番外編 さらば愛しき福永よ

「福永祐一引退式前夜祭! 福永軍団大集合! 今宵は福永祐一の思い出を存分に語りあいまっせ的な集い! 大阪の陣〜!!」

「イェーーーイ!!」

「福永軍団とやらに加入した覚えはないんだけど……」


 はるばるやってきた大阪梅田の街角にあるカフェテラス、僕の声は二人のあげた歓声にかき消された。

 旅の恥はかき捨てと思っているわけでもなかろうが、彼女たちは異常なテンションで騒いでいた。

 まだ宵の口の頃で辺りは通勤客や買い物客で賑わっている。往来する人々から注がれる何やねんコイツらと言わんばかりの視線を気に留める様子もなく、ドンドンパフパフなぞと口で言いながら大いに盛り上がっておられる。


「……あの、もうちょっと声のボリューム落とせないかな。外だし、結構見られてるし」


 まして僕の諫言など気に留めてもらえる筈もない。ともに立ち上がって拳を振り上げ、今度は声を揃えて「ユーウイチ! ユーウイチ!」とコールを始めた。

 かような奇行に走っているのが、女神のような美女と、天使のような美少女であるのだから、周囲の注目を集めること殊更である。同席している僕は、居た堪れない気持ちで身を小さくしていた。

 と、黒髪ロングの美女・澤多莉さわたりさんが表情を豹変させ、僕を冷たく見下ろしてくる。


「何シラけた態度とってんのよ? 学校行事に非協力的な、クラスの片隅で人生不満だらけみたいな顔して斜に構えてるイケてない中学生でも気取ってるの?」

「そ、そんなつもりはないけど……」


 過去のある時期においては思い当たる節がないこともなかった指摘をされて狼狽する僕に、今度はふんわり茶髪の美少女・護志田もりしたさんがビシッと人差し指を向けてきた。


「エロ兄ィ、お前がつまんないのはお前のせいですよ!」


 確実にどこかで聞いたことのある名言らしき言葉を臆面もなく言ってのける。


「第一、競馬界の大功労者であり、スーパースターであり、八百万やおよろずの神の最高位でもある福永様を称える場でそんな不遜な態度をとるなんて、天罰が下るわよ」

「そうですよ。世が世なら不敬罪で百叩きされつつのこぎり引きの刑に処せられるところです」


 両側から詰め寄られ、数多いツッコミどころに反応することもままならない。

 いつ福永祐一氏が天照大御神あまてらすおおみかみを越えたのかと追及する前に、二人はまたしても声高くユーイチコールをあげだした。道行く人たちの視線が痛い。


「……いや、だからさ、あんまり騒いでると営業妨害になるし、警察呼ばれ——!?」


 二人の表情を見て、思わず言葉に詰まってしまう。乱痴気騒ぎに興じている二人の目尻には、うっすらと涙が滲んでいるように見えた。


「…………」


 もしかしたら彼女たちは、平静ではいられぬほどに感情が千々に乱れているのかもしれない。

 だとしたら、その所以は明確だ。トップジョッキーの立場のままターフを去っていってしまったかの騎手について、僕とて少なからず去来する思いはある。

 日頃は顔を合わせればいがみ合っている澤多莉さんと護志田さんが、やってることは奇矯な行いとはいえ、かように息を合わせているのもそれだけの想いがあるからなのだろう。


「ユーイチ、金返せ! ヘイヘイヘイ」

「カッネ返せ! ヘイ!」


 今度は『ピッチャーびびってる』の節を声高らかに。

 これもきっと、彼女たちなりの愛情ゆえなのだろう。多分……


「さて、明日の引退式に向けての予行演習はこれぐらいにしときましょうか」


 そう言うと、澤多莉さんはしれっとした顔で優雅に着席し、護志田さんも「ですね」などとそれに続く。


「……引退式の場で今のコールする気なの? つまみ出されるんじゃない?」


 そう、僕たちは明日の土曜日に阪神競馬場のパドックにて執り行われる福永祐一の引退式を見るため、はるばる大阪へとやってきていた。


「さあ、ここからは福永祐一様の在りし日の思い出を語って、明日に向けて気持ちを高めていきましょう」


 つい今し方大騒ぎしていたとは思えない、ごく常識的な口調と声量で澤多莉さんが言う。


「まあそれはいいんだけど、どうして外のテラス席で? 暗くなってきたし、さすがに少し寒くなってきたよ?」

「チッチッチ、エロ兄ィはわかってませんね」


 こちらの疑問にしたり顔で答えてきたのは護志田さんだった。


「女子会というものは小洒落たカフェのテラス席で行われるものだと相場が決まっているのです」

「三分の一が男子なんだけど」


 その指摘はスルーされる。


「こないだだって、妙齢の女性四人組がテラス席で、どんなエッチがお好みかって話で盛り上がっているのを目撃しました。イケメンとのロマンティックなエッチが良いと自己申告しつつ、実は前の晩にキモいおじさんと爛れるようなプレイをしてる人がいたりして、なかなか参考になりました」

「……君、未成年が読んじゃいけない本を読んでない?」

「やっぱりちょっと寒くなってきましたね……お粥さんでも頼みましょうか」


 などと他意も他愛もないやり取りの中、ようやく主題である福永祐一の思い出話をするようにと最初に振られたのは僕だった。


「えーっと、まあ競馬歴そんなに長くないながらに色々あるけど……やっぱり一番はワグネリアンで初めてダービー勝ったときかな」

「ああ。確かにアレは印象的だったわね。私が1着3着固定で3連単を3点ぐらいで的中したんだったかしら」

「そんな記憶は一切ないんだけど。むしろ澤多莉さんコズミックフォースを雑魚超人呼ばわりしてたよ」

「あら、そう?」


 さらりと捏造してくる澤多莉さんをあしらいつつ、いざ話し出すと福永騎手に関する思い出の数々が胸によぎってきた。


「もちろんコントレイルの三冠も感動したし、あと僕としては最初に好きになったレインボーラインでの騎乗も忘れらないな。大穴ながらに3着だったNHKマイルカップとか、馬券も当たった菊花賞とか」

