特別編Ⅴ 澤多莉さんvsレインボーライン(札幌記念2023)

 やっと会いに来れた——


 彼はどこか気怠そうな目をこちらに向けてくれた。目と目があった刹那、僕は内心で懸命に語りかける。

 僕がどれだけ彼を愛しているか。彼がどれだけ僕の人生に影響を及ぼしたか。脳裏に永遠に刻まれている彼の思い出——

 こちらの熱意を知ってか知らずか、馬房の奥からこちらを見ていた彼はまた飼料へと首を伸ばし、食事を再開する。


 そんな姿をも惚れ惚れと見つめる僕の隣には、煌めく長い黒髪の上に麦わら帽子を乗せ、清楚な純白のワンピース姿という、まるで映画から抜け出してきたかのような美女が一人。

 彼女はその見た目通りの涼やかな声で、囁くように言った。


「……彼はこう言っているわ。『あー、こういうキモオタみたいな奴よく来るんだよな。ウザったいから、さっさと写真でも動画でも撮って消え失せろやウンコマン』って」

「言わない! そんな酷いこと言うわけない!!」


 いくら最愛の女性ひとといえど、最愛の馬を貶める言い様は聞き流せない。僕は強く否定した。

 あんまりな発言にムキになってしまったか、余計な一言まで付け加えてしまう。


澤多莉さわたりさんじゃないんだから!」


 ツッコミはともかく、僕から攻撃的な言葉を浴びせられた経験などほとんど無い(筈の)彼女は一瞬だけきょとんと目を丸くしたが、すぐに薄い笑みを浮かべた。


「あら、言ってくれるじゃない。どうやらウマパシーが使えないみたいだから親切心で教えてあげたというのに」

「ウマパシー!? そんなの初めて聞いたけど? 君は馬の心がわかる人なの?」

「そうよ。言ってなかったかしら」

「完全に初耳だけど」

「あらそう。ちなみに今はこう言っているわ」


 マナー悪く騒いでしまったせいか、馬房の中から再度こちらに顔を向けているGⅠホースに向けて顎をしゃくり、彼女は男声のつもりか気持ち低い声で台詞を言った。


「『おうおう、よう見たらハクいチャンネー連れとるやないかい。オレっちのウマ並みのイチモツぶち込んで、種牡馬引退以来溜まりまくっとる白濁液をぶちまけたろかいコラ』ってね」

「そんな下衆なこと言うか! とりわけ白濁液とか言うか! そもそも今は騸馬だし!」


 また大声を出してしまい、慌てて自らの口を手で押さえる。

 言わずもがなこの場所で大きな声を出すのは厳禁である。戦いの日々を終えてゆったりと過ごしている英雄たちの御前で騒ぐなど、ある意味ではパドックで大声出す輩よりも不埒な狼藉者と言えるかもしれない。

 声のトーンを落とし、澤多莉さんをたしなめる。


「……おふざけもいい加減にしてほしいな。いくらステゴ産駒だからってレインボーラインがそんな下品なこと考えてるわけないだろ」

「あなたにも若干の偏見があるような気がするけど」


 珍しく澤多莉さんから鋭く指摘されてしまい、僕は誤魔化すように馬房の前に貼られている在厩馬紹介の用紙へと目を向ける。

 僕が競馬にハマったきっかけとなった永遠の推し馬の名前と、彼の足跡がそこには記されている。


 レインボーライン

 父 ステイゴールド

 母 レーゲンボーゲン

 性別騸 毛色鹿毛 生産北海道


 種牡馬としての役割も終えた名馬は、ここノーザンホースパークにて第三の馬生を送っており、僕たちは札幌記念現地参戦を控えた金曜日に彼へと会いにきた次第だった。


「それにしても、つくづく凄い馬だったなぁ……」


 目を閉じると彼が見せてくれた激走の数々が鮮明に甦る。

 低人気を覆してのNHKマイルカップ3着、菊花賞2着、田んぼのような馬場での天皇賞秋、そして頂点へと辿り着くとともにターフからも駆け抜けていってしまった天皇賞春……


「……懐かしいわね。あなたと出会ったばかりの頃のことが思い出されるわ」


 いつしか僕と同じくかの名馬の来歴を眺めていた澤多莉さんが、つい今し方の悪意に満ち満ちた口ぶりとは打って変わって、感慨深げに呟いた。


「……あの頃のあなたと来たら、レインボーラインが好っきゃねんと何かにつけて本命にしてて、何だったら出走してないレースでもレインボーラインが本命だとか言い出して、しまいには自分は全てのレインボーラインと同化して、おおレインボー森羅万象ライィィン神へと昇華して新世界を創造したのだ、なんてピロートークでよく話していたわね」

