第26話 エリザベス女王杯Ⅱ
雨降りそぼる金曜の午後。大教室の最後列の席を確保した僕は、講義は右から左ヘと聞き流し、手元のタブレット画面へと意識を集中させていた。
画面に溢れかえっている膨大な情報を整理し、どうにか最適解を導き出そうと、懸命に思考を巡らす。
指を動かし、画面を馬柱からモズカッチャンの過去競走成績の表示に切り替える。
昨年の勝ち馬で、国内GⅠでは一度も複を外してなく、叩き良化型といっても休み明けで明確に不出来だったのはローズステークスのみ。やはり切るわけにはいかないだろうか。
いや、ことはそう単純ではない。
何だかんだ言って昨年のエリザベス女王杯で戴冠して以降、連対していないわけで、ここはむしろ危険な人気馬ともいえる。
そもそもあの時期のミルコ・デムーロは神がかっており、あの時も内内でしっかり脚を溜め、ベストタイミングで追い出し、ゴールで3頭ほぼ並んだところクビ差での勝利だった。
この秋、些かリズムに乗れていない鞍上に同じ芸当ができるかどうか……
昨年のレース映像を脳内で再生していると、フッと検討への集中力が霧散し、強い感慨に襲われる。
……ああ、あれからもう一年経ったんだ。
ほぼ丸一年前、東京競馬場のターフビジョンでモズカッチャンの鮮烈な勝利を目撃した、つまりは澤多莉さんと初めて競馬場で時間を過ごしたあの日、僕の世界は変容した。
いや、変容が始まったのはそれより二日ばかり前だろうか。つまりは、ちょうど一年前の同じ曜日、同じ時間。
こうして大教室の一番後ろの席で、競馬の検討に腐心していた僕のもとに、気まぐれな女神が降臨した瞬間、僕の世界は色づきはじめた。
改めて馬柱を見る。
一年前に僕が本命にしたヴィブロスと、澤多莉さんの本命だったジュールポレールの名前はない。両馬とも今年は別路線に向かった。
昨年から引き続きの参戦となっているのは17頭中5頭。
時は流れ、今僕は一年前とは違う教室で、違う教授の違う講義を受講しつつ、一年前とは随分顔ぶれが入れ替わったGⅠレースを、一年前と同じように検討している。
何だってそう。変わることもあれば変わらないこともある。
でもきっと、もうすぐ一年前と同じように僕の隣に女神が降臨する。そう期待することは傲慢だろうか。
と、ふと背後に人の気配を感じる。
僕が軽く足と尻で自分の椅子を引いて通り道を空けると、その人物は僕の後ろを通り、ごく当然のように隣の席に座ってきた。
その凛とした横顔に吸い込まれるのは何度目だろう。長く艶やかな髪、透明感のある色白の肌、整った目鼻立ち、そして均整のとれた身体つき。
出会って一年を経ても、未だに見蕩れてしまう僕がどうかしてるのか、彼女の美貌が異常といえるレベルなのか。
今日も女神な澤多莉さんだった。
白いブラウスに薄い黄色のカーディガンという清楚な服装は言うまでもなくよく似合っている。
いや、清楚なだけではない。今日は服の上から斜めに襷をかけており、自ずとふたつの膨らみが強調され、とても目のやり場に困る状態で……
……どうやらいつまでも見蕩れさせてはくれないらしい。
僕はこの一年で己に定着した役割を果たすべく、澄まし顔で前を向いている澤多莉さんに声をかける。
「えーっと、その襷は何かな?」
澤多莉さんは表情一つ変えず、静かな声でこう返してきた。
「見りゃ、わかるだろー」
おっと何だこれは。
澤多莉さんは言葉とともに、掌を横に向け、手の甲の側を軽くこちらの胸の前あたりに持ってくる------つまり、往復ビンタの復のような動作を行い、また澄まし顔。
「うーん、ちょっと見ただけじゃよくわからないと言うか」
「日本語読めないんかーい」
また同じ動作とともに、妙に棒読みな感じで言葉を投げてくる。
「『東洋一のツッコミ』って書いてあるように見えるんだけど……」
「読めるんかーい」
三たび同じ動作。白くしなやかな手と指が、僕の身体に触れる寸前で止まる。
「昨晩、エリザベス女王杯の予想に行き詰まってしまって、気分転換に一年ぶりにグリーンチャンネル以外のテレビ観てたら、なかなか興味深いプログラムを放送しててね」
そのままの姿勢で説明を始める澤多莉さん。こちらも何となく身動きがしづらい。
「芸人という人種は、ボケとツッコミに大別されるってことは、美味しんぼの柳川鍋の回で知っていたんだけど、どうやら彼らの中にはボケからツッコミに転向する人も結構いるらしいのね」
「あー、『アメトーーク』見たんだね」
そういえば、彼女が競馬の道へと足を踏み込んだきっかけもその番組だったことを思い出す。
「なるほど、自らの属性を180℃転換してみれば、新たな地平が開けることもあるのかもしれない、ひいては相馬眼が養われることに繋がるかもしれないって思って」
「おそらく繋がらないと思うけど」
「で、勿論私は芸人じゃないからボケでもツッコミでもないんだけど、強いて言えばどちらの属性に当てはまるのかなと自己分析したところ、54:46ぐらいでボケ寄りなのかなって」
「強いて言わなくても、98:2ぐらいでボケだと思うけど」
「ここは一つ、ツッコミ屋さんを始めてみようってことで、やたらと乱雑に商品が陳列されてる居心地の悪い店で、これを買ってきたのよ」
言いながら、『東洋一のツッコミ』と書かれたパーティーグッズのような襷を見せてくる。
