がった7歳馬が人気してしまうなら買えないわね」

「う、うん、まさしくそう思う」

「例えて言えば、実質は前座レベルの元林家いっ平が笑点のメンバーに入ってしまうようなものね」

「うわあそれは大惨事だ」


 正直例え話はよくわからなかったが、全力で賛同の意を示す。

 僕としても、挑戦に敬意は表すものの、さすがに勝ち目はないと考えている。枠順抽選の豪運を目の当たりにして、ここ本命にするなどと澤多莉さんが言い出したらどうしようかと内心冷や冷やしていた。


「となると残りの15頭で勝つのはどの馬か見渡してみると……あらカンタンじゃない」


 馬名をひと通り指でなぞり、澤多莉さんは自信満々といった含み笑いを浮かべる。


「そう? どの馬が本命なの?」

「あら失礼な人ね。女性に年齢と体重と本命馬を尋ねるのはマナー違反よ」

「今まで31回ぐらいは本命馬聞いてきちゃってたけど」

「そう。私たちもそれなりに歴史を積み重ねてきたものね」


 サラッと言うと、新しいグラスに口を付け、余人には感情が読みとれない表情でグラスの中の丸氷を見つめる澤多莉さん。

 一方の僕は、その言葉に打たれていた。そうだ、歴史というのは些か大仰な言葉かもしれないが、澤多莉さんと僕の積み重ねてきた日々をここで終わらせるわけにはいかない。


「どうしても私の本命が知りたいのなら、まずはあなたの本命からでしょ。さあ言いなさいよ」

「あっうん、まあ構わないけど」

「! ちょっと待って」


 ハッと何かを思い出したような表情をし、こちらに手のひらを向け制止してくる澤多莉さん。


「な、何?」

「そういえば、父親のコレクションしていた漫画本でこういう感じの展開がよくあったような気がするわ」

「漫画?」

「そう。

『わ、わかったよ、オレが先に見せるから、そのかわりお前も絶対見せろよ』

『わ、わかってるよ……』

『ほ、ホラ』

『あ……こんな形してるんだ』『わ、大きくなってきたよ』

『し、しょうがないだろぉ』

『わ……カチカチだよ』

『やっ約束だかんな。お前のも見せろよっ』

『しょうがないなぁ……』

みたいなやつが、父の書棚に何冊もあったわ」

「…………」


 何を言ってるんだろうこの人は。透き通るような美しい声で一人二役までして、一体何を言ってるんだろう。


「まあそれはさておいて、さっさと本命馬を教えてもらっていいかしら?」


 何故か責めるような口調で言ってくる。


「う、うん……今回、僕の本命は、も、モズカッチャンかな」

「モズカッチャン?」


 細い眉をピクリと上げ、訝しげな表情でこちらを見てくる澤多莉さん。


「な、なに?」

「いえ、あなたにしては随分思いきった予想だなと思って」

「そ、そうかな、実績的には十分足りてるし、良い枠入ったし、何しろ鞍上はミルコ・デムーロだよ」


 背中に汗がしみ出すのを感じながら、弁解のように説明する僕を、澤多莉さんは冷ややかな目で見つめる。


「でも前走は前と結構離された3着だったけど」

「で、でも、熱発明けで本調子じゃない中3着に粘ったって見方もできるし、元々叩き良化型だから今回は良くなってるって思うんだ」

「ふーん」


 何やら見通すような目を向けられ、僕はますます冷や汗をかく。

 別に嘘をついているわけでない。言ったとおりの理由でモズカッチャンはだと思っている。


「まあ、あなたがご開チンしてくれた以上、私もさらけ出さないといけないわね」


 妙な表現はさておいて、ここが肝要。僕は澤多莉さんの瞳をしっかりと見据えた。


「レ……」

「レ?」


 思わず身を乗り出す。これは作戦が上手くいったかもしれない。


「レ……」

「うん、レ……?」


 澤多莉さんはゆっくりと口の形を変え、次の音を発した。


「レスバトルしましょうか」

「レスバトル?」


 思わず呆けた声を出す僕に向け、身振り手振りを交えながら言葉を投げてくる。


