特別篇Ⅲ 札幌記念2022

「フフフフンフフフッフフフフフン♪」


 すぐ側から、透き通るような鼻歌が耳を心地よくくすぐってくる。

 どこかで聴いたことがあるようなメロディだった。


「随分とご機嫌のようだね」


 僕の隣、窓側の座席の女性にそう声をかける。

 本日の彼女はオレンジのリボンがついた白いつば付きの帽子に、白いワンピースという出で立ちをしており、長く艶やかな黒髪の映えていることときたら、まるで絵画からそのまま出てきたかのようである。

 しかし、深窓の令嬢といった様態に反して、彼女の口から出てきた言葉は不穏だった。


「ハァ? どこがよ? 誰がよ?」


 急拵えのようなトゲのある声である。


「アナタがどうしても一緒に来てほしいと泣いて頼むから仕方なくこんな赤マスだらけの最果ての地まで一緒に来てあげてるのよ。冗談じゃないわ、まったく」

「えーっと……泣いて頼んだ覚えはないし、人口200万近くの都市を最果てとは普通言わないし、北海道が赤マスだらけなのはさくまあきら氏のさじ加減によるものだし」

「クチの減らない男ね。一つぐらい減らせばいいのに」

「一つしかない身体の器官を減らしたくないなぁ」

「ああ、男性は一つなんだっけ」

「……下ネタはやめようよ。北海道まで来てさ」


 そう、お盆も明けた八月三週目の週末、僕たちは北海道にやってきていた。目的は言わずもがなであろう。


「何さ何さ、悪物扱いしちゃってさ。プイッ」


 同行者である澤多莉さんは、よくわからないノリで窓の外へ顔を向けてしまう。美人というのはそっぽ向いて口を尖らせた表情まで美しいのだから反則だ。なお三日で飽きるというのは明白な嘘である。

 約一名ご機嫌を損ねたらしい人がいることを除いては、新千歳空港から札幌・小樽方面に向かう快速エアポートは客の数も今のところまばらで、ゆったりとした空気が流れている。

 と、また鼻歌が聞こえてくる。


「フフフフンフフフッフフフフフン♪」


 やはりどこかで聴いたことのあるメロディだが思い出せない。今度は口を挟まず耳をすませてみる。


「フッフフ、フッフフ、フッフフフフフン♪」


 あっこの曲は。

 僕が思い至ると同時に、今度は微かではあるが明確に発声した。


「これがホントのサッポロいちばん♪」


 弾むような声である。


「サッポロ、サッポロ、サッポロいちばん♪ 『やっぱりこの味、このうまさ!』」


 主に昭和に活躍した名優のモノマネまで飛び出した。


「サッポロいっちばん〜みそラーメン♪」


 しまいには鼻歌でなく普通に歌い上げる。

 どうやら思っている以上に、彼女はご機嫌であると判断して良さそうだった。


 × × ×


「まったくもって不毛な一日だったわ。趣きのあることだけが取り柄の運河沿いを歩かされて、とても綺麗だけどあっさり破壊できそうなチャチなガラス細工見せられて、お手頃な値段なのに新鮮で美味しいとかいう意味不明なお寿司を食べさせられて、水族館では海獣のど迫力に釘付けにさせられたけど別にどうってことなかったし」

「……小樽を満喫してくれたようで良かったよ」


 決戦前の本日金曜日、小樽まで足を伸ばして観光してきた澤多莉さんと僕は、札幌に戻ってホテルにチェックインした後、夕刻の大通公園を連れ立って歩いていた。

「面倒くさいなあ。まことに面倒くさい」などと巨匠アニメーターのようなことを言いながらもついてきてくれた澤多莉さんであるが、ここでも毒舌? が止まらない。


「あのテレビ塔ってのも大したことないわね。高さだって見たところスカイツリーの半分ぐらいしかなさそうだし」

「明らかにそんな無いと思うけど」

「日曜に競馬終わったらさっさと帰ればいいのに、月曜日まで休みとって観光するだなんて、もううんざり。今からクラークポーズの練習しなきゃならないじゃない」


 ビシッと指差しポーズを決めてみたりしている。


「何だったかしら、あの有名な言葉……ああそうそう」


 僕が教えてあげるよりも先に、澤多莉さんはやたらと凛々しい声で台詞を口にした。


「青年よ、『BOYS BE……』のちょいエロ回で精子をお出しなさい」

「クラーク博士はそんなこと言わない! 一応競馬のアレなんだから、何か変なこと言うならアンビシャス絡めるとかにしようよ!」


 我ながらよくわからないツッコミをかましてしまう。もちろん彼女はそんなものはスルー。


「ふぅ、疲れちゃったし小腹も空いたし、ちょっとそこのベンチで軽食でもつまみましょうよ」


 唐突に提案してくる。


「え、でもこの後居酒屋さん予約してるけど」

「だからこそよ。お腹すいた状態で居酒屋なんて行ったら、ついいっぱい頼んじゃってお金かかるじゃない」

「飲み会前に牛丼食べとく大学生みたいなこと言わなくても。北海道来てまで」

「何を言うのよ。無駄遣いするお金があるなら少しでも明日明後日の軍資金にまわして、大勝した暁にはすすきのでパーっとデカダンスといけばいいじゃない」


 当然、澤多莉さんの提案への僕の対案などは採用される筈もなく、二人で噴水脇のベンチに腰を下ろす。彼女は僕に背負わせていたリュックをむしり取るように受け取ると、中からスナック菓子の袋を二つ取り出してきた。


