ヨハン・ベーカリー
翌朝マークは柔らかい客人用の寝室で目を覚ました。
穏やかな日曜日の朝、寝台横の大きな窓から外の景色を見る。大きさ形も様々な色とりどりの植物がその下に見え、植物の群れの向こうには道路と住居を隔てるクリーム色の低い壁、ここはきっと二階だ。その外には向こうまで続く閑静な住宅街の屋根がモザイク画のように広がっていた。
「確か昨日……」
気が動転したまま自分は暖かい車内の後部座席に乗せられ、フェニックスの都市高速で郊外の新興住宅地へ運ばれたところまでは覚えている。
ひんやりとした車の窓ガラスに身を持たれ、流れていく街灯や対向車線の車のテールライトの残像を目で追いかけていた、しかしそこからはわからない。
「だとすると、ここはミスターモンローの自宅?」
よくわからないまま彼は廊下に出て、木の階段を降りてゆく。一階からは忙しげに互いに当たって鳴る調理器具の音、焼けるベーコンの油がはねる音とその匂い、コーヒーを淹れた後の高い香り、日曜午前のワイドショーのテレビ音、休日のとある家庭の記号的なものがどっと押し寄せて来たようだった。
階段を降りて右にはすぐダイニングがあり、入り口からそれらの記号が流れ出ていることに気づく。人の気配。マークは入り口から顔を出し、中の様子を伺った。
「おお、起きたかマーク君。おはよう」
いきなり丸いテーブルにかけたモンローと目が合う。朝食中に邪魔をしただろうかと少しバツの悪さを感じたが、こちらも挨拶をする。
「おはようございます、ミスターモンロー」
「顔を洗ったら、こちらに来なさい。君の分も用意してある」
バスルームに顔を洗いに行った。目覚め切らない頭を起こすために冷たい水をかぶる。そうして顔を上げた鏡の中の自分の表情は少し疲れているようだった。改めてダイニングに戻ると、テーブルの上には三人分の朝食が用意されていた。
「私の前にあるのが君の分だ」
言われたままに座りもじもじしていると、モンローと同年代ぐらいの女性がベーグルを乗せたバスケットを抱え、それを丸テーブルの中心に置いた後席に着いた。モンローは彼女をマークに紹介するつもりはなかったようだが、大体彼女がモンローの妻なのだろうと想像した。
「では、いただくとするか」
モンローはベーグルをベーコンと野菜のソテー、それからスモークサーモンの乗った皿に一つ載せると黙々と食べ始めた。
いや、と言うよりは自分や女性の方には一つも話題を出さず、テレビのワイドショーに「へぇ」とか「はぁ」とか相槌や感嘆符を挟みながらひたすら画面の方を注視していたのだ。そして時々何かしらの品を口に運ぶ。
「……」
あまりにもこちらを見ずに食事をとるモンローの様子に若干のカルチャーショックを感じていたマークだった。
「どうしたの? たくさん焼いたんだから、どんどん食べなさいよ」
無表情のまま女性がベーグルを目で指し示す。
「は、はぁ……」
マークが曖昧な返事をすると女性は依然として無表情のまま朝食をゆっくりゆっくり食べ始めた。
テレビばかり見て話題の一つも出さない夫、テレビを見ながら食事をする彼のスピードに合わせるようにゆっくり食べる妻。奇妙な食卓の雰囲気にマークはまたカルチャーショックを覚えながら、多めに用意されたベーグルを次々と食べていた。
「マーク君、朝食は毎日とっているかね?」
自分の皿に乗っていた料理をひとしきり食べ終えると、モンローは突然それまで騒々しい情報を垂れ流していたテレビの電源を切った。
モンローの妻はコーヒーと残っていたベーグル以外の皿や食器を片付け、洗い物を済ませると部屋を出て行ってしまう。
ダイニングは二人だけになっていた。別に番組の途中で切らなくてもいいのに、この人は本当にテレビを見たかったのだろうか、と思いつつもマークはベーグルをコーヒーで胃袋に流し込み、質問に答える。
「いいえ、決して毎日というわけでは……」
「食事で摂った栄養は、我々の体を形成する。質量エネルギーとしてね。そうやって毎日の食事で得た栄養、すなわち余分なエネルギー量があってこそ我々はそれを
「良質なAVWの現実態(エネルゲイア)化には繋がらないと?」
マークの問いに強く頷くモンロー。今もなお生きる伝説の通り現役で実戦の任務をこなし、多くのヴァンパイアハンターから尊敬の念を一身に集める彼の活躍には、以外にも毎日の規則正しい食事が関係していた。
「そういえばミスターモンロー、あなたももちろんAVWを所有しているんですよね?僕はあなたが
十器。
マークも詳しくは知らないが、性能の優れた上位十種類のAVWを総称して十器という。そのどれもが、モンローのような最上位クラスのヴァンパイアハンターのみに使用を許可されている代物だ。