「そんな奇天烈な言動をした覚えは一切ないけど?」


 出会ったばかりの頃はピロートークをする機会なんてなかったし。というツッコミは心中に留めておく。


「ま、言っても相手は畜生、ケダモノの類なわけだし、あんまりのめり込むのも良くないってことよ。ホラ、やっと会えて嬉しい気持ちはわかるけどあんまり一つの馬房の前に長居するのもマナー上どうかと思うわよ。さっさと行きましょ」


 この人にマナー云々を言われる筋合いもない気もするが、確かに馬としても馬房の前にずっと知らない人間たちに居られるのも心地良いものではないような気がする。

 名残り惜しいが、ここはスピードワゴンのごとくクールに去った方が良いのかもしれない。


「ホラ、私たちも忙しいんだから。このあとブラっとその辺りを散策しつつ札幌記念の検討して、ホテルに着いたら少しまったりして、夜中まですすきのでどんちゃん騒ぎしなきゃいけないのよ」

「ちっとも忙しくないように思えるけど」


 仕方ないので、後ろ髪ひかれる思いでこの場を後にしようとした時だった。

 こちらを促し前を歩こうとしていた澤多莉さんの動きがピタッと止まった。


「……今、何て言った?」


 周辺の温度が2、3度くらいは下がったような尋常ならざる空気感。これは真剣マジなやつだとすぐさま悟る。

 僕は戸惑いと戦慄に陥りつつ、返答した。


「え? 忙しいとか言いながら、この後ゆったり過ごせそうな感じだったから、ちょっとツッコんでみたんだけど。何か間違えてた? ごめん」


 このような時の正着手として、何はともあれ即座に謝罪する。

 彼女はそんな僕の方へゆっくり振り向いた。


「そのことじゃないわよ」


 顔はこちらを向いているが、鋭い目つきで捉えているのは僕ではなかった。


「そしてあなたじゃない……そこのあなたよ。今、何て言ったの?」


 澤多莉さんの目線と、静かな怒りは馬房の中へと向かっている。

 そこには、食事を終えたのか身体と顔をこちらへと向けているレインボーラインの姿があった。


「え? え? え?」


 圧倒的戸惑い。

 澤多莉さんを見て、レインボーラインを見て、また澤多莉さんを見てというムーヴを数回繰り返し、戸惑いは深まるばかり。

 すると、レインボーラインはのっしりとこちらの方、格子のすぐ側まで歩み寄ってきた。


 うわ、こっち来てくれた! 近い!


 と、興奮する気持ちはなくもなかったが、状況は異様である。

 僕は殺気すら籠った目でGⅠ馬を見つめる澤多莉さんにおそるおそる聞いてみる。


「どど、どうしたのかな?」

「この馬ヅラヤロー、言うに事欠いて、無礼千万なことを言いやがったのよ」

「馬ヅラというか馬そのものだけど……何て言ったの?」

「『今年の札幌記念はお前らみたいなど素人どもが手を出していいレースじゃない。悪いこと言わないから家帰って種付けでもしてなガキども』って」


 俄かには信じがたいが、澤多莉さんは本気で憎々しげな顔をレインボーラインに向けている。

 そしてレインボーラインの方も、どこか不敵で挑発的な目をしているように見えなくもない。


「まったく言ってくれるじゃない……キタサンブラックたちが引退して、下の世代の強豪たちもドバイか大阪杯に行って空き巣みたいなもんだった春天をマグレで勝ったラキ珍GⅠ馬風情が」


 その言葉にはたから見た僕の血相はさぞ変わったことだろう。

 それはレインボーラインを愛するものとしては絶対に看過できない言葉だった。

 抗議と否定の言葉を発しようと口を開きかけるが、それを遮ったのは当のレインボーラインだった。

 まるで異を唱えるようにブルルルと低くいなないたのだ。


「……へえ? 『そんなことはない? 怪我で引退することにさえならなければ俺はもっとGⅠを勝ててた』って?」


 澤多莉さんが翻訳する。

 もちろんそれを信じるわけではないが、もしさっきの暴言の意味を彼が理解していたら、本当にそう主張するのではないだろうか。


「『レイデオロの天皇賞秋みたいなのは厳しいけど、あの年の宝塚記念やジャパンカップならワンチャンあった。少なくとも同期のミッキーロケットには勝てた気がする』ですって?」


