第24話 菊花賞
昨日は秋風爽やかで、お年寄りならずとも「すっかり過ごしやすくなりましたなあ」などと呟きたくなるような気候に恵まれたかと思いきや、一転してどんよりひんやりとした気候に見舞われ、マダムならずとも「あら、もう秋は終わりですの?」と首を傾げたくなるような本日金曜日。
大教室の窓から外の景色を眺めると、灰色の空の下、まだ紅葉の季節もこれからというのに、樹木の種類によってはだいぶ葉が少なくなったものも見受けられる。
確実に冬の足音は近づいてきている模様。こんな少しばかり憂鬱な季節を愛するのであれば、そりゃ心深き人と目され、ハイネ呼ばわりもされるわけだと納得できる。
まあ、こちらとしては移り変わる季節に感じ入っている場合ではなく、秋のGⅠ二連敗を喫し、むしろ危急存亡の秋というやつである。あの苦しい夏はなんだったのかと気が遠くなる。
お天気のことなぞはとりあえず土日には回復して競馬観戦にうってつけの気候になりそうだということと、京都は好天続きで絶好のコンディションでクラシック最後のレースが施行されそうだということがわかればそれで十分。
いつものように教室の最後列に着いていた僕は、いつものように机の上に置かれたタブレットの画面を、いつものようにじっと見つめていた。
昨日枠順が発表されてから、何度も丹念に検分してきた出馬表を、改めて端から見返していく。
「フム、時候の描写から始まって、授業中の教室でコソコソと競馬の検討をすすめる……基本形をおろそかにしてはいけないってことね」
そして、いつものように隣には澤多莉さん。いつものように何やらよくわからないことを言っているが、いつ見ても美しい。
白い肌、白のカットソーに、長く艶やかな黒髪が一際映える。こちらに向けられたその瞳は、先週三冠を達成した牝馬よりも澄んでいて、思わず吸い込まれそうになる。
「まあ、その為にこの授業を履修してるってところはあるから」
我ながら最高学府に通うものにあるまじき発言だとは思うが、まあ仕方のないところだろう。
ちなみに、本日の哲学Dの講義は『植田まさし作品から読み解く本質主義』というテーマで行われている。
『フリテン・おとぼけ・かりあげ→すなわち本質』などと書き散らされた黒板を背に、今日も意気軒昂な老教授は熱弁を振るっている。
かなり興味深い講義なのかもしれないが、こちらにそれを傾聴しているだけの余力はない。何とか三タテは回避し、秋のGⅠシーズン中盤戦に向けて立て直していかねばならない。
「ちょっと消しゴム貸してもらえる?」
一方の澤多莉さんは、いつものように一緒にタブレットを覗き込むのではなく、机にノートを出し、盛んに何やら書きつけていた。
「あ、うん」
消しゴムを手渡すとき、僕の指先と澤多莉さんの白い指先とが微かに触れる。出会ってからだいぶ月日を数えるが、こんな時は今でも鼓動が高鳴ってしまう。
「どうも。おいくら?」
「え? おいくらって……?」
唐突な問い。この人はいつだって唐突だ。
「そんな、お金なんていらないよ」
「あら、どうして?」
「どうしてって……」
何を言っているのかよくわからない。どこの世界に恋人に消しゴムを貸して料金を徴収する人間がいるのだろうか。
澤多莉さんは僅かに口元を緩めた。
「澤多莉組だったらタダなのかコノヤロー」
「……まだたけしイズムが抜けてないんだね」
どうやら言いたい台詞を言うための単なるフリだったらしい。
その証拠に澤多莉さんの机の上には、ちゃんと消しゴムがあった。一応そのことを指摘しておく。
「自分の消しゴム持ってるじゃない」
「あら。自分のを使ったら自分のがすり減ってしまうじゃない」
「ケチか! つるセコか!」
「……随分と失礼かつ時代錯誤なツッコミをするのね。あなた本当に21歳の大学生なの?」
鋭く切り返され、思わず言葉に詰まる。
「まあいいけど。ところで消しゴムといえば、好きな人の名前を書いた消しゴムを使い切ることができれば、両想いになれるなんていう学説があったわね」
「学説じゃなくて、おまじないの類いだと思うけど」
澤多莉さんはこちらに瞳を向け、微かに笑みを浮かべた。
「あなたも誰かの名前を書いてたりして」
僕の消しゴムをためつすがめつする。