「さあ、バーベキュー味とつぶつぶベジタブルとどっちがいい? 特別に選ばせてあげるわ」


 すまし顔で二種類のサッポロポテトを掲げてくる。

 ……とにかく、札幌行きをよっぽど楽しみにしてくれていたのだろう。

 ——二人でもしゃもしゃ食べていると、噴水前にいた若い女性たちが音楽を流し、軽快に踊りはじめた。

 澤多莉さんは頬ばっていたサッポロポテトを嚥下すると、興味もなさそうな声を出す。


「何、あの女愚連隊みたいな輩どもは?」

「口が悪いなあ。確か土日にNiziUのコンサートがあるらしいからファンの人たちじゃない? ほら、縄跳びみたいな振付してるし」


 Tシャツにハーフパンツなど、健康的な服装でダンスする女性たちを目にして、相合を崩さぬよう細心の注意を払いながら、僕もさして興味なさげに答える。


「へえ、ニジューのファンって親のすねをかじり倒してる子ども部屋おじさん以外にもいるのね」

「偏見がものすごい! 極めてよろしくない!」

「それにしてもあのリズム感のなさとへっぴり腰は何なのよ。あれじゃジョン・B・チョッパーもガッカリよ」

「J.Y.パークだけどね」


 僕には上手に踊っているように見えるが、セレブ家庭で生まれ育った澤多莉さんのこと、そっち方面の心得もあるのかもしれない。


「こうなったら本当の縄跳びダンスを見せつけてやるわ。さあ、あなたはスーパー3助をやりなさい」

「いや縄とびダンスってそれじゃないから。五年前の忘年会以降やってる人一人もいないし」

「そうね。あのネタの真の見せ場は最後にオブジェを掲げてコンビ名を名乗るところだしね。さすがにあれを今すぐ作るのはかったるいわね」


 よくわからないが断念してくれたようなら何よりである。


「じゃあしょうがないから札幌記念の検討でもしましょうか」


 それならば勿論異存はない。

 僕は澤多莉さんに背負わされていたのとは別の、自分のバッグからタブレットを取り出し、夏競馬最大のレース・札幌記念の出走表を表示させた。


「何よコレ、お兄ちゃんの馬ばっかりじゃない?」

「ん? お兄ちゃん?」


 引っ掛からないわけのない言葉が飛び出し、きょとんとする僕に、澤多莉さんは事もなげに告げてくる。


「ああ、言ってなかったっけ。私、金子真人氏のことお兄ちゃんって呼ぶことにしたのよ」

「まったくの初耳だけど……」

「あっ、本当に私があの人の妹ってわけじゃないわよ」

「そりゃまあそうだろうけど……一体どうしてそんな風に呼ぶことに?」

「まあよくある話でね。和田アキ子が加山雄三や梅宮辰夫のことをお兄ちゃんって呼んでるのに強烈な憧れを抱いたってわけよ」


 あまりよくある話とも思えなかったが、そこはスルーして別の疑問を投げかける。


「それにしてもどうして金子オーナー? とりたててファンだとか聞いたことないけど。もしかして面識があったりとか?」


 人柄はともかく家柄は良い澤多莉さんのこと、満更あり得なくもないと思い聞いてみたが。


「やめてよ、あんなチンチクリンの爺さんが知り合いなわけないじゃない。ましてファンだなんて冗談じゃないわ。あんなの好きでも嫌いでもないけど、強いてどちらかにカテゴリ分けするとしたら嫌いな部類に入るわね」

「とてつもなく失礼な人間だな、君は」

「まあ、あの男が我が世の春を謳歌するのも今日までよ。明日、あの黄色と黒のクマバチみたいな勝負服の四名は揃って二桁着順とって石や生卵をぶつけられる羽目になるでしょうね」


 1分も経たぬうちにお兄ちゃんからあの男呼ばわりに早変わりである。


「仮にそうなってもそんな目には遭わないと思うけど……でも、てことは澤多莉さんはソダシは来ないと思ってるんだね」

「来るわけないじゃない。彼女はもうワンターンまでしか走れない身体になってしまったのよ。向正面を駆け抜けたらレースを辞めてしまうに違いないわ」

「うーん……」


 極論ではあるが、絶対に有り得ないとは言い切れない。僕としてはメンタルさえ整えば2000mだろうとコーナー4つだろうと強いのではと思うのだが、その見解は当然ながら一笑に付された。


