特別篇 フェブラリーステークス2022

 冷たい風が頬を刺す。

 南向きの府中のスタンドは、寒冷な時季でも強い日差しが照りつけて、来訪した者の上着を脱がせることもよくあるのだが、曇天模様の二月中旬となるとそうはいかなかった。

 スマートシートの一席にて、僕はマフラーを着用してこなかったことを後悔しつつ身を縮め、紙の馬券を握りしめ、眼下で行われている一戦を見つめていた。


 が、すぐに落胆して肩を落とす。

 せめて熱いレースが繰り広げられれば良かったのだが、前にいた馬がそのまま残り、後方にいた僕の本命馬はそのまま伸びずに終了。

 2、3着争いはかなり際どく、写真判定になっていたが当方には関わりのない話。


 久々に現地にやってきての連戦連敗に、ため息ひとつ。吹きつけた風が身体の芯まで冷やしてくる。

 次のレースは見にして、暖かいコーヒーでも買いにいくかな、いや、無料の湯茶でいいか……と腰を浮かせかけた時だった。


「再び馬券の理想を掲げるために……」


 唐突に、後方から透きとおるように美しい声が聞こえてきた。


「帯の封、成就のために……」


 振り返ると、その人がいた。


「東京競馬場よ、私は帰ってきたぁぁぁ!!」


 僕の席の真後ろの通路にて、長い黒髪をたなびかせた美女が、やたらと凛々しくキメた表情で仁王立ちしている。

 上下黒を基調としたミリタリー系の変わった出で立ちをしているが、長身でスラっとしたスタイルにはよく似合っている。この寒空の下では些か寒そうでもあるが。


「……やあ、澤多莉さん」


 呼び掛けた僕に無言で一瞥だけくれると、すぐにその視線をターフビジョンへと移す。

 丁度写真判定が終わり順位が確定したようで、その表示を見るとフッとため息をつく。


「何と他愛のない。鎧袖一触とはこのことね……」


 言いながら、手に持っていた馬券をビリビリ破く澤多莉さんなのだった。


「えーっと……」


 かける言葉に迷っていると、再度僕の方へ目を向けてきた。


「おやおや、よく見たらそちらにおわすは、早漏者ソロモンの悪夢さんじゃない」

「うーん、音で聞く分にはわからないけど、何だか歴戦の強者的なニュアンスじゃなくて、悪意が籠められてたような気がするから、できれば今の発言は撤回してもらえるかな?」


 遠慮がちに要望してみる。

 澤多莉さんは、僕がいる席までツカツカと降りて来ると、傲然と言い放った。


「何よ、うるさいわね。このガイシューイッショク野郎」

「そっちは本来の意味でもだいぶ失礼なうえに、女性の身体を触って反応したら負けってゲームやってる人呼ばわりされてる気がするんで、やっぱり撤回してもらいたいかな」


 つとめて冷静に言ってみたが、もちろんそんな願いを聞き届けてくれる澤多莉さんではなく、鮮やかなシカト。

 僕の二つ隣の席に腰を落とすと、フジビュースタンドからの景色を一望する。


「フフ、懐かしいわね……この風、この肌触りこそ競馬せんそうね」


 遠い目をして呟いている。

 僕は、またどこかで聞いたような台詞であることにツッコミを入れようか迷ったが、ここは同調しておく。


「確かに、有観客に戻ってからも以前みたいな頻度では来れてないからね。お互い忙しいし、抽選外れることもあるし」

「まったく。コビちゃんにも困ったものよね」

「……もしかして、COVID-19のことを、朝刊に載ってる四コマ漫画のようなポップな愛称で呼んでる? だとしたら速やかにやめた方がいいと思うよ」


 こちらの忠言にはやはり耳を貸す様子はなく、なおも遠い目で彼方の景色を見つめている。

 僕もそちらに目を向ける。ターフビジョンの向こうに東京フリーウェイ、多摩川にかかる吊り橋のケーブル。


「本当に懐かしい……あなたと初めてここに来たのが、遠い昔のことのようだわ」


 そう言うと、びんの後れ毛をそっとかき上げた。

 彼女の細く白い指に光る指輪を目にし、僕の胸は微かに波立つ。


 初めて澤多莉さんとともに競馬場を訪れたのは、モズカッチャンが勝ったエリザベス女王杯の日。お互いに二十歳だった頃。

 ひたすら緊張して、ろくなエスコートもできず、ターフビジョンにて裏開催のGⅠを観戦し、ともに落胆した四年余り前のあの日のことは、僕にとってはつい昨日のようでもあり、遥かな追憶の中の出来事のようでもある。


