特別篇Ⅳ 有馬記念2022

 12月24日、聖なる夜、ホテルの一室。


 僕は窓際の椅子に腰を下ろし、眼下に広がる光の明滅をぼんやりと見つめていた。

 胸いっぱいどころか、溢れかえるほどの幸福感の中、微かな戸惑いと不安。

 何年経っても夢の中にいるようで、時折この幸せが現実のものとは信じられなくなったり、いつか何かの形で全てをひっくり返されてしまうんじゃないかと頭をよぎったり。


 いつの間にかシャワーの音は止まっており、ドアが開く音とともに、彼女が姿を現した。

 胸が跳ね上がる。ナイトガウンに身を包んだ彼女の姿があまりに蠱惑的こわくてきに美しく、何年一緒にいようが平静でなどいさせてくれない。


「どうしたの? そんなところで物思い顔しちゃって」


 そう言うと、彼女は僕のすぐ側まで来て、かがみ込んで窓の外を眺めた。

 良い香りが鼻腔をくすぐる。髪を巻いたタオルとナイトガウンの間から、更に白いうなじが垣間見える。

 吸い込まれそうになりつつ、こんな女性と聖夜をともに過ごせるなんて、やはり何かの間違いなんじゃないかと微かに思う。


「へえ、松戸の夜景もなかなかのものじゃない」


 外からの光に照らされる横顔に見蕩れること数秒、何かを見つけたらしい彼女の表情がスッと強張った。


「あれ……」

「ん?」

「あのヘッドライトの集まり……もしかして松戸苦愛クラブの連中じゃない?」

「はいっ?」


 彼女の指差す先を見ると、確かに幹線道路に車のヘッドライトが連なっているが、僕には普通の車列にしか見えなかった。


「フフ……ヤンチャしてた頃の血が騒ぐわね。どう? 今夜は久々に松戸苦愛狩りとしゃれ込まない?」

「そんな剣呑な行為に及んだこと、これまで一度たりとも無いんだけど」

「松岡ぁ、アタシはアンタのカゲじゃないわよぉ」

「ちょっと落ち着いて。君は蜂屋じゃないし僕は中鉢でもないから」

「あぁ!? ラリってんじゃねーぞテメー!!」

「ラリってないから! 少なくとも僕の方は!!」


 ギラついた形相でいきり立つ澤多莉さんをどうにか宥め、僕はカーテンを閉めた。


「そうね……今夜は地元の愚連隊と事を構えたりしてる場合じゃなかったわね」


 どうやら落ち着いてくれたらしい彼女は、きわめて当たり前のことを言いながら、今しがたまで僕の座っていた椅子に腰を落とした。


「土日現地参戦の有馬記念ウィークで、本当なら西船橋あたりのホテルをとりたかったところ、あなたが予約に動くのが遅かったせいでどこも満室で、松戸とかいう中山競馬場から微妙に遠いところに泊まる羽目になったからって、腹いせに暴れたりするのは良くないわね」