「そんなの書いてないよ」
「どうかしら? 疑わしいものね。ちょっとひん剥いてみようかしら」
「ひん剥くって」
ゆっくりと消しゴムのカバーをずらしていく澤多莉さん。
消しゴムの、カバーに覆われていたために新品同様に真っ白な部分を露出させていくその指先が妙に艶かしいような気がするのは、僕がおかしいのだろうか。
ほどなくすっかりカバーが外されたその文房具の一面を眺め、澤多莉さんは納得したような声を出した。
「へえー、なるほどねー」
「いや、絶対に何も書いてないから」
カバーをはめ直すと、澤多莉さんはこちらに横目を向けてきた。
「で? この祝融夫人って人はどんな人なの?」
「だから書いてないって。まして南蛮王の奥さんの名前なんて」
「べべ別にあなたが誰のことを好きだろうと、興味ないんだからね」
「急にツンデレ?」
こんな調子で僕に絡んでくるのにも飽きたのか、澤多莉さんはまたノートに何か書きつけはじめた。
「ところで、さっきから何書いてるの?」
気になって尋ねる。まさか授業のノートをとっているということはないと思うが、或いは植田まさし作品のフリークだったりするのかもしれない。
「誕生日が近いから。彼氏に贈ってもらうものを考えておこうと思って」
眉ひとつ動かさずそんな答えを返してくる澤多莉さん。
手元のノートにはズラッと単語が列挙されており、一番上に『カイエン』、その次に『ストラディヴァリウス』と書いてあるところまでチラ見して、僕はそっと目線を外した。
僕が重大な認識違いをしていないのでなければ、この人の彼氏にそのような経済力はない筈だ。もしかしたら自分自身ではなく、剛力彩芽が彼氏にもらうプレゼントでも考えてあげてるのだろうか。
澤多莉さんはしばし思案げに虚空を見つめていたが、息をひとつついてノートをパタンと閉じる。
「ま、これについてはまだ時間があるから、何か他にもあったら追加するとして」
「ん……追加? もしかして候補を挙げた中から一つ選ぶんじゃなくて、全部を無心するつもりなのかな……?」
おそるおそる尋ねるこちらには一瞥もくれず、澤多莉さんはタブレットを覗き込んできた。
「そんなことより菊よ菊。そういえば小学生の頃父親の書斎で『きクぜ』っていう写真集を見つけたことを思い出すわね」
「それについては深く追及しないでおくけど、今年の菊花賞は混戦って感じでとりわけ難しいよね」
「そう?」
澤多莉さんは意外そうな顔をし、白魚のような指でタブレット画面の出馬表をそっとなぞる。
「そんなに難しかったかしら……何よ、ちゃんと勝ち馬はこの中にいるじゃない」
「まあそりゃそうなんだけど……澤多莉さんと違って凡人の僕には、レースが始まる前にどの馬が勝つか見抜くのは至難の業なんだよね」
しまった、調子に乗って皮肉が過ぎたかと、言葉を返した瞬間に自省の念が湧いてきたが、澤多莉さんはさも当然とばかりに頷いた。
「確かにそれはそうでしょうね」
この人はいつでも自信に満ち溢れている。僕も少しは見習うべきなのだろう。見習いすぎるのは明らかに問題だと思うが。
「そんな凡人であるあなたの、平々凡々な見解を聞かせてもらおうかしら? 本命はどの馬なの?」
「そう言われると、ものすごく答えづらいものがあるんだけど……まあ、この辺かなって」
タブレット画面に表示されている馬名を指差す。
「あら? でも今回エポカドーロは専門家筋ではえらく評判悪いみたいよ。スタート悪かったとはいえ神戸新聞杯の負けっぷりはよろしくないって」
「うん、そう言われてるのは知ってるんだけど、でもなんだかんだ皐月賞1着、ダービー2着の馬だよ? 強いのは間違いないんじゃないかなって」
「二年前の菊花賞には、皐月賞馬でダービー3着だった馬が出てたって聞いてるけど」
「うっ……」
確かにあのとき、ディーマジェスティは馬券にならなかった。
「で、でも、あのときは春に同等の実績残してたサトノダイヤモンドがいたけど、今回はクラシック二戦とも上位に入ってる馬は他にいないし」
「なるほど」
「それに、藤原厩舎だから、賞金十分足りてるときのトライアルはさほど仕上げて------」
「なるほど」
「……戸崎騎手だって関西が苦手とされてるけど、実は京都の------」