小耳に挟んだ話ではここ三年ぐらいで開発中の「第二世代」と呼ばれる新型のAVWも新しくその十器の格付けに割り込んできているらしい。モンローが昨晩自分を「虫取り網型吸血鬼」から救出した時、おそらくその十器と呼ばれるAVWを使っていたのだろう。
「確か僕の記憶では、最後に見た吸血鬼は刃物で喉笛を掻き切られたような跡があった、しかも抵抗した痕跡もあまり見当たらなかった。あなたのAVWは暗殺向きの短刀ですか?」
息急き切って問い詰めてくるマークに対してモンローは、複雑な苦笑を浮かべてコーヒーをすする。
「たとえ十器に入る優れた性能のAVWでも、その価値を高めるのも低めるのも使い手の裁量。ヴァンパイアハンターの力は決してAVWだけで決まるわけではないよ。それに私のAVWは第一世代、いつ第二世代に追い抜かれて十器の座を外されるか……」
「ご謙遜を、あなたのAVWはお強いんでしょう? 教えてくださいよ、あわよくば拝見させていただきたい」
モンローが手で待ったのポーズをとった。
どうやら質問はここまでのようだ。マークは渋々乗り出していた体を椅子に落ち着かせる。
「君は大きな勘違いをしている」
「どういうことです?」
「AVWの性能がヴァンパイアハンターの能力に直結しているということ、それは間違いだ。道具というものは使い手、主体の裁量あってものだ。ギターの初級者にギブソンレスポールカスタムを弾かせるようなものだ、それではギブソンレスポールの上質なマホガニーボディを生かした甘やかなトーンや、精巧なハードウェアの素晴らしさを半分も引き出すことは叶わない。故に私には超えられない壁というものがある」
モンローは二人分のコーヒーカップを洗うと、マークを一階の書斎へと招いた。
背の高い書架の間にぎっしりと敷き詰められた本の数々、それでいてその全てがアルファベット順に丁寧に整理されていた。
モンローはそれらの中から、黒い牛の皮か何かで装幀された大判の書物を取り出した。埃こそ被っていなかったもの変色していたり、表面の紙質が変化していることから相当に年季の入った本であることがわかる。
「君は知らないとは思うが、私の同期にヨハン・ベーカリーという男がいた」
彼は「1992/4/14」と記されたセピア色の集合写真に写っている一人の男性を示した。
ストレートの黒髪、鼻の下に蓄えた口髭、やや垂れ目の穏やかな顔立ちはヴァンパイアハンターというよりは、子供好きの優しい紳士といった印象をマークに抱かせた。
「ヨハンと私が創設当初の協会に入った頃はAVWもなく、それどころか形質二元論の研究も進んでいなかったためエイドスアブソーバーなどの特殊な道具すらなかった。私が実験段階のAVWを使い始めたのはちょうど十年前ぐらいのことだよ」
「このヨハンという方も同じですか」
今ここで初めて名前を聞く男性について、マークは少し興味を持った。
「あぁ、彼のAVWは「ハミルトンの鍋蓋」といってね、十器に選ばれたことはなかったが挟んだ相手をプレスして潰すというかなりえげつないものだった。第一世代の初期にデザインされたAVWの中には、そういった問題作も多くてね、だがヨハンはその効力を無闇に使おうとはしなかった。そして地道な捕獲・保護任務をこなすことで優秀な成績を残していたのさ。私はヨハンとは違い、十器に選ばれるほどのAVWを与えられたが、ついに彼の業績を上回ることはなかった」
その差は決してAVWの性能などではなかったとモンローは言う。
「やはり私の中のどこかに十器を持っているという欺瞞の心があったのだろう、もちろん成績が全てではないが、それでも私は彼にヴァンパイアハンターとしての行い、心構え、忍耐……様々な面で勝てなかったような気がする。私はもう二度と彼に並ぶことはないだろう」
生きる伝説のモンローが一生勝てないというヴァンパイアハンター、ヨハン・ベーカリー。モンローの口ぶりからするとすでにヨハンは過去の人となったのだろうか?
「そのヨハン・ベーカリーは今もご健在で?」
「消えたよ」
その曖昧な答えにマークは、「闇」を見た。
「ヨハンは二年ほど前にAVWもろとも姿を消した、協会の過去の名簿や資料からもその名前を抹消されている。正直今は生きているのかどうかも……」
再び開かれたモンローの口から出たのは、そんなひやりとさせられるものだった。
ヨハンに一体何があったというのか。
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