緊急事態にも冷静に対処しましょう。

 集団の中から一人、前に出てきた者がいた。悲鳴と鎮魂曲が体育館の中を埋め尽くし、血が流れ、失われた命が転がる中、それら全てを気にも留めずに真っ直ぐ歩いてくる。そして理事長の前に立ち、フェイスガードを取って顔を露わにした。


「お前……以蔵……以蔵なのか」

「ええ。竜馬さん、お久しぶりです」


 スピーカーから聞こえてきた声とは別人。自ら正体を表した中年の男は、理事長に向かって微笑みながら話し掛けた。


「一体何を、何をしているのか分かっているのか」

「貴方を、取り返しに。それ以外に何がある」


 視線には熱が篭っている。以蔵と呼ばれた男は語り始める。


「竜馬さんがいなくなって、俺が幹部になったけど……違うだろう、竜馬さんこそが十鬼懸を背負っていかなきゃいけないんだ。俺なんかじゃない、俺は所詮、人を殺すしか能のない使い走りだ。なあ竜馬さん、戻ってきてくれよ」

「戻るわけがないだろう、先日もそう言ったはずだ」

「俺は聞いていないよ」

「なら、何度だって言ってやる! 俺は戻らない、絶対にだ!」

「何言ってるんだよ竜馬さん……俺はアンタに憧れてここに入った。アンタが居なきゃダメなんだ」


 言葉には少しだけ涙が混ざっていた。


「なんでこんな学校なんか作ったんだよ竜馬さん……俺、アンタが分かんねぇよ……」

「俺には、あの世界は向いてないんだよ。分かってくれ以蔵」

「そんなことねぇだろう! アンタほど強い人は居なかった、こんなところで先生ごっこなんてする人じゃない、アンタは戦うべき人なんだ!」

「もう足抜けして二十年以上経つんだ、戦うなんてできない」

「今からでも遅くないよ」

「戻りたくないんだ」

「嘘だ!」


 ついに、以蔵と呼ばれた男は理事長の両腕を掴んだ。まるで、神に縋るように。


「嘘だ、なあ、嘘だろう? あの竜馬さんがそんなこと、言うわけが、ない、そうだろ……?」


 ぽろりぽろりと、以蔵の目から涙がこぼれた。深い傷が刻まれた頬を伝い、幾筋も光の川を作る。


「ああ……やっぱり、この判断で間違っちゃいなかったんだ……アンタを縛る余計なモンを失くしちまえば、帰ってくる。そうだろ、竜馬さん」

「お前……」

「そうだ、やっぱりそうなんだ! だから、俺は、この学校を潰しにきたんだ。帰ろう竜馬さん、こんなところ捨てて、帰ろう、俺達のところに帰ってきてくれ」



 この二人を会話を辛うじて聞きながら、二郎は必死に脱出しようと藻掻き続けていた。いくら相手は素人、しかも薬物を摂取しているとは言え、純粋な重量に嘘偽りはない。胸郭や咽頭部などを圧迫され続けたら、下手すれば死ぬ。何者かが掴み続ける手を振りほどき、しがみついてくる女子高生が絡めてくる足を退ける。


「先生イヤだ離れないで先生ねえ先生、ねえええ」


 未だに銃撃音は続いている。流石にこの全校生徒、教員職員含め約八百六十人を一度に殺すことはできなかったようだ。いや、この状況を考えるに、殺したくない相手と殺したい相手が分かれているのだろう。自分は後者であるようだ。


「せんせえすきです、すき、先生も私の事、好きって言って」


 女子生徒のスカートは完全に上までめくれ上がっていて、太腿が直に触れているのだろうとスラックス越しに分かる。このような状況でなければご結構なことなのかも知れないが、如何せん状況が状況であるので嬉しさは一切無い。

 自由になった左腕を女子生徒との間に無理矢理こじ入れ、彼女を横に退けると当時に自分の体をうつ伏せにまで持っていった。尚も縋り付く女子生徒を放置して、少しづつ匍匐前進の要領で人間の山から抜け出そうと試みる。


「やだ、どこいくの兎塚先生待って、いやだあ、置いてかないで、せん、せ、せんせい、待って待って待って待って待ってまってまってまって!」


 当然無視して僅かづつ、だが確実に体を移動させる。どんなに薬の影響で意識が高揚し諸々に関して鈍くなっていても、痛みは絶対だ。彼を阻む生徒達の一部だけ見える体に対し、容赦なく服の上から抓る。痛みという電気信号に体は竦むものだ。そこを狙う。少しづつ、視界が開けてくる。

 そして、二郎は見た。頭だけ出して見上げたその時に。


 半端な装備に身を包んだ奴等に、取り押さえられ、今まさに、連れて行かれようとしている伯の姿を。


「……二郎、さ……」


 刹那、目が合った。助けを求めていた。


「伯……ッ!」


 だがそれは本当にごく短い、それこそ刹那とでも言うべき時間であった。小さな伯の体は黒に押し包まれ、見えなくなってしまった。


「伯、伯! クソッ、やめろ!」

「先生、ねえ先生、ヤダ、私だけ見て兎塚先生ねえ他の子なんて見ないでよォ先生私の方が先生のこと好きなんだからずっとずっと好きなんだから私だけ見て私だけ好きって言って兎塚先生」


 女子生徒の腕が伸びてきて、二郎の顔を強引に自身へと向けようとする。咄嗟にその腕を掴み捻って床に叩きつけた。女子生徒の悲鳴が響く。


「どこに連れて行く気だ、お前ら、放せ、伯を放せ!」


 見る間に黒い塊は伯を包んだまま遠くへ、より遠くへ消えてゆく。


「待て、やめろ……やめてくれ……!」


 伸ばした手は届かない。どんなに力一杯伸ばしても、届くことはなかったのだ。

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