仮眠室があるので気軽に利用しましょう。
昔の夢を、見ていた。
荒野を歩いている。荒野というのは正しいのだろうか、砂漠というべきではないのか。じりじりと照りつける太陽。空気全体が乾き切っている。
残念ながら、その強烈な太陽光線を遮るものはない。頭に巻いていたバンダナは止血のために使ってしまった。一歩また一歩と足を進める度に、太腿の傷口がずれるように軋んで痛い。
だからと言って、その歩みを止めるわけには行かないのだ。待っている奴らが居るから。
背負った荷物が重い。合計三人分のフル装備。重量は三十キロを超えているはずだ。肩に紐が食い込む。床ずれのように皮膚が剥けて、血が滲む。
汗が滝のように流れる。頭頂部からだらだらと流れてくるのが分かる。短く刈り揃えてしまったので、汗が髪によって留まるということがない。
これが終わったら、髪の毛、伸ばそう。そう決めた。頭皮に直接太陽光が照射されるこの感じはキツイ。よし伸ばそう。決めた。こんな僕が髪伸ばすなんて言ったら、あいつらはきっと笑うだろう。だが知るものか。そう決めたのだ。
ついでに髭も剃ってしまおう。すっかり伸びて熊のような髭面であるのだが、この髭に風で飛ばされた砂が絡みついて重い。しかも、頭から流れた汗が髭で留まるものだから、汗と砂と髭が絡まって固まり、それはもう酷いことになっている。
ようし、髭全部剃ってやる。髭を剃るのなんて何年ぶりかな、伸びすぎて切ったことはあったが、剃るのはなんだか面倒くさくて放置していた。こっちの人間は髭を伸ばすのが当たり前だから、それに引っ張られて髭面になる奴らも多い。
いやしかし、絶対にあいつら笑うぞ。ここぞとばかりに。そしたら拳骨の一つも食らわせてやればいいか。
足が重い。体が重い。膝が痛い。重量を支え続けてきた足の裏も痛い。肩が痛い。傷口が痛い。汗が傷口に染み込む。体中が軋む。暑い。辛い。休みたい。帰りたい。辞めてしまいたい。投げ出してしまいたい。
いや、それはできない。それだけは駄目だ。岩に齧り付いてでも届けなければならない。あいつらの元へ。この、戦い抜くための力を。武器を。この戦局を生き残って、笑って帰るために。自分以外にいないのだ、これを届けられる人間は。皆、死んでしまった。やられてしまった。連絡手段も絶たれた。自分が届けなくてどうする。あいつらを安心させてやらなければ。早く。早く。早く。早く。
一歩を踏み出す。ぼろぼろになった体を引きずるように。前へ。とにかく、前へ。なりふりなど構ってはいられない。これさえ届けることができれば、あとはどうにでもなる。引っ繰り返すことができる。やらなければならないのだ。何が何でも。
霞む視界の隅、何かが飛び込んでくる。目を凝らす。見つけた、旧市街地だ。度重なる空爆ですっかり廃墟になってしまったが、建物はそこそこに残っている地域だ。辿り着ける。行ける。間違ってはいなかった。
足取りに力がこもる。
……空爆で思い出す。あれは、そう、同じ日本人ということで仲が良くなった、航空隊の三宅だ。
「戦闘機に乗って、俺は空を飛ぶという自由を得た。空は良いぞ、どこまでも、どこまでも飛んで行ける」
真っ青な空を見上げて、三宅は言った。今日、この空みたいな、真っ青にどこまでも広がる空。全て吸い込んでしまいそうな空。
「だけどな……その代わりに、いつかはどこかに留まらなければならないという枷も得たんだ。どこまでも広がる空の中に、止まり木を探さなけりゃならない。さもなくば死ぬ。空はどこまでも広がっているが、だからこそ、そこに止まり木はない。いつまでも広がる虚空」
三宅の声は、酷く重い。
「ずうっと飛び続けていられたら良いだろうな、って考えたこともあった。だけど、それは違う。地上に這いつくばってる生き物だから、空に憧れる。ずっと空に留まり続けているのなら、それはもう当たり前にしかならない。そうなったら次に憧れるのは地上だ」
ドッグタグをいじる指。
「こうやって、俺は空と地上の間をウロウロしながら、生きていくんだろうな。俺が死ぬのは、空か、地面か。なあ、どっちだと思う?」
三宅の問いに答えることはできなかった。己もまた、答えを持っていなかったから。
何でも良いから言葉をひねり出してやれば良かった。今になってそう思う。三宅は元気にしているだろうか。まだ、空と地上の間をウロウロしているのだろうか。
こうやって、本質から目を逸らして、思考に埋没して、痛みを忘れるように努める。身体感覚を忘れてしまえばいいのだ。もう少しで辿り着く。もう少しだ。もう見えている。届く。到着する。あいつらの顔を見ることができる。
なのに、この不安は何だ。旧市街地にちらりほらりと見える人影は皆、敵兵ばかり。奴らはおそろいのシュマグを巻いているからすぐ分かる。
あいつらはどこに行った。どこに隠れている?
