第25話 天皇賞(秋)
昔の人は言っていた。決戦は金曜日。
何を戯言を、馬券師たるもの決戦は土日じゃいと言いたくなるところではあるが、我々とてしばしば金曜日の決戦に臨むのを余儀なくされるのは事実だった。
大学の裏手にある喫茶店『月が丘』は、外の喧騒から切り離されたかのように静寂に包まれていた。
窓際のいつものテーブルに澤多莉さんと僕、カウンター内のこれまたいつもの位置に座り読書に耽っているマスター、店内には他に誰もいない。
普通の飲食店であればランチタイムのかきいれどきである時間帯にこの状態で、果たして経営は大丈夫なのかと甚だ疑問ではあるのだが、まあ今は他者の心配をしている場合ではない。
テーブルに両肘をつき、両手でしっかり持ったスマートフォンを見つめる。
壁掛けのからくり時計の針が動く音が微かに聞こえ、手元の液晶画面の時刻表示は12時29分になった。いよいよ決戦のときを迎えようとしている。
向かい側の澤多莉さんは僕と全く同じ姿勢でスマホを凝視している。
ちなみにスマホカバーには黒地に赤い荒々しい筆文字で『鏖』と書いてある。何と読むかわからないが、今はそれを尋ねている場合でもなかった。
テーブルの上には食べかけの大きなピザが刻一刻と食べどきを過ごしつつあるが、当然それに手を伸ばしているような場合でもない。
決戦のときまであと30秒ほどといったところか。
準備は抜かりないし、退がるつもりもないし、スマホを持つ手も離しもしないが、それでも夢が叶うかはわからない。そんな苛烈な戦いが始まろうとしていた。
僕は緊張とともに大きく息を吸い込んだ。
時計の針の音が耳に、12:30の時刻表示が目に飛び込んでくる。
戦闘、開始。
すかさず指を動かし、スマホ画面上のログインボタンを押下する。
パスワードを入力する画面に遷移するや、すかさず元々コピーしてあったパスワードをペーストし、またログインボタンを押す。
しばし読み込み。
強い念を込めて画面を見つめる。
《アクセスが集中しているためログインできません。おそれいりますが、出直してこいバカ》
こんな感じのメッセージが表示され、僕は落胆のため息をついた。
即座に再度同じ手順を繰り返し、またログインを試みる。経験上、第一波でログインできなかった場合、その後何度チャレンジしてもひたすら追い返され続けることになるのだが、百万に一つぐらいの奇跡が起こるかもしれない。
正面の澤多莉さんに目を走らせたところ、あちらも顔を曇らせてまた素早く指を動かしている。どうやら同じ状況のようだ。
金曜日の12時30分、即ちJRA指定席の空席販売開始の時間は、先行抽選・一般抽選と敗れてきた者たちによる決戦の刻であった。
当選したにも関わらず購入手続きをしなかったり、キャンセルしたりといった慮外者たちのおこぼれに預かるべく、大勢の競馬ファンたちがネット予約に殺到する。
やはり再度弾かれ、三度目のアクセス。既に敗戦ムード濃厚。
「心底どうしようもないクソ仕様ね」
澤多莉さんが抑揚のない口調で呟く。
「今どき田舎のゲートボール大会の申込みだってアクセス順にログイン待ちになるのに、しばらくたってからまたログインしてくださいとか何なのよそれ。JRAの職員は高給取りと聞いているけどバカしかいないのかしら? UMACAとかくそしょうもないものを導入する前に、こういうところを改善してほしいものね。これだから親方日の丸は」
なかなかの毒づき具合ではあるが、全てにおいて同意だった。
と、まさかのログイン成功。指定席ネット予約のトップ画面へと遷移する。
驚き混じりの喝采を心中挙げながら、素早く画面をスクロールし、今度の日曜日の東京競馬場の購入申込みボタンを押下する。
ひどく読み込みに時間がかかる。激しい争奪戦はまだ道半ばだった。
ようやく画面が遷移し、席種選択画面へ。
ここでじっくり吟味している時間などはない、とにかく空席表示がある席種のボタンをポチっと押す。
ここでもまた読み込み。
《お前に用意する席なんてあるわけねえだろバカ》
案の定こんなメッセージが表示される。
すかさずまた別の席種をポチるが、どこを選んでも同様だった。
確かに、『空席表示になっていても席が用意できない場合もある』というエクスキューズは明記してある。
しかしこれについては、『空席表示になっていれば席が用意できる場合もある』といった表現に変えた方が適切ではないだろうか。
注文する料理が悉く「あー、今日もう終わっちゃったんすよ」と言われる三流居酒屋のごとく何も成約することができず、悪戦苦闘すること約30分、ついには全席種空席なしになってしまった。
スマホ画面の時間表示が13時になり、掛け時計のからくりが作動する。
僕はガックリと肩を落とし、王子さまが寂しげにポニーを見つめるのを眺めた。
「まったくバカにされたものね。貴重な時間とデータ通信量をいたずらに浪費させられて、こんな屈辱はいつ以来かしら……」
同じく席取りを果たせなかった澤多莉さんも相当おかんむりの様子だった。
「そうね、雪の中裸足で破門を解いてもらえるようにひざまずいた時以来だわ」
「え? ローマ皇帝だったの?」
ごく当然の疑問を投げかけると、澤多莉さんは呆れたように軽く息をついた。
「何トンチンカンなこと言ってるのよ。あなたは腹が立たないの? JRAのウンコチンチン連中に、蜘蛛の糸に群がる亡者たちのように見下されているっていうのに」
「まあそう見られてるかはわからないけど、確かにもう少しログイン環境とか改善してほしいなとは思うけど」
