第33話 ホープフルステークスⅡ(前編)
回路が繋がり、パッと頭に電気がつくかのように意識が覚醒する。
目の前には白い壁。首を傾けて見上げると、天井からシャンデリアの明かりが煌々と室内を照らしている。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。いや、気を失っていたというのが正しいだろうか。さすがに三日続けての徹夜は無謀すぎた。
なぜ自分がソファで寝ずに、壁際で床に横たわっているのかは不明だったが、人間極限状態になったときの動作など説明がつくものでもないのかもしれない。
のっそり上体を起こし、這いつくばるように部屋の中央まで移動し、テーブルの上の水をひと口飲む。
空腹も覚えていたが、お皿に山盛りの歌舞伎揚げを寝起きで食べる気にはならず、水をもうひと口。
室内に澤多莉さんの姿は見当たらない。寝室で休んでいるのか、はたまたどこかに出かけたか。
北欧風の掛け時計は4時30分のあたりを差している。このぐらいの時間だと外の暗さでは午前午後どちらなのか判別できない。
ポケットからスマホを取り出し、今が12月27日の早朝であることを確認する。落ちていたのは2、3時間といったところか。知らないうちに寝すぎてしまいもう夕方、或いは翌日の朝などというオチではなかったことにホッとひと息。
「まだあと一日あるか……」
ボソッと独りごち、またひと息。今度は深いため息が出る。
クリスマスイブ、クリスマス、ボクシングデイの三日間を美しい恋人とともに過ごすことのできた大学生男子で、僕ほど幸せを享受することができず、気持ちが追い詰められている者はいないのではないだろうか。
この三日間は、彼女の家に宿泊していたといえば聞こえは甘美かもしれないが、さながら大反省会とか合宿といった趣きでの家籠りだった。
揃って玉砕した有馬記念の振り返りに始まり、この秋ここまでの全GⅠの回顧と反省点を述べ合い、いよいよ今年最後の決戦となるホープフルステークスの検討へと突入。
レース傾向を知るため、阪神でのラジオNIKKEI杯から中山競馬場開催のホープフルステークスに変わってからのレース映像をすべて2回ずつ見た。
全出走馬の過去のレースはすべて最低3回ずつは見た。
結局、この世代の力関係を改めて整理する必要があるという話になり、6月以来の2歳馬の芝レースすべてに一通り目をとおした。
追い切りの映像にいたっては何回見たか覚えていない。
本来趣味として楽しむべき競馬のため、夜も寝ずにそんな苦行に身を投じることが愚かしいと思わないではないが、それもこれもこの最終決戦に勝つため。
ここで勝たなければ、澤多莉さんと僕の日々は明日で終焉を迎えてしまう。
澤多莉さんがGⅠで的中しなければ、交際は解消される------
これはもう厳然たる事実。もはや彼女に意思確認をする必要などなく、翻意を働きかけることに意味などないことはよくわかっていた。
しかし僕とて手をこまねいているわけにはいかない。別れるなんて嫌だ。僕はこれからもずっと澤多莉さんと一緒にいたい。
そのためには、今回ばかりは彼女に押されっぱなしのいつもの自分でいるわけにはいかない。
具体的には、前回のクリンチャーのようなまず勝ち目のなさそうな馬を本命に挙げようものなら、ビシッと言ってやらねばならない。
「何考えてるの? そんな馬来るわけないでしょ! もし来たとしてもいいとこ3着だよ。それじゃダメ、ちゃんと考え直して!」
小声で練習してみる。
競馬なんてどんな馬をどんな買い方しても良いものであり、他人の本命馬や馬券にどうこう口を挟むなど、本来であれば僭越この上ない所行なのだが、今回ばかりはやむを得ない。
仮に本命馬を変えてくれなかったとしても、いつもの単勝と頭固定だけでなく複勝を買ってもらうとか、強く交渉することにしよう。
決意を新たにし、またひと口水を飲み、歌舞伎揚げの袋を開ける。
