業務中ですが大事なお知らせがあります。

 朝の体育館は寒い。端に体育館用の暖房器具を置いて稼働させてはいるが、どうにも限界がある。生徒達は身を縮めて白い息を吐き、この寒さに毒づいた。

 月曜日の朝は全体集会がある。この上なくダルいイベントだ。理事長のありがたい話やら運動部の結果報告やらが主で、それらはいつもと代わり映えしない内容である。生徒からすればそんなもの端折ってしまえばいいのにとしか思えない。

 ならば教師陣はどうかというと、寒いのは生徒と変わりない。ある程度ダルいと思うのもまあ同じだ。しかしそれでも教師としての姿勢を見せねばならないのが、職業人としてのつらいところである。


 勿論、二郎の姿も教師陣の中にあった。白い息を吐いて生徒達に目をやり、ちょっとした体の動きや気配に集中する。どこかに見逃しがあるかもしれない。何度でもチェックしておいて損はない。

 先週の授業参観も目を光らせていたが、玄人臭い人間は一人も居なかった。二郎が確認した範囲での話だが。みどりも同様であったらしいが、彼女は保健室から外を伺った程度であるので限界がある。伯も同様で、彼の場合は自分のクラス分が限界だ。

 それでもざっと見た範囲では怪しさはなかった。ならば、ここの理事長は、この学校は、一体何なのか。


 禅達が調べた範囲では何も出てこなかった。せいぜい分かったのは、理事長室に置いてある太刀が『蛙鳴雨月あめいあまがつ』という名である、ということだけ。前の土地の持ち主もシロ。理事長の作品の所有者や関連人物もシロ。何も出てこない。

 何も出てこないということは、揉み消しているのではないか。そんなことを保が言っていた。それを踏まえた上で調べるのはこれからであって、まだそちらにまで手を回せる状況ではない。

 十鬼懸組は相当に焦っているらしく、抵抗も激しくなってきた、故に、日々谷警備保障側は更に速く手を打つという作戦に打って出た。至極単純な対策である。ただ単に、一箇所に投入する人数を増やして殲滅速度を上げただけであるのだが。

 その分、こちらに割くことができたのは最低限の人数だ。仕方ないと言えば仕方ない。この学校の調査が終わりさえすれば、二郎も伯も十鬼懸組関連組織殲滅へ移行できるのだし、できれば早めに終わらせたい……と思いつつも、学校生活を楽しんでいる伯を見ると、まだこのままでも良いのではないかと、そんな考えが頭をもたげるのだ。


 当の伯は、前後に居る生徒と仲良く話している。身長が低い伯は自動的に前の方に来る。その分、教師の位置からでもよく見える。こうしてみればごく普通の生徒にしか思えない。

 学校生活を、経験したことがない。この日本でも探せばそんな子供は居るだろう。伯に限ったことではないのだ。しかしつい過剰に面倒を見てしまう。学校潜入だって、半ば伯の通学体験のためだ。

 分かってる。やけに肩入れする理由。自分でもよく、自分がよく、分かっている。

 つい、苦々しい顔つきになってしまう。思い出したい記憶ではないからだ。忘れられるなら忘れてしまった方が良いだろう。その方が楽になる。分かってる。

 だが心の奥底で、忘れてはならないと幽鬼が叫んでいる。お前は何のために生きているのかと、血を流しながら訴える。たった一人おめおめと生き残ったのならば、背負え。何一つ捨ててはならない。何一つとして、だ。


 みどりの顔をふと思い出して、ついその姿を探すがここには居ない。みどりは保険医としてこちらに来ているので、今日のような朝の全校集会には顔を出さないのだ。きっと今頃「さむいさむい」などと言いながら保険室で暖房にあたっているのだろう。

 自分の過去を知っている彼女は、こちらを気にかけてくれている。いざとなったら殴ってでも止めると言ってくれたのはありがたいやら怖いやらだ。殴られる日が来ないに越したことはない。誰だって好きこのんで殴られたいわけではない。

 でも。と、心の中で呟く。その時が来たのなら、殴ってもらわなければなるまい。


 時間だね、と教頭が呟き、マイクを手に取った。二郎も意識を切り替える。そこそこに「先生」をしなければならないのだから。喋り続ける生徒に視線を向けるだけでも抑えにはなる。実際、バツが悪そうな顔で口をつぐむ子達が何人か。


