お金はとっても大事です。

 さて。そんな会話を交わす彼等を知ってか知らずか。他の社員達はそれどころではないようだ。


「みどりさん、髪留めゴム返してくださ……」

「ほいさ返却ゥ!」


 指にゴムを引っ掛け指鉄砲を作ると、みどりは容赦なくそいつを発射する。禅のオデコに命中。「あだっ」と思わず飛び出す変な声。しかもすかさずスマホで髪を下ろした状態を撮影。いつも通りに怒る禅。


「全く貴女という人は! 業務時間中ですよ? もう少し真面目な……」

「見てたぞ」

「は?」

「葉月ちゃんのポニテを解いた瞬間」

「え」

「まんざらでもない顔、してたよなァ?」

「う」

「まあ分かる、美人がまとめた髪を解く瞬間ってのは破壊力でかいからな……いい笑顔だったぜ、禅くんよォ……ヒェッヘッヘッヘ!」

「その笑い方、もうちょっと何とかならないんですか……」



 さらに、別の社員もひどいことになっていた。


「おお……これはなかなか……」


 葉月のうなじを凝視したまま、保が呻いている。


「どうしたんだい、保どん、保どん」


 日本の昔話のアニメナレーションばりに尋ねる英治に、保は満面の笑顔で答える。


「いや、あれ、葉月さんのあれさあ、うなじ丸見えだよ? 普段髪を下ろしてる人が、うなじなんてあんまり見せない人が丸見え。普段隠してるところが。肌が。うなじが。見える。見せちゃってる。いや俺もね、昔ポニテ大好きだったんだよね。髪下ろしてる子も体育の時はまとめるわけだ、その時限定っていう価値観がさ、そりゃその時も尊いなあって思いながら見てましたけどね、大人になってからは余計にありがたみが増すと言うか青春の味がするって言うかね、しかしこの場合はポニテじゃなくて夜会巻きでしかも着物だから大人なんだよ大人特有なんだよ、そりゃ若い子だって着物着てまとめ髪することもあるかもしれないけど、それはまた別問題になるわけだそれはまた後日に語るわ、それよりも今この瞬間だようなじだよ白い肌見えてるよ、大人が醸し出す色気だよ、見てみろよほら僅かに残る後れ毛ってアアーッみどりさん綺麗にまとめちゃったよまあ仕方ない、その整えられた感じも好きだよ、でも今語るべきは肌なんだよ見えてるんだよ分かるか、なあ分かるか、肌が! 見えてる! いつもは! 見えない! 箇所が! 露わに! それはもう同意義なんじゃないのか? 即ちセッ」


 すべての単語を言い切る前に、英治が保の腹に一発いいのを食らわせる。「くごっ」と声なんだか効果音なんだか分からない音を発して保が倒れ、床と仲良しになる前に受け止めた英治がそっと彼を椅子に座らせてやった。座らせたと言うか、もう椅子と机で挟んで固定したと言うか。


「いけない。たもっちゃんいけない。今は駄目。ご本人がいる前でそれは駄目。しかも出資者。筆頭株主。駄目。いけません」


 そんなことが繰り広げられている間に、後れ毛を整え、どこから取り出したのか藤の花の簪まで挿して葉月の髪結いは完成だ。みどりはもう一度鏡で後ろ姿を見せると、満足げに笑う。


「はいできた。簪はあげるね」

「まあ嬉しい! みどりさんの手作りでしょう?」

「んだんだ」

「仕事ヒマな時にせっせと作ってたよね。これで商売できるような気がするわ」

「ハッハ、社長、褒めてもパン祭りシールしか出てこないぞ」

「もうパン祭り終わってるゥ! ところで葉月さん、この後はまだお仕事?」

「はい。あとひとつで終わりです。そうだ、どなたかおひとり、お借りしてもよろしいでしょうか? 都内の怖い人のところへ行かなければならないのです」

「いいよー。えっと、この後のシフト空いてるのって誰だっけ」


 保にそっと毛布を掛けてやっていた英治が手を挙げる。


「はーい、用心棒やりまーす」

「おう行って来いニンジャ。直帰でいいよ」

「お、んじゃあついでに浅草支社寄ってきます。葉月さんのお供なら、おめかししなきゃー」


 そんな事を言って引っ込むこと数分。次に姿を表したときには、いつも出したままのシャツの裾は引っ込み、ネクタイもきちんと締めただけでなく、顎の無精髭も消えていた。


「おめかしニンジャ参上ですよ。ニンニン」

「英治さんが着いてきてくださるなら百人力ですね。忍者装束を用意しておくべきでした」




 葉月が向かったのは、とある貿易商の元であった。

 応接室に通された葉月達。ソファーに座る葉月の背後には英治と、彼女の執事である初老の男性が立っている。彼等の足元にはトランクケースが二つ。随分と大きく、重そうだ。


 彼女の正面には、背中を丸めて体を縮めている男。折角の高級スーツも、その姿勢ではよく見えない。彼の背後にいる男達はどうすればいいのか分からないようで、仁王立ちのままだ。