「何を甘っちょろいことを言ってるのよ。身体を鍛えて、パンツ一丁にマントと一体型のマスクをすっぽりかぶって、さまようよろいチックな子分たちを引き連れてJRAに殴り込みでもかけたらどうなの?」
めちゃくちゃなことを言うと、苛立ちを紛らすかのように長い黒髪を軽くかきあげる。今日はグリーンのカチューシャを付けており、言うまでもなくよく似合っている。
微かに眉根を寄せ、微妙に口をへの字にしている様ですら、また格別の魅力を醸し出してしまうのだから美人というのはおっかない。
しばしの間の後、どちらからともなく中断していた食事を再開した。
マスターが石窯で焼き上げたお手製ピザはすっかり冷めてしまっていたが、それでも絶品といえる美味しさだった。
それぞれ黒い炭酸の液体(僕はコーラで、澤多莉さんは琥珀エビス)で流し込む。
食事を終えた僕たちはデザートの柿パフェをつつきながら日曜日の大勝負の検討に入った。
テーブルに置いたタブレットの画面を二人で覗き込む。
「それにしても13頭立ては少し寂しいわね。ディアドラの冷やかしは何だったのかしら?」
「さあ……でもディアドラも残念だけど、ワグネリアンやダノンプレミアムがこのメンバー相手にどこまでやれるかってのも見てみたかった気がするよね」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ。このメンバーで確定したんだから、グチグチ言わずに予想しなさいよ」
「うっわ、すごい勢いでハシゴ外された」
改めて出馬表を見るまでもなく、有力馬の回避が出てもなお垂涎の豪華メンバーが揃っており、競馬ファンなら誰しも生で見たい、そして誰しもバシンと当てたいレースであった。
「まあレイデオロとスワーヴリチャードの二強に割って入れる馬がいるかいないかって話だと思うんだけど……」
「あら? その2頭プラスマカヒキで三強って風潮になってるように思えるんだけど」
「それはダービー馬への敬意が多分に含まれてるんじゃないかなって。個人的に応援したい気持ちもあるんだけど、ちょっと厳しいかなって気がする」
「でも札幌記念で復活の兆しが見えたじゃない」
「でも、そのときあまり差のない競馬してたサウンズオブアースは毎日王冠で大敗してるわけだし、過大な評価はできないかなあって」
「なるほどねえ」
澤多莉さんは思案げな表情を浮かべ、パフェを口に運ぶ。
柿のパフェなんてどうなのかと思ったが、存外に美味しく、秋の味覚を堪能できる一品である。
「そうすると、結局本命はデムルメのどっちかってことになるのかしら?」
「まあどうしてもそうなるかなあ……特にここのところのルメールには逆らいがたいものがあるかなあって。ましてレイデオロは東京で連対外したことないし」
「スワーヴリチャードは? こっちも左回り、休み明けと滅法強いようだけど」
「でも休み明けでここまでのメンバーと戦うのは初めてだし、レイデオロと比べると少しだけ不安があるのかなあって。でもスワーヴが勝つことも普通にあると思う」
「なるほどね。とにかくデムルメ買っとけば良いっていう思考停止野郎のご意見ありがとう。参考になったわ」
まあそんな風に言われることは織り込み済みではある。これぐらいで怯むもんか。
「それなら、澤多莉さんの本命はどの馬なの?」
「そんなの決まってるじゃない」
自信満々に出馬表を指差す。
「デムーロよりルメールよりすごいモレイラで決まりよ!」
「よくそれで人を思考停止呼ばわりできたね……」
「あら、言ってくれるじゃない」
澤多莉さんは好戦的な視線をこちらに送ってきた。
「早仕掛けに定評のある二強が潰しあってくれればじっくり構えて捕らえることができるでしょうし、逆に牽制し合って菊花賞みたいな直線のキレ勝負になった場合でも十分に勝機はあると思うんだけど」
「なるほど、確かに……」
よくよく考えてみたら、澤多莉さんにしてはかなり固めの予想ではある。
お互い秋のGⅠ3連敗。ここらで当てないとまずいという危機感があるのかもしれない。
「それにしても、どう考えてもこれは生で観ないといけないレースよね」
頬杖をつきながらそんなことを言う。
確かにその通り。それだけに指定席は喉から手が出るほど欲しかった。
「ま、まあ、こまめにログインしてたら、うまくキャンセルが出ることもあるかもしれないし、さいあくまた開門ダッシュしてもいいし」
気を取り直すように言ってみるが、澤多莉さんは僕の言葉には特に反応を見せず、どこからか一枚の紙をスッと取り出した。
「まあしょうがないから、この当選ハガキを使おうかしら」
「…………はい?」
我が目を疑う。
澤多莉さんが持っていたのは、日曜日の指定席ハガキ抽選の当選通知だった。
「え? え? だったら何でネットで指定席取ろうとしてたの?」
「だって、ネットでも取れれば、このハガキを高値で売れそうじゃない」
「いや、ダメだから! 絶対やっちゃいけないことだからそれ! そもそも、今からネットオークションとか出しても、日にちがなさすぎて手続き間に合わないでしょ」
まあそういう問題でもないのだが。
「そこはホラ、水道橋の駅前でチケット余ってたら譲ってくださいとか、同行させてくださいとか紙に書いて立ってる人たちに売りつければ」
「あの人たちの目的地は東京競馬場ではないと思うけど」
まあきっと冗談なのだろう。そう信じることにしよう。
転売ダメ絶対。
(つづく)
◆天皇賞(秋)
澤多莉さんの本命 サングレーザー
僕の本命 レイデオロ
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