何も考えず、身を隠すことすら忘れて、歩く。歩み寄る。まだ人影は小さい。だが分かる。建物から出て来る敵兵。彼等に小突かれるように、小さな人影が転がり出る。
歩く。とにかく接近する。音が聞こえてくる。状況が分かり始める。
小さな人影は二つ。衣服を全て剥ぎ取られ、全裸の状態。少年と少女だ。体中に切り傷、しかも深い。痣もある。全身に、大量にだ。
叫ぼうとした。だが、声は出ない。掠れた微かな音が漏れて、空気を僅かに震わせるだけ。歩く。上手く走れない。狙撃用の何かがあれば良かったが、残念ながら持っていない。クソ、どうして持ってこなかった。歩くしかない。走りたい、少しでも早く、走らなければならない。クソ、クソッタレ、動け、早く、動け!
分かる、見えてくる。少年少女の目は虚ろだ。小突かれるままによろよろと歩き、だがそれ以上歩くことができず、地面に座り込む。
誰かが何かを取り出す。鈍い光。刃物だ。鉈か何か。そこそこのサイズの刃物。
やめろ、あいつらに、そんな、
鈍い光が大人の肩より上に持ち上がって、
駄目だ、何てことしやがる、お前ら、あいつらに何をした、何をしたんだ、
振り下ろされる。
「……やめろ……やめてくれ……!」
目が覚めた。肩で息をしていた。寒い季節だと言うのに、びっしょりと全身に汗をかいていた。
そうだ。ここは日々谷警備保障本社の仮眠室だ。少しだけ眠っておこうと、ここのベッドを借りたのだ。二郎はゆっくりと体を起こして、額の汗を拭った。
思わず肩に手をやる。あの時の剥けた皮膚の痛みは、今、ない。
「二郎くん」
仮眠室のドアをノックする音とともに、声。みどりだ。
「入っていい?」
「どうぞ」
ひどく慎重にドアを開けて、みどりは滑り込むように部屋へ入ってきた。明かりはつけないままで。
「あの時の夢、また見た?」
「……ああ。声、出てたか」
「まあね」
パイプ椅子に座って、差し出してきたのはスポーツドリンクだ。二郎の代わりにキャップを開けてから。
「二郎くんは、さ。自分から首突っ込もうとしてるでしょう」
暗がりの、さらに眼鏡の向こうから、みどりの視線が突き刺さる。
「みどりさんは、止めるか?」
「いいや、止めない。二郎くんが自分で選んだことでしょ、なら、止める理由なんて無いよ」
ただ、と、みどりはワンクッション置いてから
「私がフォローできる範囲は限られる。それだけは、忘れないで」
と告げた。
「ありがとう。僕にできる範囲でやるさ」
「なら、いい。キャパオーバーするようなら早めに言いなさいよ」
席を立ち、みどりは少しだけ笑う。
「その時は、ブン殴って止めてやるから」
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