ご要望に添えるよう全力を尽くします。
するりと禅が窓際まで移動し、カーテンを開ける。朝焼けの光が爛れた空間を焼く。鳥の影が横切り、空を割る。
まるでその光を恥じるように、慌てて下着やバスローブを身につける男達。床に落ちた下着を拾おうと、全身に入れ墨が施された壮年の男が身をかがめ背を向ける。
が、その男が再び顔を上げた時、片手には銃が握られていた。銃口を貴士に向け、引き金を引こうとしたが願いは叶わない。二郎の放つ銃弾に弾き飛ばされたからだ。
「みっともない真似はよせよ。自由と好き勝手を履き違えちゃいけない」
思わず漏れる舌打ち。衝撃で痺れた手を何とか動かして刀を掴む。
「そこの、刀持ってる奴等は貴士が相手するんだろう? じゃ、残りはこっちが片付ける。ってことでいいか、禅?」
「はい。そのつもりです」
通信を終えた禅が鷹揚に頷き、「いつでもどうぞ」と言い放つ。
「僕はいつでも結構です。そこにいる皆さん、死にたくなったタイミングで行動して下さい」
慇懃無礼、とは正にこのことを言うのだろう。禅の顔付きは至って真面目そのものであり、彼が冗談でもなければ嫌味の類を言ったわけでもないということを分かりやすく示している。
頭に血が上る。ただでさえ血気盛ん、悪く言えば頭の悪い連中だ。陣営が縮小し、なお敵に狙われているというこの鬼気迫る状況において、呑気に性欲を満たしていたような奴等だ。
「っテメェ、ナメくさりやがって!」
誰かが上げたこの声が合図になった。襲いかかる男達。だが、誰よりも正確無比な二郎と、誰よりも速い禅の射撃の前では為す術もなく倒れるだけだ。
そして。
先程不意打ちを食らわせようとした男が、貴士へと斬り掛かった。男の呼び名は『武蔵』と言う。そう、十鬼懸組の幹部・十傑の一人だ。彼の振るう得物は大太刀であった。夜明けの光を受けて刀身がぎらり、生々しい光を放つ。
「……禊葉一刀流」
貴士が小さく、口の中だけで呟く。誰にも聞こえない、ごく小さな呟き。
「
踏み込む。柄に掛けた手と、鞘を掴む手が、滑らかに互いの役割を果たし、動く。風が走る音だけが微かに聴覚へ届き、視覚は後から追い付く。速い。あまりにも。
殺気を感じるよりも先に現実が動く。肉が裂け、血が溢れ、追い掛けるように痛みが武蔵を襲った。それでもなんとか反撃を試みようとしたのであるから、この武蔵という男はやはり常人ではない。しかし相手が悪すぎた。
この状況も、彼にとって悪い方向にしか働かなかった。素裸というものは心細い。布一枚でも纏っていれば多少の安堵感は得られる。たった一枚、たかが布でも、だ。それがほぼ無い状況は、僅かではあるが武蔵という男に躊躇を生み出した。より安全を確保したいという欲を。その僅かな欲が、恐れが、貴士の抜刀に対し十分な時間を与えてしまった。
だがこの状況下、抜刀の一撃で終わるはずもない。今の貴士は正に、死を呼ぶ旋風と化している。
「天津風」
武蔵が貴士の像を捉えようと目を凝らす。が、遅い。あまりにも。既に旋風は武蔵の背後へと回り込んでいた。それが「天津風」であるが故に。
入れ墨の入った背中を横薙ぎに斬る。皮膚も、肉も、骨すら斬り裂いて、貴士の刃は武蔵の全てを終わらせた。瞬きする間の出来事である。
自らに訪れた死をゆっくりと自覚するように、武蔵の体がひどく緩慢に崩れてゆく。開けた視界の向こう側に、もう一人の男がいた。バスローブを身に纏い、刀を持っている。武蔵との決着を黙って見ていたという訳だ。既に刀は抜かれ、鞘は打ち捨てられていた。
鞘を捨てる。それは即ち刃を戻さぬ覚悟。傍で見ていた二郎は思い出す。仙石寺大の理事長、竜馬と呼ばれていた男も鞘を捨てていた。あの人は、生きているだろうか。あの、全ての覚悟を決めてしまったような顔の人は。
貴士は刃を振り、血を払う。滑らかな動作で納刀すると、再び抜刀の態勢に入った。相手に鞘を捨てる時間を与えたように、相手も納刀の時間を与えたのだ。
この男の呼び名は『十兵衛』。彼もまた十傑の一人。正眼の構えから微動だにしない。先程の武蔵と違い、彼は隙が無かった。貴士は納めた刀の柄に手を掛けたまま動かない。動けない。十兵衛も同じく。
相手の動きを、両者ともじっと息を潜めて窺っている。指。腕。足。微かな筋肉の緊張。見逃すまいと、聞き逃すまいと、互いが互いのみを認識する。外の世界は閉じてゆく。両者の間に流れる時間さえ緩やかになる。喉の奥を焼けた鉛が落ちてゆくような、長く苦しい永劫の一瞬が通り過ぎ、そして、ついに、動いた。
どちらが先に動いたのか、対峙している両者でさえ分からない。ただ、動きがあり、反応があった。
