特別篇Ⅱ 天皇賞(春)2022

 僕たちは或る場所に来ていた——


 宿をとっている三宮から旧居留地を抜け、メリケンパークを通って、改装工事中のポートタワーを眺めつつハーバーランドへ至り、波止場にて語らっているカップルやTikTokに上げるのであろう動画撮影に勤しんでいる若い女子たちを横目にずんずん進み、その場所へと。


「♪勇気の鈴がぁリンリンリン〜と泣きながらはーじけてぇ〜とんだけどぉ〜」


 長い黒髪をたなびかせた大人の女性が、すきとおるような美声で珍妙な替え歌を高らかに歌い上げているのを、小さい子どもたちが呆気にとられた顔で見上げている。

 声だけでなく容姿も大変に麗しく、目を瞠るほどに均整のとれたスタイルを有している女性の歌唱は、子どもたち以外からも大いに注目を集めており、傍らにいる僕はとても居た堪れなかった。

 彼女は歌い終えるとおもむろに懐から取り出した拍子木をカンカンと打ち鳴らし、声を張り上げた。


「さあ、良い子のみんなーよっといでー。楽しい楽しいアンパンマンの紙芝居が、はーじまーるよー」


 周辺にいる親子連れたちにわざとらしい笑顔を向けつつ、ばいきんまんのオブジェの頭の上に、自作の紙芝居を設置している。


 そう、澤多莉さんと僕は——神戸にあるアンパンマンこどもミュージアムへとやって来ているのだった。




 ゴールデンウィーク中の土曜日とあり、ミュージアム内に限らずこの辺りは人で溢れている。

 急に始まった前時代的な出し物が却って物珍しかったか、澤多莉さんの周囲にもかなり大勢の子供たちが集まってきており、少し離れた場所に立つお母さんお父さんたちも、呑気な様子で眺めていた。

 或いはミュージアムのスタッフによる特別な催しだと思っているのかもしれない。


「ちょっと、ただ見はダメよ。そこのお前、水飴は買ったの?」

「こんなところで商売するのはやめた方がいいと思うけど……あと未就学児をお前とか呼ぶのもやめとこう」


 一応とりなしてみる僕に向けて、澤多莉さんはチッチッチと人差し指を横に振る。


「ナメてもらっては困るわね。原作のタッチと世界観を完璧に再現しつつ、独自性もなんだかスゴい感じの『シン・アンパンマン』とも呼ぶべきこの渾身の作品をお金も取らずに発表したら逆にバチが当たるというものよ」