「YO、YO、お前の父ちゃん牛泥棒、お前の座席は後ろの方、YEAH」

「…………」

「ほら、攻守交代よ。受けて立つからディスってきなさい」

「いや、そういうの得意じゃなくて……ていうかそれ、レスバトルじゃなくてラップバトルだから。レスバトルってネット掲示板とかでやり合うやつのことだから」

「そうだったかしら」


 至って真面目な表情で首をかしげる澤多莉さん。まったくとぼけているのか何なのかよくわからない。ていうか、僕の父親が牛泥棒ってなんだよ。


「それで、澤多莉さんの本命は?」


 思わず催促するように尋ねてしまった。致し方ない、澤多莉さんがどの馬を本命にするかで、僕たちの未来は大きく変わってくる。


「ああその話だったわね。そんなの決まってるじゃない。レ……」

「レ……?」


 またそれか、と思う気持ちを表情に出さず、次の言葉を待つ。

 レレレのおじさんがどうのこうのとか、レオパルドンの瞬殺ぶりとか、話題が逸らされる心の準備もしていたが、澤多莉さんの口から出たのは馬の名前だった。


「レイデオロ」

「!」


 やった、上手くいった。思わず歓喜がこぼれ落ちてしまっただろうか。

 実のところ、モズカッチャンは僕の中で二番手。どう考えてもレイデオロが抜けて力上位だと見ている。

 だが、今回に関しては僕よりも澤多莉さんに当ててもらわないと困る。彼女が的中してくれないと交際が終了してしまうのだ。

 基本的に彼女は僕の本命を軽視する傾向にあるので、ここは敢えてこちらはレイデオロを本命にしないという策を弄してみた次第だった。

 おそらく1番人気になるであろう馬を澤多莉さんが指定してくれるかは心配だったが、彼女とて当てたくないわけではない。僕と被らないのであれば選んでくれるんじゃないかと思っていたが、上手くいって良かった。


 もちろん競馬に絶対はないが、これで二人の交際を継続できる可能性はグッと高まった。

 僕は安堵の息をついた。


「……に2回も勝ってるクリンチャーが本命ね」

「……えっ?」


 一瞬何を言っているのかわけがわからず、混乱をきたす。


「クリンチャー? えっ? クリンチャーって、ああクリンチャーか。ええっ、クリンチャー? 何で!?」

「何テンパってるのよ。今言ったとおり、1番人気になるであろうレイデオロに2回も勝ってるのよ。枠も良いし普通に有力でしょ」

「そ、そうかもしれないけど……」


 1枠2番という絶好枠に入ったものの、おそらく9番人気か10番人気ぐらいになるであろう穴馬である。健闘して3着ぐらいはあるかもしれないが、まず勝ちがあるとは思えない。


「で、でも海外で惨敗して以来だし、近年凱旋門帰りの馬は帰国後絶不調に陥ってるよ」


 何とか考え直してもらおうとマイナス材料を挙げてみる。


「浅はかね。考えてもご覧なさい。フランスのわけわからない馬場で59.5キロも背負わされて走った後なのよ。日本で57キロなんて『うひゃーめっちゃ軽いぞー!』って、天津飯戦で重りを外したときの悟空のごとく速くなっていてもおかしくないわ」

「うーん、海外遠征はマイナス要素の方が大きいと思うけどなあ」

「まあ見てなさい。『これなーんだ』って言われて初めて福永騎手はズボンを脱がされてることに気づいたりするから」

「いや、乗り役が脱がされちゃってるじゃない」


 こうなったらどう頑張ってもおそらく無駄だろう。澤多莉さんが本命馬を変えたりするわけがない。

 こうなれば僕もクリンチャーの爆走を願うことにしよう。そういえばあの馬は屈指の重馬場巧者だったか。

 日曜日にまとまった雨でも降ってくれれば良いのだが。


 僕はタブレットを操作し、再び天気予報のサイトを表示させてみた。


(つづく)



 ◆有馬記念


 澤多莉さんの本命 クリンチャー

 僕の本命 モズカッチャン(本当はレイデオロ)

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