「足りませんか?」


 笑顔のまま、葉月は問うた。少し首を傾げたので、簪の藤の花が揺れる。普段はもっと背筋が伸びているだろうに、正面の男、貿易商はますます体を小さくするばかり。そんな彼にも、葉月はにこやかな笑顔を向け続けた。だが、放たれた言葉は手厳しい。


「では、あとはご自分で工面してください」

「いや、それは困る……!」

「困る、と申されましても、私も困ってしまいます。お金は勝手に増えるものではありませんから、増やそうと努力しなくてはなりません。お金を減らす努力で喜ぶ時代は、遥か昔のことですよ? 私は努力をしてくださる方とお取引させていただきたいのです」


 貿易商の、膝の上に置いた手が汗ばむ。


「個人的なことに、散財されていると聞きました。個人的な楽しみのためにお金を使うのは良いことだと思います。そのためのお金ですから。でも、使いすぎるのは良くありませんね。前回お会いしたとき、その点についてお話させていただいたと思ったのですが……上手くお伝えできなかったのでしょうか」


 嫌味なのか。それとも悪意はないのか。彼女の語り口はそれが分かりにくい。浮かべる笑顔も、美しさに覆い尽くされて目が眩む。

 何を言っても言い訳にしかならない。それは何の進展にもならない。男はそこまで理解していた。一応は葉月と取引できるところまで到達した人物だ。流石にこれ以上の墓穴を掘る愚行は冒さない。

 だが、何をどうすればいいのかも分からなかった。今、この場を取り繕うことだけに彼の頭は回っていた。だから、答えが出ない。どうする。どうする? 土下座でもするか? しかしどれ程の効果がある? どうする……


「欲しいですか?」


 思考が泥沼に嵌りかけたところに、葉月の声が掛かった。思わず顔を上げる。目が合う。やはり、笑顔だ。

 葉月が背後の二人に目配せする。足元のトランクケースを机の上に移動させ、その蓋を開ける。中にぎっしりと詰まった現金。一つのトランクケースに一億入る。重さは約五十キロ。合計で二億。


「現金の方がお好きでしたよね」


 確かに、昔そう言った記憶がある。男の視線はトランクの中に釘付けだ。


「では、こうしましょう。私、これから、鞄の中身を捨てます」

「捨てる?」

「捨てます。床に落ちたものはごみになりますので、廃棄します。落ちたものでなければ、私が捨てたものですから、お好きにできますね」


 瞬時に男は悟る。ぞわりと総毛立つ。この女は……

 既に葉月は札束を一つ手にしていた。この状況に対する怒りや戸惑いよりも先に、体が動く。立ち上がった時にはもう、札束は放物線を描いて放り投げられていた。慌てて手を伸ばし、床につく前に掴む。


「ごみにしてしまうのは勿体無いですものね」


 柔らかく微笑みながら、葉月はそれでも次々に札束を放る。拾う、拾う、必死になって全て拾う。捨てるペースがどんどん早くなる。


「お前らも、ぼさっと突っ立ってないで拾え!」


 貿易商が怒鳴る。一瞬びくりと体を竦め、屈強そうな男達も金を拾う作業に取り掛かった。くすくす笑いながら札束を放り続ける葉月。まるで、鳩に餌でもやるかのように。


「目腐れ金ですのに、こんなにも大切にしてくださるのですね? そんなにお好きですか? お金が」


 流石にここまで来ると分かる。彼女の表情からは分かりにくいが、明らかに虚仮にしている。分からない訳がない。これで全く悪意が無いのだとしたらそちらの方が恐ろしい。

 同時に、彼女にとってこれはただの児戯であると、その場にいる誰もが容易に悟る。


「……ッのクソアマがぁ! ふざけ」


 拾うのを手伝っていた一人が、怒りに顔を染めて拳を振りかぶった。投げ捨てた札束の帯が破れて、金が宙を舞う。だが、言葉はここで止まる。拳は力無く下がり、男は崩れ落ちる。

 葉月の背後に立つ英治の手に、一丁の拳銃。既に放たれた銃弾。微かに上がる硝煙。男の額には穿たれた痕。


「あら、まあ、ごみが増えてしまいました。後で片付けておきましょうね」

「かしこまりました」


 葉月の執事がうやうやしく頭を下げ、英治は堪え切れずに少し笑う。貿易商は抱えた札束を、まるでお守りか何かのように大事に抱きしめた。何を信じて良いのか分からない。誰を信用して良いのか分からない。何に縋れば良いのか、分からない。

 眼の前にいる女は一体、何者なのか。

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