「はい、時間になりましたので、全校集会を始めま……」


 教頭の言葉を聞き取ることができたのはここまでだった。

 突如、体育館のスピーカーが大音量を発したのだ。スピーカーもガラス窓も振動し、空気全体がビリビリと震える。

 何だ、誰だと交わす言葉すらよく聞き取れない程の大きさで流れてきたのは、クラシック曲だった。テレビ放送のコマーシャルで聞いたことのあるメロディー。音楽教師が「ディエス・イレだ」と言うも、やはり音に阻まれて他者の耳には届かない。レクイエム『怒りの日』。審判の日。

 荘厳な音の塊のなか、更に大きく、何者かの、声。


『おはよう、生徒諸君。そしておはよう、教師及び職員の諸君』


 スピーカー越しに語り掛ける朗らかな声色には何か、聞いている者の心を波立たせるような不安定さが含まれていた。男性の声だ。若くはない。


『このような素晴らしい朝に突然すまない、さぞや驚いていることだろう。だが、安心したまえ。すぐに終わる』


 理事長が振り向き、何かを叫んだ。スピーカーに向かって叫んでも、相手には届かないというのに。それでも、叫んだ。声は誰にも聞こえない。誰も、分からない。


『全ては定められたことなのだよ。さあ、手筈通りに!』


 ひどく楽しそうな声が響いた瞬間、生徒の中に動きが発生した。じっとしていたはずの彼等、そのうちの何人かが突然走り出し、他の生徒や教師に飛び掛かったのだ。

 あまりに唐突な状況と唐突な出来事に誰もが面食らった。二郎や伯でさえ例外ではなく、しかも飛び掛かられたのは彼等であるのだ。

 何が起こっているのか分からないまま、スピーカーからは男の言葉が続いた。


『そして、良き終焉を。この、良き朝に』


 理事長が「やめろ」と叫んだのが、曲の合間に微かに聞こえた。悲痛な叫びを掻き消すように体育館の扉が音を立てて開き、光差す向こうから黒い集団がやってくる。武装した軍人のような格好の人間が、雪崩打つように侵入し扉を閉めた。

 分かる人間が見れば、彼等の格好がどこまでも紛い物であることが分かっただろう。確かに軍隊のような出で立ちではあるが、正式なものではない。それでも手にした短機関銃は本物であった。

 二郎と伯はそれを見たのか? いや、不可能だった。伸し掛かってきた生徒達に押し潰されて、視界は塞がれてしまったからだ。


「先生、兎塚先生、私、先生、のことが、好き、なんで、すう」


 授業中によく目が合う女生徒が覆い被さるように乗り、耳元で囁く。この状況でだ。仰向けに倒された二郎が見たものは、焦点の合っていない目。開ききった瞳孔。


「先生、が、とっても優し、くて、わたし、先生がすき私、うふふふふ、先生、先生、あったかい、先生あったかいです」


 伸し掛かるというよりしがみ付く状態。いや、縋り付いているのか。すぐ側にある唇から漏れる吐息は奇妙な甘い香りがした。心地良いものではなく、きつい甘さ。

 大麻、という単語が頭をよぎった。これは大麻草の常習者だ。彼女とこんな近距離で接したことはなかったが、ここまで近ければ素人である二郎でも分かる。彼女以外の人間からも同じような臭いがした。骨が軋むかと思うほど伸し掛かってくるこいつら全員、麻薬中毒者であるのか。


「どけ、お前ら何を……」

「せんせいすきせんせいせんせい先生すき、すきぃ、ヤダ、先生、せんせいにくっついてろって、言われ、先生、せんせ、私、先生とこんな近くにいる」


 聞く耳を持たない状態だ。なんとかしてここから抜け出さないと……

 しかし、何もできない。いくら二郎とは言えども、人海戦術でこのように伸し掛かられ覆い尽くされては対応のしようがない。骨が軋むかと言うほどの重量。一体どれだけの人数が上に乗っているのか。とにかく少しでもと身じろぎして、二郎の耳は別の音をとらえた。酷く聞き慣れた音。そいつは、サブマシンガンの連射音。無慈悲な無機物の音。悲鳴。金属が皮膚を食い破り体に食い込む音。骨が砕ける音。断末魔。


 響き渡る鎮魂曲。神の審判が下る時。世界が灰燼に帰す。


「……歳三ッ、貴様……!」


 曲の合間に聞こえてくるのは、理事長の悲痛な叫び。しかし今、確かに「歳三」と言わなかったか? だが、二郎の疑問を解決してくれる人間はいない。とにかく今はこの状況から抜け出すのが先決だった。

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