十兵衛の一歩より、貴士の一歩の方がより速く到達した。抜刀。狙うは下段。紀州光片守長政が欲するは、相手の足の脛だ。だが、それに対する十兵衛の反応も早かった。咄嗟に己の刀を突き立てて斬撃を防ぐ。刀同士が激突し、澄んだ金属の音が部屋を裂く。
が、貴士は止まらない。刀を保持したそのまま、勢いも殺さぬまま、柄尻で十兵衛の鳩尾を強打したのだ。十兵衛は反応しきれず直撃を喰らい、後ろへとたたらを踏んだ。
両者の距離が開く。勢いのまま振り上げた紀州光片守長政を両手で構え直し、一歩踏み込んで振り下ろされる袈裟斬り。十兵衛は僅かに身を引くことに成功した。だが、僅かであった。貴士の刃は、届いた。肉を裂く感触が刀身を、柄を伝って掌に届く。
まだだ。
体を斬られた感触よりも強く、十兵衛は殺意が切っ先の如く集約され、突き刺さるのを感じた。それは死に直面した人間の、最後の足掻きにも似た感覚の鋭さであったのだろうか。
袈裟斬りから流れるように、貴士は突きの態勢に入っていた。禊葉一刀流・秘技『花鳥風月』。四連撃の最後、『月』は即ち死に体であるが故に、確実な止めとして放たれる。
切っ先が布を裂き、皮膚を破り、肉に食い込んで、骨を砕き、臓腑を壊す。背を貫いた刃はそのまま天蓋付きベッドの柱にまで到達し、十兵衛と呼ばれる男の体を縫い留めた。穿たれた肺から血がせり上がってきて喀血し、貴士を汚す。貴士もそれを避けなかった。より確実にとどめを刺すために、力の限り突き刺していたからだ。
両者の視線が交錯する。死にゆく者と、死を与えた者。
「この、俺を……倒し、た……貴、様が、名を……継げ…………十兵衛、の、名、を」
とめどなく血を吐きながら、十兵衛が言う。だが、貴士は彼の体に足の裏を押し当て、突き刺した刀を強引に引き抜いた。断末魔の悲鳴が上がり、十兵衛の体が床へと落ちる。
「そんなもの、誰が継ぐか。俺の名前は貴士。畑、貴士だ。それ以外の何者でもないんだ」
貴士の言葉は、十兵衛に届いただろうか。もう動かなくなってしまった彼に、それを確認することはもうできない。
貴士が二人と戦っている間に、他の人間は二郎と禅が全て倒してしまった。犯されていた女性も含めてだ。彼女を生かしておいたとしても、もうどうにもできなかっただろう。暖かい死を与えた方が良い時もある。それが、この時だった。
死体が転がる様を確認して貴士は刀を納めた。ふう、と一息つくとベッドへ目をやる。伯によく似た顔の少年。確か、仲と呼ばれていたか。彼に向かって手を伸ばす。
「終わったぞ。さあ、ここから出よう」
だが、少年はその手を取らなかった。ただ静かに、首を横に振る。貴士の疑問を含んだ視線を、仲という少年は柔らかい微笑みで受け止めた。
「まだ一人、残ってる」
「え?」
「……僕だ」
伸ばした手が、竦む。仲の目は真剣だった。だからこそ、貴士は竦んだのだ。
「僕を、殺してほしい」
懇願ではなく、それは微かな光のような願いだった。貴士は言葉を失い、呼吸すら忘れた。
知っている。この目を。この覚悟を。この絶望を。他の誰でもない、畑貴士と言う男はそれらを知っていたのだ。その底に潜む小さな欠片のような希望を。寒さに震える体を温めてくれと望むように、暑さに眩む日照りを遮ってくれと望むように、それはごく自然に出てきた欲であった。
そして、その欲は、願いは、貴士にとって、既知のものであったのだ。
伸ばした手は決して届かない。だが、貴士はその手を引くこともできない。畑貴士という男がここにいる、その事実が手を差し伸べさせたのだから。
しかし、この仲という少年に与えられるべきものは何か。今、この瞬間に。ベッドの横で犯されていた女性と同じなのだ。そこまで、そこにまで、彼は突き落とされているのだ。
どうすればいい、どうするべきか、俺は、この手を、どうすればいい……?
貴士の顔が苦悶に歪んだ、その一瞬。何かが壊れる音がした。
ガラス窓を突き破って、飛来するM852マッチグレード弾頭。耳に微かな音だけを残し仲の側頭部へと着弾。反対側に赤い大輪の花が咲き、ぐらり、と、彼の体は横に崩れた。
静かな死が、仲という少年を安寧の暗闇へと導く。暖かく、柔らかい、死とは彼にとって即ち救いだ。
だって見てごらん、彼は微笑んでいる。微笑んだまま、死んでいる。
半端に伸ばしたままの手を引き、貴士は窓の外を見た。通信用のスイッチを押し込んで、ゆっくりと声を出す。
「……鉄男」
視線の先。山腹にいるであろう、オーバーウォッチ。
『……ん?』
「手間、掛けさせちまったな…………助かった」
『ああ。別に、いいさ。構わねえよ』
二人の声はひどく穏やかで、二郎も禅も、貴士の顔を見ることはしなかった。その声だけで、十分だったからだ。
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