「作品が優れているかどうかって問題でもないんだけど……」


 言うまでもなく、この騒ぎの主謀者たる澤多莉さんはここの関係者でも何でもなく、ミュージアム内の一隅で興行を打つ許可など得ていよう筈がない。

 ギャラリーの輪の外側には、不審そうに見ている係員の人たちが数名。唐突に勃発した事態に戸惑い、対応に迷っている模様である。

 彼らが何かを言ってきたら、すぐさま頭を下げて、速やかにこの場を撤退させなければならないだろう。


「それじゃ始めようかしらね……」


 澤多莉さんはそう呟いて咳払いひとつ。


「さあ、アンパンマン紙芝居の、はじまりはじまり〜!」


 まるで子ども番組のおねえさんのような甲高い声を上げ、調子良く拍子木を叩く。つくづく多芸なお人である。


「さあ今回のお話は、ジャーン!」


 紙芝居の最初の一枚には、アニメのタイトルロゴそのままの字体で、表題が書いてあった。


「『黒糖フークレエマンと、街中華のおじさん』!」

「全然知らないキャラなんだけど! 街中華のおじさんって何? ただのおじさんじゃないその人?」


 もちろん僕に台詞など割り当てられていないのだが、つい突っ込んでしまう。

 だが、澤多莉さんはもちろん、子どもたちにもさして引っかかるところではなかったのか、パラパラと拍手が起こったりしている。

 更に一枚紙芝居をめくると、確かに原作のタッチに忠実なイラストが出てきた。

 ——ただし、テレビアニメではなく、やなせたかし先生の初期のタッチに寄せた、妙にリアルな線画であったが。


「今日も今日とておじさんは街中華のカウンターで、ザーサイをつまみに瓶ビールを楽しんでいました」

「やっぱりただのおじさんだった! 南海ホークスのキャップかぶってるし!」


 ざわつきはじめる子どもたち。眼前で始まった物語が、自分たちが知っているアンパンマンではないことに気がついたのであろう。


「ちょっと澤多莉さん、もうやめた方がいいんじゃない? ほら、あの子なんて既に泣きそうになってるよ」

「大丈夫よ。次はお馴染みのキャラクターが出てくるから、キッズも安心してくれるわ」


 こちらの諫言を取り下げると、また子ども番組おねえさん口調で「ガラガラガラ、おや? 誰かお客さんがやってきたぞ。誰だろう?」などと言って紙芝居をめくる。

 相変わらず何か不安を覚えるタッチではあるが、確かにお馴染みのキャラクターが描かれていた。


「ジャムおじさんとミミ先生が、腕を組んで入ってきました」

「どういうことどういうこと!? その二人そんな関係なの!?」


 ここで澤多莉さんは、役ごとに声を使い分ける。


「『ねえ、いつ奥さんと別れてくれるの?』『ま、まあまあ、そんな話はまた今度でいいじゃぁないか。ホラ、ここの焼きそばはすごくおいしいんだ。今日は割り勘じゃなくてボクが少し多めに出すよぉ』」

「アンパンマンにそんな生々しい会話存在しない! あと、そのジャムおじさんしょうもない奴すぎる!」


 悲痛に叫ぶが、己の作品に没頭しているらしい澤多莉さんには届かなかった。

 その後もドン引きの子どもたちを置いてきぼりで物語を進めていき、突然現れて狼藉を始めたばいきんまんvsしょくぱんまん&カレーパンマンの四次元殺法コンビ(?)のバトルシーンに至ったところで、ここの警備員の人たちが静止に入ってきて紙芝居は強制終了と相成った。ちなみに黒糖フークレエマンとやらは未登場に終わった。

 澤多莉さんは逃げ際に、溜めをきかせてこんな捨て台詞を警備員たちに投げかける。


「さいならっきょ!」

「そこは『バイバイキーン』じゃないんだ! 茶魔語なんだ!」


 どこからか取り出した辣韮らっきょうを美しい形をした鼻や耳や口に詰めて、変なポーズをとっている澤多莉さんの腕を懸命に引きながら、僕は明日の日曜日だけでなく、今日の分も阪神競馬場のチケットを取っておくべきだったと、つくづく後悔するのだった。


 × × ×


 来た道を逆戻りする形で逃走し、メリケンパークへと。

 ゼエハアと息を切らして膝をついている僕とは対称的に、澤多莉さんは涼しい顔をして、潮風に黒髪をたなびかせている。


「まったくひどい目にあったわね。この街では芸術への弾圧が行われているなんて、夢にも思わなかったわ」

「そういうことでも……ないと思うけど……ハァハァ」

「せめて、しょくぱんまん様がクロノスチェンジを使うシーンは子どもたちに見せてあげたかったわね」

「……」


 色々とツッコミどころはあるのだが、グロッキー寸前の僕にはその役割を果たすことはできなかった。

 澤多莉さんも察してくれたか、しばし神戸港と、停泊している船と、突堤に建っている高級ホテルを見つめていた。

 風が頬を撫でる。園内は大勢の観光客やカップルで賑わっているのだが、海を臨んで開けている場所のためか、さほど喧騒は感じない。


「どうせ神戸に来たのなら、あそこのホテルに泊まれば良かったかしらね」

「……そうだね。きっと夜景とか凄いんだろうね」


 ようやく息が整ってきて、そう言葉を返すと、澤多莉さんは首を横に振った。


「ううん、やっぱりあんな横たわって顔が半分埋もれてしまった永沢くんのようなホテルには泊まりたくないわ」

「…………」


 言われてみればそう見えなくもない。ていうか、それを思いついたがゆえにホテルの話を振ってきたのであろう。時に強引な持ってき方をする澤多莉さんなのであった。


「さて、明日の決戦の前に神戸の街も堪能したことだし、天皇賞の検討でもしましょうか」

「子ども向け施設でひと騒動起こすことを、街を堪能したとは普通言わないと思うけども」

「まあ細かいことを言ってないで、ここに座りましょう」


 何故か嗜めるように言いながら、海を臨む段差になっている場所に腰を下ろすと、僕にも隣に座るよう促してくる。


「ホラ、鞄で隠しながら手の甲で太もも触るぐらいならしてもいいから」

「そんなセコい痴漢みたいなマネしないよ!」

「なるほど、セコくない痴漢行為こそが男子の本懐というわけね」

「…………」


 どこかで聞いたような妄言はスルーして、僕は澤多莉さんの隣に腰を下ろし、鞄からタブレットを取り出し、明日行われるGⅠレースの出走表の画面を表示させる。


「フム、GⅠでも結果出してきてる2強がダントツかと思いきや、案外3番手4番手も売れてるのね」

「まあ2頭とも外枠、ディープボンドに至っては大外に入っちゃったっていうのもあるんだろうけど……でも連系や複系のオッズを見ると、やっぱりディープボンドはかなり信頼されてるみたいだね」