この人は無自覚なのかもしれないが、女性のたすき掛けというものは、強力な破壊力を持ったちょっとした兵器である。
強調された膨らみに思いきり視線を向けてしまい、激しくキョドりながらも、かろうじて言葉を返す。
「そ、そんなのかけてる時点で、もはやツッコミでなくボケなんじゃないかと思うんだけど」
「何、言ってんだよー。パラドックスか」
今度はツッコミに何やら付け加えてくる。
一年前、僕のもとに降臨した女神は、少しばかり個性が強く、こちらとしてはただ耽溺しているだけというわけにはいかない、油断のならない存在でもあった。
「さ、遅参してしまったけど、しっかり授業を受けなきゃね。何々、今日のテーマは『ソクラテスの闘争』? また随分と基本に立ち返った講義をするものね……っておおぅぃぃ」
淡々と喋っていたかと思いきや、仰け反るようなポーズをとる澤多莉さん。
これにより、またふたつの膨らみが以下略。
「今は、エリザベス女王杯の検討をする時間でしょうがぁ」
学生にあるまじきノリツッコミをセルフで決めたところで、日曜日に控えたGⅠレースの検討へと突入。
「さあ阪神くん、キミの本命はどの馬なのか、お客さんに聞かせてあげて」
音量は上げぬまま、少し甲高いトーンの声を出すという器用な真似を披露しつつ、こちらに話を振ってくる澤多莉さん。
「まあ、僕は阪神くんじゃないけど……今回はすごい混戦で、軸を決めるのも簡単じゃないなあって」
「何意気地のないこと言ってるんだよっ。いくじなし。クララのいくじなしっ」
今度はツッコミの手をこちらの胸にポンと当ててくる。どうやら若干の変化をつけているらしい。
「ま、まあ、今のところ本命に考えてるのは、モズカッチャンなんだけど」
「ムリに決まってんだろー。モズカッチャンが連覇なんて、福永がダービー制覇するぐらいあり得んわー」
「もうその例えツッコミは成立しないってことはさておいて、まあ全幅の信頼はおけないのは確かなんだよね。熱発で前走回避してるし、デムーロも最近調子良くないし」
「わかっとるやないかいー」
ついに関西弁になった澤多莉さんを受け流しつつ、今一度タブレット画面を眺めてみる。
「あとは、やっぱりこの辺かな」
「普通かー」
リスグラシューの名を指差したところ、左手で胸を、右手で後頭部を叩くという激しめのツッコミを頂戴する。
「何、リスグラシューがマイルベストのフリして、実はオークスの時も昨年のエリザベス女王杯の時も、最後まで脚色にぶってなかったところに着目しとんねん。いい加減にしいやー」
本当に一年間グリーンチャンネル以外は見ていなかったとは思えないような流暢な言い回しを決める澤多莉さん。
何だか彼女流のツッコミをいただくのも、悪くないような、むしろ至高の贅沢なんじゃないかという気がしてきたあたり、やっぱり僕はどうかしてるらしい。
「あとやっぱりノームコアとカンタービレの3歳勢も気になるところだよね」
「そんな若いヤツが勝てるわけないだろー。前代未聞だわー」
「いや、いくらでも前例あるから」
ここで、澤多莉さんが視線を送ってくる。何気ない、こうしてすぐ側で相対していても、見過ごしてしまいかねない一瞬の目くばせ。
この一年で、僕はその意図するところを誤りなく汲み取ることができるようになっていた。
「じゃあ、澤多莉さんの本命馬は何なのさ?」
そう、あの視線は、そろそろ私に振ってきなさいという合図の筈だ。
「ボクの本命馬?」
自信に満ちた表情で、澤多莉さんは馬名と、プラスアルファの台詞を吐いた。
「そんなんクロコスミアに決まっとるやん。アホンダラしばくぞ、怒るでしかし」
「クロコスミア?」
「おう、おう、このメンバーなら、バーっと先行して、直線でもそのままそのままってブワーって1着ゴールインや。今年はモズカッチャンには抜かされへんで〜」
よくわからない身振り手振りを交えながら、もはやツッコミでも何でもない放言をする澤多莉さんだが、まあ確かに展開が向けば侮ってはいけない1頭ではある。好位からつついてくる馬が結構いそうなので厳しいとは思うが。
「奇しくも昨年の1着馬と2着馬をそれぞれ指名ってわけね。面白いじゃない」
急に普段の澤多莉さんの口調に戻る。どうやらおかしなノリは終了したらしい。
「明後日の勝負が楽しみだわ。もしあなたが負けたら、パンパンやな」
終了してなかった。
ここでチャイムが鳴り、授業は終了。
澤多莉さんよりよほど大きな声で行われている講義なのだが、何も頭には入ってこない。
澤多莉さんはスッと立ち上がり、襷を外した。
「あ、それ外すんだ」
何気なく指摘すると、澤多莉さんはこちらを見下ろし、微かに笑みを浮かべた。
「一周年記念のパイスラサービスを、他の人になんて見せへんわー。もうやめさせてもらうわー」
こちらのおでこを軽くピシッと叩いて、颯爽と去っていく。
……何というか。本当に女神。ありがとうございます。
この人と迎える2年目も、こんな感じでいられるのなら、こんな幸せなことはない。
(つづく)
◆エリザベス女王杯
澤多莉さんの本命 クロコスミア
僕の本命 モズカッチャン
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