「それについては、本当に申し訳ないと思っています……」


 僕をなじりつつ発せられた説明台詞でお分かりのように、土曜競馬を終えた澤多莉さんと僕は、中山競馬場からここ松戸のホテルに移動してイヴの夜を過ごしているのだった。


「それにしてもオジュウチョウサンのラストランには感動したわね。名馬が去ってゆく光景というのは、寂しさと同時に競馬の素敵さを実感できるものね」

「そう? レース中は失速していくケンホファヴァルトに罵声浴びせてたし、引退式ではオーナーに『引っ込めジジイ!』とか野次浴びせてたじゃない」

「あれだけの群衆の中だったら特定もされないし、何言っても別に構わないのよ」

「良くない考え方だなあ」

「ウフフ、そんなことより」


 と、意味ありげな視線を向けてくる。


「競馬の話もいいけど、せっかく聖夜に二人っきりなんだから、他に楽しいことがあるんじゃない?」


 椅子に座ったままこちらへと身体を向け、妖艶な微笑を浮かべる澤多莉さん。

 頭に巻いているタオルを外すと、長い黒髪が一瞬の煌めきとともに広がり、収まってゆく。そして彼女は有名な映画のワンシーンのようにゆっくりと足を組み替えた。

 ガウンから伸びた白く眩しいその足を、呆けたように目で追ってしまう。


「そう、男と女がヤる、とーっても気持ちがいいコト」


 その声も、男の情欲をかき立てるような艶を帯びている。


「ホラ、硬い棒を使ってやることで、思わず声が出ちゃったり、時には濡れちゃうこともある、とっても楽しいア・ソ・ビ」


 人差し指を立て、挑発的な目つき。

 僕とて魅了されっぱなしではいられない。頭をフル回転させ、澤多莉さんが言わんとしていることを考える。


「ウフフ、わかってるんでしょ?」

「えーっと……」


 澤多莉さんはもう一度、今度は太ももまで露わにして足を組み替えると、囁くように言った。


「そう、ア◯ルファック」

「エッチなことと思わせといて違うこと言ってるパターンと思いきや、ちゃんとエッチなやつだった! しかも相当エグい!!」


 思わず絶叫してしまう。


「なんてね。いくら何でも大事な決戦の前日に新たな地平を開拓しようとして、明日の勝負に差し障ったりしたら元も子もないものね」


 目の前でのけぞっている僕のことなど意に介さずに、彼女はサイドテーブルに置いてあったタブレットを起動させる。


「さあ、あから始まる七文字といえばアナ◯ファックじゃなくて有馬記念ンよ。しっかり検討して今年の総決算に臨むことにしましょ」

「う、うん……」


 語尾にもう一つ足して無理やり七文字にしていることを度外視すれば異論はない。僕も気を取り直して、(何故か正座して)タブレット画面を覗き込む。


「今年はまた色んな路線から来てて、力関係が判然としないわね」

「うん、でもやっぱり春に古馬王道二つ完勝してるタイトルホルダーと、皐月賞もダービーも差のない2着で秋の天皇賞勝ったイクイノックスが抜けてるんじゃないかな」

「でも有馬記念といえば菊花賞の勝ち馬が強いイメージだけど、その論で言ったら勝ち馬こそ不在だけど差のない2着だったボルドグフーシュもかなり有力ってことにならない? しかも福永様のラスト有馬」

「そうだね……あとジェラルディーナも、これまでずっと好走してきたところ、更に本格化した印象があって怖いよね」

「本格化といえば、芝に変わってから一度も凡走したことなくて、この秋にはGⅡ、G Iと一気にもぎ取ったヴェラアズールも言えるんじゃない? ムーアから松山への乗り替わりで人気落ちるなら絶好の狙い時だと思うけど」

「ここでエフフォーリアの復活も——」

「ディープボンドだって昨年の2着馬だっていうのに——」


 しばし喧喧諤諤の議論を交わす。

 イヴに何をやっているんだと思われる向きもあるのかもしれないが、競馬をやる者にとってこれほど至福の時間は他に無い。

 まして、最愛の人とこんな時間を過ごせるなんて、やっぱり幸せすぎて夢だとしか思えない……

 いつまでもこんな時間が続くと良かったのだが。


「ま、何だかんだ言っても、有馬記念というのはサイン馬券で決まったりするものなのよ」


 澤多莉さんが検討の方向性を変えてくる。


「どちらかといえばサイン馬券否定派じゃなかったっけ?」

「有馬記念だけは別よ。何故かといえば、それが有馬記念だからよ」


 説明になっていないが、やたらと力強く言ってくる。こういう澤多莉さんには何かを言い返しても無駄でしかない。


「そう……でもどんなサインがあるの? よく言われるようにワールドカップでアルゼンチンが優勝したから、アルゼンチン共和国杯勝ったブレークアップとか?」

「何言っているの。そんなタトゥーだらけのチンピラどもが興じてる球蹴り遊び以上に、今年はセンセーショナルな出来事があったでしょう?」


 サッカーファン全てを敵にまわすようなことをサラッと言いつつ、彼女はタブレットの画面を指差した。


「ズバリ、本命はこの馬よ」

「ら、ラストドラフト!?」


 思わず声が裏返ってしまう。大穴中の大穴である。


「一体どういうサインがあるの? しんがり人気になりそうな馬だよ?」

「そう、多分ケツ人気の大穴でしょうね」


 妙な言い方をする。ケツ人気の大穴……?

 ハッと或る言葉が思い至る。いや、まさかとは思うが。いくら澤多莉さんでも……


「えっと……もしかして」

「そう……今年の有馬記念は、けつあな確定なのよ」

「…………」


 しょうもない。あまりのしょうもなさに言葉を失い、眩暈に襲われる。


「名前つながりで、隣の吉田隼人も抑えといた方がいいかもしれないわね」


 何か言ってるが、くらくらしてしまいよく聞こえないし、まあ聞く価値も無いであろう。

 虚ろな僕を、どうしてか満足そうに見つめ、澤多莉さんはまた囁くように言った。


「明日の結果次第では、私たちもけつあな確定だったりしてね」


 いやいやいや、そんなこと言われても。


 いやいやいや。



 ◆有馬記念

 澤多莉さんの本命 ラストドラフト

 僕の本命 イクイノックス

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