「そう。ところで天気の方はどうなのよ? 木原そらじろうさん」

「融合して一人の氏名みたいにされても」


 画面を宝塚市の天気予報のページに遷移させる。


「朝から昼ぐらいにかけて雨、レースの頃合いは一応曇りの予報だけど、コレをアテにして洗濯の予定を立てたらひどい目に遭うパターンのやつね」

「それはわかる気がするけど……まあ馬場の悪化次第では外枠が一概に不利とも言えないし、ディープボンドについてはひどい馬場での実績もあるし、固いかもしれないね」

「フフ、凡人どもがそう思ってくれるからこそ、私が美味しい馬券をゲットできるというわけね」


 いつものやつがはじまった。


「あの重馬場での阪神大賞典は、6番枠という内側に入りすぎない絶好枠で、しかも早々に隊列が縦長になったおかげで、終始馬場の良いところをロスなく走れたというレースだったことを忘れちゃいけないわ」


 白く細長い指で、タブレット画面の馬名のところを軽くコンコン叩く。


「いくら馬場が悪化しにくかろうと大外は大外、似たような脚質の馬もたくさんいることだし、もしなかなか内にもぐり込めず、6つあるコーナーのいくつかで外をまわすことになろうものなら……」


 ここでその指をビシッとこちらに向けてくる。


「小学校の時、運動会の『うずしお競走』で自ら大外を志願しておきながら、最後は引きずられるように回っていた柱谷くんの二の舞にもなりかねないってことよ!」

「いや、柱谷くんって誰? そのエピソード聞いたことないよ」

「あの時ばかりは同じクラスメイトの北澤くんも鋤柄くんもラモスも呆れてたわ」

「全盛期ヴェルディみたいな学級だったんだね……」


 まあ言わんとしていることはわからないでもない。確かに大外枠には展開によってそういうリスクは常にある。


「じゃあ澤多莉さんはどの馬を本命にするの?」


 よくぞ聞いてくれましたとばかりにふんぞり返り、彼女は言った。


「結局のところ長距離は騎手なのよ。今、最も乗れている騎手で、しかも元々長距離を得意にしている男……」


 少し溜めてから、またビシッとこちらを指差した。


「福永祐一で決まりよ!!」

「…………」


 どうやら冗談で言ってるわけではないことを理解した後、僕は静かに告げた。


「……今回、福永は乗らないよ」

「えっ、嘘嘘」


 俄かに動揺を見せ、改めて出走表に目を走らせる澤多莉さん。


「そんな。福永様が怪我でもないのにGⅠに乗らないことがあるなんて。アイツ買っときゃいいやと思って、ろくに出走表見ずに紙芝居作りに夢中になっちゃってたわ」


 馬券師にあるまじきことを口走っている。


「そんじゃユタカユタカ、平成のシールド野郎は令和でもやってくれる筈よ。豊で決まり」

「ハヤヤッコねえ……」


 慌てて決めた感じにしては結構面白いチョイスをしてくれる。

 前走久々に芝を使った日経賞では見どころがあったし、スピードレースでは歯が立たなくとも馬場が悪化して持久力がモノをいうレースになったらダートの経験が活きるかもしれない。


「ふう。どうにか最適解が導けたわね」

「そうかな……もう一回ちゃんと検討し直した方がいいと思うけど」

「でももういい時間になってきちゃったけど」


 そう言う澤多莉さんにつられて見回すと、確かにいつの間にか日はだいぶ西に傾き、辺りは黄昏時を迎えようとしていた。

 パーク内の人々も、観光客やファミリーよりカップルの割合が多くなっている。


「ねえ、ここの並びに座ってる人たちみんなカップルよ。もしかして私たちもそう見られてるのかな?」

「……そういうのは、友だち以上恋人未満の男女に適用する台詞な気がするけど」

「そうね」


 クスリと笑い、澤多莉さんは僕の左手を包むように掌を重ねてくる。

 いまだにこんなことをされると心臓が跳ね上がってしまうのだから、僕もチョロい男である。


「ねえ、このあとどうする?」


 いたずらそうな横目を向けてくる。


「明石焼きでも食べに行く? 私の持ち芸のひとつ『ドラゴンボールを呑み込むピッコロ大魔王』を披露してあげてもいいわよ」


 こんなムードの時でもそんなことを言えてしまうのが澤多莉さんだ。


「それは丁重にお断りしとこうかな」

「あら、てことはもう少しこのまま過ごして、あとで夜景が綺麗な場所に移動して、そこでチューでもしようって魂胆なのね」

「いやいやいや、そんなことは——」


 目と目が合う。その瞳に吸い込まれ、僕は否定ができなかった。澤多莉さんは僕の薬指のリングを軽く撫でてくる。

 まったく、我ながら実にチョロくて幸せな男である。



 ◆天皇賞(春)


 澤多莉さんの本命 ハヤヤッコ

 僕の本命 テーオーロイヤル

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