 割と現実的な主張をしているらしい。


「まあ、過去のたらればはどうだっていいわ。大事なのは未来のことよ。あれだけ言ってくれたからには、今度の札幌記念、私たちと勝負をして負けたりしたらどうなるかわかってるでしょうね」


 とんでもないことになってきた。

 澤多莉さんはレインボーライン相手に馬券勝負を挑もうとしているらしい。

 控えめに言って、どうかしてるとしか思えない。


「それじゃ一応聞いてあげるけど、あなたの本命はどの馬? 3歳での札幌記念挑戦への親近感からトップナイフってところかしら?」


 以下、煩わしくなるので、澤多莉さんが翻訳してくれた部分も直接やりとりしていたように記す。


『いや。残念ながらあの小僧はあの時の俺と違ってまだ力不足。今回のメンバー相手に勝負にはならんだろう』

「そう。だったらともにGⅠを勝った相棒の岩田が乗るイズジョーノキセキ?」

『いや。彼女はもうピークを過ぎている。それに俺とヤスナリはビジネス上のパートナーだっただけで別に思い入れはない』


 結構寂しいことを言ってくれる。


「じゃあアレじゃない? お父さんが同じアフリカンゴールド」

『いくら何でも厳しいだろう……ていうか、無理やり穴馬を指名させようとしてないか?』

「そんなつもりはないけれど。じゃああなたが勝つと思うのはどの馬なのよ?」

『フッ、聞いて驚くな。出走表を丁寧に見ていくと、一頭だけモノが違う馬がいることに気がつく』


 もちろん今更、馬が出走表なんて見るのかというツッコミが成立する余地はない。

 僕たちは固唾を飲んで、かの名馬がどの後輩馬を選ぶか注目する。


『それはジャックドールだ! 見ろ、コイツだけGⅠ勝ってる。それも最近』

「…………」


 どうやら大舞台で多くの穴を開けてきた馬らしからぬ、ド本命党だったらしい。今年の札幌記念は素人が手を出してはいけないとかの発言はなんだったのか。

 あと、よく見てくれ。ダービー馬もいるから。


『それにコイツの親父のモーリスさんだろ?』


 澤多莉さんいわく、一般的なモーリスのイントネーションではなく、『モ』を強調した、中学校の先輩などを呼ぶようなアクセントらしい。


『俺、一緒に走ったことあるんだけど、モーリスさんすげー速いんだよ。ネオリアさんにはうまく逃げられたけど、すごい追い上げ見せて、その後ろにいた俺がいくら追いかけても届かない感じで……』


 いつの間にか語っている(らしい)レインボーラインはつぶらな黒い瞳を遠くに向けている。


『懐かしいなあ……あの頃は色々しんどかったけど、楽しかったなあ……』


 果たして引退馬が現役時代を懐かしむことがあるのだろうか。

 本当のところはわからないが、レインボーラインの瞳は、追憶を楽しんでいるようにも見える。

 その黒く少し潤んだ瞳をこちらに向けてくる。


『ま、今は今で結構しんどいこともあんだけどな。今日も午後から馬術競技とやらに駆り出されんだよ。まあしゃあないからそっちでもテッペンとるつもりだけどな』


 澤多莉さんいわく、そんなことを言ったレインボーラインは少しはにかんでいたらしい。


 ちなみに、澤多莉さんの本命がマテンロウレオであることを告げると、彼は激しく首を振り、


『鞍上ノリだろ? アイツどうせふざけるだろ』


 と言っていたとか。

 なお澤多莉さんがこちらを本命にしている理由は「ノリがやる方の番だから」とのことなので見解というのは別れるものである。


 更に余談であるが、厩舎めぐりの後、馬術大会を見学したところ、レインボーラインは三回飛越を失敗して障害物を落下させていた。

 まあ、競走馬時代だって散々敗北を積み重ねて、それでもひたむきに挑み続けて栄光を掴んだ彼のこと、新しいフィールドでもやってくれるに違いない。


 ありがとう。おつかれさま。これからも応援しています。



 ◆札幌記念

 澤多莉さんの本命 マテンロウレオ

 レインボーラインの本命 ジャックドール

 僕の本命 聞かれなかった

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UMAJOの澤多莉さん 氷波真 @niwaka4

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