「そうだね……」


 感慨に浸る僕の方に顔を向け、澤多莉さんは口を尖らせて文句を言ってきた。


「ちょっと。なに隣にこんな美人をはべらせておきながら、昔は良かったヅラでしみじみしちゃってるのよ。失礼しちゃうわね。プンスカ」


 当時から変わらぬこの面倒くささもまた澤多莉さんの魅力の一つなのかもしれない。そう思うことにしておく。


「何いやらしい顔で見てんのよ。全くあなたという人は、レビル将軍ばりの人妻キラーなんだから」

「レビル将軍にそんな設定あるなんて聞いたことないんだけど……ていうか、最近ガンダムとか観てたりする?」

「あら、やるじゃない。私の中での第八次ガンダムブームが到来していることを見破るなんて」

「そんなしょっちゅうハマってるとは思わなかったけど、さっきからの発言を聞いてれば、まあ」


 そう言われてみれば、以前も会話の端々にその手のネタを放り込んでくることがあった気がする。

 澤多莉さんはニコリと笑うと、僕の耳元に口を寄せてきた。


「実はね……旦那が仕事に出かけた後は、家事なんていい加減にやっつけて、ずーっとガンダム観てるの」

「……そう言われて、僕はどういう反応をすれば?」

「寝室で、服の胸元や裾をはだけさせた恥ずかしい格好で、観てるの……ガ・ン・ダ・ム」

「あまつさえ、そんなこと言われて一体どうしろと?」


 昔も今もおかしなお方である。

 そんな澤多莉さんは、つい数秒前まで不審な発言をしていたとは思われぬ切り替えを見せてきた。


「それはさておき、明日のフェブラリーステークスよね。今年最初のGⅠだし、旦那の眼球をくり抜いてでも的中させたいところよね」


 ごく真剣な表情でそんなことを言うものだから恐ろしい。とりあえずその発言についてはスルーしておく。


「でも、まだ今日のレースも残ってるけど。重賞のダイヤモンドステークスとか」

「何言ってるのよ。もうGⅠが明日にまで迫ってきているのよ。早く答えを出さないと。もう慌てるような時間なのよ」


 どこかで聞いたのと反対の台詞を言いながらも、澤多莉さんは僕の手元の競馬新聞の今日のメインレースの面をザッと一瞥し、ろくに検討することもなく次々馬名を差していく。


「えーっと、私の一番好きなモビルスーツがガーベラ・テトラだから、コレとコレとコレのテトラ馬券、このレースはこれで決まり。3連複に5万円ぐらい入れておくといいわ」

「そんないい加減な……」


 チョイスされたのは人気馬テーオーロイヤルと、中穴トーセンカンビーナと、大穴ランフォザローゼス。他はともかく、もう三年近く馬券になっていない最後の一頭はさすがに買えない。

 とりあえずまだ少し時間もあるのでこのレースは後ほど一人でじっくり検討するとして、既に明日のGⅠの出走表をじっと見つめている澤多莉さんへと合流することにする。


「まあ、今年最初のGⅠとは言っても、チャンピオンズカップでぶっちぎりに強かった馬が海外行っちゃうんで、メンバーは微妙な感じするよね。でもその分、混戦で面白そうというか」

「そんな中、注目なのはやっぱこの馬よね」


 澤多莉さんが指差したのは、現時点では単勝1番人気のアイドルホースの馬名だった。


「こいつ、あの白いやつ」

「ガンダムみたいに言わないでよ」


 予期していたのでスムーズにツッコミを入れられたのだが、澤多莉さんは意に介さない。


「どうせ若い女の子に目がないロリコンキャスバル野郎のあなたのことだから、この馬に全財産注ぎ込むつもりなんでしょ?」

「色々心外だけど、まず何よりそのルビはやめた方がいいと思うな」


 そう諫言しつつ、しかしここは真面目に話すべきところでもある。


「でも、専門家筋では全然評価されてないけど、決して買えない馬じゃないとは思うんだよね。前2走の負けは多分精神的なもので、立ち直ってさえいれば元々力はある馬だし、単勝はともかくソダシ絡みの馬連や3連複はそんなに人気してないし」