起き抜けから少し時間が経ち、口内も潤ったことで、米菓も受けつける口になっていた。
二枚目の歌舞伎揚げを口に入れると同時に、ドアの外の廊下を近づいてくる軽い足音が聞こえてきた。
この家の中にいるのは僕ともう一人、澤多莉さんだけである。目が覚めたのか、どこからか帰ってきたのか。
さあ勝負の時だ。僕は咀嚼していた歌舞伎揚げを流し込むべく、また水に口をつけた。
そして、ドアが開いた瞬間、それを盛大に吹き出した。
「何してるのよ? 汚いわね」
「◯! ◆$▽∞×★*◇♀!!」
声がまったく言葉にならない。僕は人生最大の動揺をしていた。
「あーあ汚してくれちゃって。せっかくソファに寝よだれとか垂らされたら嫌だから、床に転がしといたっていうのに」
何やらひどい扱いを受けていたようだが、それに対して抗議をすることなどできる状況ではない。
澤多莉さんがこちらへと歩み寄ってきて、僕は慌てて後ずさる。
「何よ? フリーザを見るナメック星の村人みたいな目をして。失礼しちゃうわね」
いや、控えめに見て今の澤多莉さんは宇宙の帝王の数十倍は戦闘力があることだろう。
「そ、そそそそ、その格好……」
ようやく声が言語化した僕に対し、澤多莉さんはいつもと何ら変わらぬ平然とした様子で、
「格好? 裸にバスタオルという、お風呂上がりとしては一般的な格好をしていると思うのだけど、何か?」
「●#♭△¥◇♂゛〜」
またしても言葉を失う。
澤多莉さんは自身で言ったとおりの格好をしており、上は鎖骨やら肩やら両腕やら、下は太ももやらスラッと伸びた足やら、白いバスタオルよりも更に白く美しい肌を惜しげもなく露出させている。
そして、スレンダーでありながら、出るとこはきちんと出ている身体のラインは、もう僕を殺しにかかってるとしか思えない。
「いくら歌舞伎揚げが究極の美食だからって、いっぺんに頬張るからそうなるのよ。これからは子リスのように前歯でこそぐように食べなさいね」
などと言いながら、テーブルの上にあったティッシュで、僕の粗相の跡を拭き取る澤多莉さん。
そのとき前かがみの姿勢になった澤多莉さんはもう何がアレで、コレがソレで、ともあれ僕は気を失いそうになった。
「ところで、湯船に浸かって鼻歌で『喝采』を歌いながら、ホープフルステークスの検討をまとめてたんだけど」
「ふぁい」
どこか遠くから声がする。
入浴中歌うには何やら暗い曲をチョイスしているような気もしたが、それを指摘できるだけのHPは残っていない僕は、虚脱した声で相槌を打つばかり。
「人気しそうなサートゥルナーリアは、輸送も距離も初めてで、過去2戦余裕勝ちとはいえ相手も弱かったし、あまり信頼は置けないと思うのよね」
髪もタオルでまとめており、澤多莉さんの白いうなじが湯上がりのためほんのり桃色がかっているのが目に入る。
僕は興奮することもできず、ただ見蕩れるばかり。話している内容など当然頭に入ってこない。
「先週と同じ枠、同じような勝負服の福永には期待できないし」
「ふぁい」
「ニシノデイジーは多少出遅れても問題ない東京と違って、中山では内枠がアダになりそうな気がするし、前走最後は詰められてるのも気に入らないところね」
「ふぁい」
澤多莉さんはかがんだ姿勢のまま、こちらに近づいてくる。
「このレースでは上がりの速い馬が強いってことで、2戦して2戦とも上がり最速だったジャストアジゴロが勝つとみて間違いないわね」
「ふぁい……」
魅惑の谷間に魂が吸い込まれ、僕の意識は暗転して------
------数時間後に目が覚めて、澤多莉さんがこの崖っぷちの大勝負で13頭中9番人気ぐらいの馬を本命にしたことを理解した僕は、このまま目覚めなければ良かったと心底思った。
(つづく)
◆ホープフルステークス
澤多莉さんの本命 ジャストアジゴロ
僕の本命 ヴァンドギャルド
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