「何よ何よ、私たちが競馬始める前の話持ち出して」

「古参アピールが過ぎますよ」


 いきなり批判を浴びせられる。2016年の話をして古参アピールも無いものだと思うのだが。

 それにしても、いつもは犬猿のこの二人、今回はやけに息が合っている。これも福永騎手がかすがいになってくれているということだろうか。

 と、思いきや。


「まあ、トゥルトゥル瑞々しい現役JKの私と違って、お肌の曲がり角をコーナリング中の貴女様も、さぞ古い思い出話があることでしょう。傾聴して差し上げますので、どうぞ遠慮なくお話しください」

「あら、お嬢ちゃんてもうJKだったの? 発育具合からして、てっきり未就学児だと思っていたわ」

「ムムッ、失礼なオバハンですね」

「失礼という言葉を辞書で引いてみなさい。そこにはあなたの名前が書いてあるわよ、じゃりン子ちゃん」


 険悪な表情で火花を散らしはじめる。やはり始末に負えない二人なのだった。


「ま、まあまあ、二人ともこんなところでバチバチしないで。ほら、福永騎手の思い出を語るんでしょ」

「そうだったわね。まあ、私が福永祐一に関することで一番印象に残っているのは、やっぱり騎馬戦での出来事かしらね」

「騎馬戦?」


 気を取り直してくれた澤多莉さんは、僕には覚えのなさそうなエピソードを話し始めた。

 騎馬戦? ジョッキーイベントか何かでそんなのあったのだろうか。


「対戦相手のヤンキーの一人がルールそっちのけで福永に蹴りを入れまくって乱闘になって、戸崎が福永を庇ってそのヤンキーを鮮やかなハイキックで一発KOした光景は今でも目に焼き付いているわ」

「あー、それ違う人たちのエピソードだなあ」

「何言ってるのよ。YouTubeにも残ってるわよ。映像が荒いから判別が難しいけど、アレは確かに戸崎の蹴りよ。颯爽としてカッコ良かったんだから」

「多分、別の公営競技で活躍してる人だと思うけどなあ。あと福永メインの思い出じゃなくなってるし」


 すると、護志田さんが首を横に振り、小さくため息をついた。


「やれやれ。そんな当人たちにとって若さゆえの過ち的な黒歴史を持ち出すなんて、リスペクトが足りない人ですねえ」

「あら。それなら貴女はさぞかし素敵な思い出話をしてくれるのかしら」

「そうですね。福永と戸崎といえば、やはりこの話が鉄板でしょう……」


 遠い目をして語りはじめる。


「あれは何年前だったでしょうか。福永と戸崎がプライベートでお酒を酌み交わしていた時のことです——」


 まるでその場でいたかのように話すのは気になるところだったが、とりあえずスルーして続きを聞いてみる。


「二人は最高の騎手は誰かという話を始めました。福永は武豊、ルメール、デットーリなどの名前を挙げましたが、戸崎は一笑に伏して言いました。『そんな奴らは小物に過ぎない。最高の騎手というのは大志を抱き、冷静でありながらも勝負どころでは怯むことなく馬群に突っ込むことができ、不測の事態には臨機応変に対処ができ、競馬場そのものを支配するかのようなカリスマの持ち主でなくてはならぬのだ』」


 護志田さんは大仰な身振り口振りで戸崎の台詞を述べる。そんな尊大な物言いをする人ではなさそうな気がするが。


「福永が『果たしてそんな人が今の競馬界にいるでしょうか?』と聞いたら、戸崎はビシッと指を差して『君と余だ!』と叫んだのです」

「…………」

「そこに雷が鳴り、咄嗟に福永は雷を怖がるふりして警戒を解いたという名場面は、今でもトレセンで語り継がれているそうです」

「それも違う人たちだなあ。てかさっきからむしろ戸崎の方がキャラ強いな」


 呆れてそれだけ指摘するが、二人は意に介さず話を続ける。


「戸崎絡み以外では、やっぱり一番可愛がってたという川田との逸話が印象に残ってるわね」

「あれですね。『なあ将雅、四天王の中で土のスカルミリョーネが最弱とされてるけど、体感的には一番手強かったと思わへん?』『ああ、その時期はこっちも弱かったですもんね』って会話してたってやつですね」

「いや、それは言ってたのかもしれないけど。何そのどうでもいい一コマ」


 そんなこんな戯言の類も交えつつ、語り尽きることはなく夜は更けていく。



 ——その人は、環境こそ恵まれていたが、騎手としての才能の無さは自他ともに認めるところだったという。

 早いうちから数多くの勝利を得ていたものの、それは概ね周囲のサポートの賜物とされ、賞賛以上に心無い批判の声を浴び続けてきた。何度か騎手生命に関わるような大きな怪我にも見舞われた。

 それでも腐らず、驕らず、折れずに努力と研鑽を積み重ね、いつしか誰もが信頼するジョッキーへと成長し、大きな栄光を紛うことなき自身の力で勝ちとっていった。


 そしてその人は、絶頂期にありながら次のステージに進む決断をした。

 もう勝負服を着て、サラブレッドを疾駆させる彼の姿を見ることはない。


 泥くさく努力をして立ちたい場所に到達し、去るときは潔く一陣の風のように。


 どうあっても僕はそんな風に生きられないのかもしれないが、せめて明日の引退式、二人の前でみっともない姿を見せないようには気をつけることにしよう。

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