「あらあら、若い女の子には随分ご執心なのね」

「ご執心って」


 澤多莉さんは口角を歪め、揶揄うように言ってくる。


「どうせあれでしょ? もしソダシが勝ったら、ウイニングランしてるところに乱入して、あの白い身体にボクの白いヤツをぶっかけてやる! とか企んでるんでしょ?」

「つまみ出されて、二度と競馬場来れなくなるわ!」


 ついつい声が荒らいでしまい、思わず口を押さえる。

 改めて述べておくと、ここは東京競馬場のスタンド座席。入場人数は抽選で絞って、座席も半分ほど潰しているとはいえ、周囲には人の目がある。

 澤多莉さんは、特に気にする様子もなく平然としている。


「じゃあ、あなたは本命ソダシちゅわんってことでいいのね?」

「いや、でも本命は別の馬なんだ」

「あら。まあ確かに、白いやつにハヤトが乗ってたところで大して怖くないものね」


 またガンダムに絡めて上手いこと言ってくる澤多莉さんを適当にあしらい、本命の馬名を指し示すと、彼女は少し興味ありげな反応を示した。


「ほう、エアスピネルね。若い女の子大好きなあなたが、こんなご老体を本命に指名するなんて、どういう風の吹き回し?」

「ご老体はさすがに失礼だと思うけど……昨年の2着馬だし、前々走見る限りまだ衰えてないし、1800のチャンピオンズカップではダメでも、得意の距離とコースならまだまだやれるんじゃないかなって」

「それに思い入れもある馬だしってところね」


 さすがによくわかっている。

 僕が競馬を始めた年にクラシックを戦っていた馬であり、愛してやまないレインボーラインのライバルだった馬でもある。そういったところで些か肩入れしたい気持ちがあることは否めない。


「なるほどね。そういう気持ちの部分って競馬にはとても大事だと思うわ……でもね」


 澤多莉さんはキッとこちらに鋭い目を向けると、居丈高に言い放った。


「あえて言おう、カスであると!」


 多分どこかで言われるだろうなと思っていたので驚きはなかったが、その迫力に言葉は返せなかった。


「まったく、そんな浪漫で馬券が当たったら誰も苦労しないわよ。年寄りの冷や水って言葉知ってる? 9歳馬よ9歳。人間で言ったら119歳ぐらいの高齢馬よ」

「さすがに世界最高齢の人と同等ではないと思うし、年長馬でも今回のメンバーならチャンスあると思うんだけどなあ」

「ないわよ、ない。私が旦那と別れて、未練たらたらの男と結ばれるのと同じぐらいあり得ないことよ」

「……」


 返す言葉が見つからない僕に、澤多莉さんは一瞬憐れむような視線を投げてきたような気がしたが、すぐに視線を競馬新聞の紙面へと落とす。


「勝つのはこの馬よ」


 2枠3番・インティ。


「……えーっと、確かこの馬も結構年齢はいってた気がするけど」

「何言ってるのよ。老当益壮とか老いてなお盛んって言葉を知らないの? この馬はダート界の黄忠と呼ばれてるのよ?」

「それは寡聞にして存じ上げなかったけど」


 少々の皮肉を込めて言ったつもりだったが、澤多莉さんにはそんなの通じない。ご満悦な表情で語る。


「チャンピオンズカップを見たでしょ? 先行してあわやというところまで粘って。もしあれが1600mならぶっちぎりで勝ってたわね」

「テーオーケインズには掴まってたと思うけど」

「もし彼が言葉を喋れたとしたらこう言うでしょうね『わしがそんなにノロマかね。歳の割には素早いはずだ』ってね」

「それだと、あっさり撃墜されちゃうことになるけど」


 まあ澤多莉さんであれば旧ザクのショルダータックルでもガンダムを倒してしまうかもしれないな……などと思っていると、彼女はスッと立ち上がり、僕を見下ろしてこう言った。


「ま、明日になればわかるわよ。私とあなた、どっちが時の涙を見ることになるのか」


 最後までこんな調子だった。よほどハマっているらしい。

 なので、連れ立って馬券を買いに行く際に、ふと言ってみた。


「あんまり名台詞とか言うもんだから、僕も久々にガンダム観たくなってきちゃったな」

「そうね。それが健全な男子の在り方よ」

「……ねえ、次からは僕が出かけてる時じゃなくて、二人で一緒に観ない?」


 こんな申し出をするのにも、未だに少々の勇気を要してしまう。

 澤多莉さんはクスッと笑うと、自然な所作で僕と手を繋いできた。


「そうね。考えておくわ」


 彼女の指が、僕が付けているペアリングをそっと撫でたのを感じた。




 ◆フェブラリーステークス


 澤多莉さんの本命 インティ

 僕の本命 エアスピネル

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