「そりゃ、あなたのようなソダシに欲情しちゃう異常性癖の持ち主はそう言うでしょうね」

「欲情したことは一度もないけど」

「何言ってるのよ。こないだ私の夢の中で言ってたわよ。『ソーダシソーダシソースだし! うまい焼きそばソースだし!』って」


 どうやらサッポロ一番ソース焼きそばのCMのフレーズが夢に出てくるほど、札幌行きを楽しみにしてくれていたらしい。

 そんな指摘をしたところで認めてくれるわけがないので、僕は他の馬名を指差し、話頭を転じた。


「それじゃハヤヤッコは? 確か天皇賞の時に本命にしてたよね?」

「何よ。買い時をわかっていないタコ女とでも言いたいわけ? ヤッコだけに?」


 少し考えないとわからないことを言いながら、指をゴキゴキ鳴らす澤多莉さん。そういえばハヤヤッコが勝った函館記念の時は切ってたような気がする。


「い、いや、決してそんなつもりは」

「そう。それならいいけど。まあどちらにしても今回は用無しね。ハヤヤッコって実際は遅奴オソヤッコだから。スピードが要求されるこのレースでは通用しないでしょうね」


 自分としてもそこの見解は一致している。

 やはり買い時は前走だったのだろう。


「じゃあジャックドールかパンサラッサの逃げ切り? それともまさかのユニコーンライオンとか?」

「その辺りは潰しあって終わりよ。二桁どころか三桁着順ね」

「じゃあ後ろからユーバーレーベンあたりが突っ込んでくるとか? デムーロだし怖いよね」

「後ろにいすぎて届かないのがオチでしょうね。あなた後ろからデムーロが突っ込んできて勝ったのなんて見たことある?」

「何回もあるけど……」


 こちらが挙げる馬名を次々こき下ろすと、澤多莉さんは呆れるように溜息をついた。


「やれやれ。どう考えても鉄板の馬がいることに気がつかないなんて。あなた、札幌旅行で浮かれてるんじゃないの?」


 それは君じゃないかという言葉をグッと飲み込み、その鉄板馬はどの馬なのか尋ねると、彼女はその細く白い指でタブレット画面を指差した。


「レッドガラン?」

「そう。今年になって重賞を2勝、それも中山と新潟という全然違う適性が問われる舞台での勝利は価値が高いわ」

「うーん……」


 まあ確かに面白いところをついているかもしれない。


「私、中山金杯で2着に負かしたスカーフェイスって結構強いと思ってるんだけど、ホラ見て、0.4秒差もつけて勝ってる」

「それ言ったら、函館記念でさっき遅奴オソヤッコってけなした馬が0.7秒差つけてるけど……」

「何言ってるのよバカ。あなたって人は本当にバカね。考えなさいよバカ」


 こちらの反駁に、理論立ては諦めたのかただただ罵倒してくる澤多莉さん。こうなると今日のところはもうお開きである。


「じゃあ、そろそろ居酒屋に予約入れた時間になるし行くことにしようか」


 そう言って腰を浮かすと、いつの間にか日は落ちており、テレビ塔がライトアップされていることに気がついた。踊っていた少女たちがスマートフォンを向けている。

 ブルーを基調に、赤やオレンジ、グリーンといった色とりどりの光がダンスするように明滅している。

 塔を見上げる澤多莉さんの横顔が光に照らされる。僕はそちらの方に思わず吸い込まれそうになる。

 彼女がこちらに顔を向けてきて、僕は慌てて目を逸らした。


「居酒屋の前に、ホテルの予約もとっておきなさいよ」

「えっ? ホテル?」


 慌てていた上に、俄かには意味がわからないことを言われ、しばし混乱。


「……もしかして、あのホテル何か気に入らなかった?」


 思い至ったのは、宿泊先の変更を要求しているのかなということだった。折角の機会なので奮発して良いホテルを選んだつもりだったのだが。


「いいえ、とても心地良く過ごせそうな良いホテルだと思うわ」

「じゃあ予約って……」


 わけのわからぬ僕に、クスッと笑みを向けてくる。


「とても良いホテルだったから、来年の分も今のうちにとっておいてって言ってるの」


 そう言って、スタスタとネオン街の方面へと歩き出す。


「……あっ、ちょっと待って澤多莉さん」


 彼女の後ろ姿を追う僕は、きっと人には見せられないようなだらしないニヤつき顔をしていることだろう。



 ◆札幌記念

 澤多莉さんの本命 レッドガラン

 僕の本命 ソダシ

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