「なるほど」
「…………」
澤多莉さんは出馬表の上で指をくるくるさせながらこちらに相槌を打っている。
「……そういえば一昨日天体観測してたら死兆星が------」
「なるほど」
「……知り合いの知り合いがフォッサマグナに食べられ------」
「なるほど」
「聞いて! 凡人の見解かもしれないけど、一応一生懸命考えてるから!」
澤多莉さんはやれやれとばかりに肩をすくめた。
「わかったわよ。常人より少し悪い頭で、無い知恵を絞って、わざわざ外れる馬券を買おうというあなたのドン・キホーテ的精神には賛辞を贈らせてもらうわ」
「賛辞って言葉の意味知ってる?」
「そんな健気でいたいけなあなたに特別に教えてあげるけど、今回先行馬は全滅するわよ」
「えっ?」
澤多莉さんは眼光鋭くこちらを見やってくる。
「ただでさえ出入りが激しくなりがちな長距離戦、しかも今回は間違いなく向正面あたりから前の馬を潰しにくる馬がいるわ」
真ん中より少し外のあたりの枠を指し示す。
「6枠と7枠に固まっているサンデーレーシング四天王の誰かが、内枠の先行馬勢を潰しにくるはずよ。察するに鉄砲玉の浜中騎手を乗せたコズミックフォースあたりが先行力もあって適任かしら?」
なるほど、確かに全くなさそうな話ではない。
日本ではあからさまに利他行為を行うのは禁止されているが、先行馬を潰して上がり勝負に賭けたい僚馬を押し上げることができれば良し、自身が残れればなお良しといった動きに打って出ることは戦術として当然かもしれない。
「で、その展開にうまく乗じて、結果として勝つ馬はどれか? サンデーレーシングの素質馬に乗った外国人騎手が突っ込んでくるのか? もう一人のGⅠ大好きイタリア人が漁夫の利を得るか、それともまともに走れてればダービー馬だったかもしれないとさえ言われてるブラストワンピース池添か……いや」
次々と馬名や騎手名を指でさすが、最終的に止まったのは意外なところだった。
1枠2番・グレイル。
「京都の長距離でバタバタと前が動く中、慌てず騒がず控える競馬をして、直線で一閃、このジョッキーの十八番・イン突きが決まって真っ先にゴールする……半年ばかり前にどこかで見たような気がする光景ね」
忘れるはずがない。愛してやまないレインボーラインが競走馬生命を燃やしてまで頂点へと駆け抜けたあのレースのことは。
「まあゴールの後まで同じようになっては困るけどね」
と、授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。
黒板を見ると、いつの間にやら植田まさし先生本人が描いたとしか思えないようなレベルの課長キャラがチョークで描かれており、吹き出しに『ンモー』と書いてある。
にわかにガヤガヤしだす教室内。他の学生たちと同じように、澤多莉さんもノートや筆記用具をバッグにしまいはじめる。
「そうそう、コレありがと」
消しゴムを返されて、僕はすぐ異変に気付いた。
「これ、僕の消しゴムじゃないよね」
「ええ。あなたのやつの方が大きい上に消しやすかったんで、私のとトレードしておいたわ」
「ジャイアンですかあなたは……」
思わず呆れた声が出てしまうが、まあ消しゴム一個ぐらい特に問題はない。手渡されたものをしまおうと、ペンケースのチャックを開く。
「言っとくけど、ひん剥いたりしたらダメよ」
「えっ?」
既に澤多莉さんは荷物をまとめ、立ち上がっていた。
「じゃ。競馬場で」
髪をなびかせ颯爽と立ち去っていく。
僕の手元には、ついさっきまで澤多莉さんの所有物だった消しゴム。
「…………」
ああ言われて、消しゴムのケースを外さないでいられる人間が果たして存在するだろうか。
躊躇を覚えつつ、僕はゆっくりと消しゴムを剥き出しにしていった。
「…………」
消しゴムに書いてある文字を見て、僕は感情が表情に出てしまわないように苦労した。
教室の最後列、冴えない男が一人でにやにやと相好を崩していたらさぞ不気味がられてしまうことだろう。
(つづく)
◆菊花賞
澤多莉さんの本命 グレイル
僕の本命 エポカドーロ
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