伝説のハンター、モンロー

 何の効果も得られないままに保安官、いやもはや彼はそのフリをした吸血鬼なのだろうか、とにかくそいつは自身の口の中に両腕を突っ込み、無理やり顎を外した。

 柔らかくなって十分に下がった下顎が、思いイヤリングをずっとつけていた耳たぶのごとく、プラプラと揺れる。

 そして体のこわばったマークは見事に頭から、男の人間離れした大きな口に呑まれたのだ。それこそクジラに一呑みにされたピノキオだった。



 どれくらいの時間が経っただろうか?


 よく思い出せなかった。


「顎の関節を外すことで異常に広がるようになった頬袋の中に、獲物を入れて運搬する……やはり、この男『虫取り網型吸血鬼』だったか」


 研修で覚えさせられた吸血鬼の分類がようやく役に立った。


 しかし、その体はすでに頬袋の中にすっぽりと収まり運搬されている途中だった。

 知っているだけでは知識は知識のままでありそれ以上の意味をなさない、マークはさらさらとした液体にまみれながらそんなことを考えていた。


 このまま自分は彼の満足のゆくまで血を吸われるのか。はたまた眷属にされて吸血病に感染させられるのか知らないが、正直もうどうでもよくなっていた。

 AVWを奪われた今の自分に、ヴァンパイアハンターとして戦えるスキルも力もない、もうお先真っ暗な状態だったのだ。


 ぶよぶよとした肉壁に耳を近づけ外の様子を伺う。何人かの仲間らしき声がコンクリートの壁に反響しているのがわかる。自分は今どこにいるのだろうか。まだ30分は歩いていないだろうから、さしずめ貧民街の廃ビルの一角といったところか。状況を探るためマークはより注意深く耳をそばだてた。


「おい、さっさと戴いちまおうや! 俺はもう我慢できないんだ」

「そうだそうだ!」

「血が飲めるぞー!」

「最高の気分だ!」


 4人ほどの男の声が立て続けに沸いた。要望に応えるようにマークが入れられた口が開かれようとする。前方から埃っぽい光が差し込みいよいよ彼が吸血される時がきたのだ。


 

 突如男達の間に悲鳴が上がった。


「ぎいやぁぁぁ!」


 敵襲だろうか、彼には外で何が起こったのかは正確にはわからなかった。

 しかし、彼を乗せた吸血鬼の体がものすごい焦りようで移動しているのを感じ、マークにもただ事ではないことがわかる。


「一体、何事なんだ?」


 マークは左右に揺れる頬袋の壁面になおさら注意深く耳を傾ける。激しく暴れまわる男達の足音や、壁に尖った金属が当たる音、そして肉を断たれる音、立て続けに沸き起こる叫び。自分は一体どうなるのだろうか。


 二分も断たぬうちに吸血鬼達の悲鳴は消え去り、姿を隠しているであろうマークと彼を口に入れた吸血鬼だけが残っているのだった。


 吸血鬼の中にいる彼にはその肉壁の微々たる振動や、口腔内の息と血の巡りから吸血鬼の追い詰められた緊張感を感じる。マーク自身もどきりどきりとしていた、自分も一緒に殺されてしまうのではないかと。そんな緊張状態は思わぬ形で終わりを告げる。


「ーーっ!」


 右耳にかかるひんやりとした空気。

 顔面すれすれのところに鋭い刃物の切っ先が差し込まれていた。

 なんの前触れもなく突き刺さって来た銀色の刃にマークは肝を冷やす。


 刃が肉を断ちた後には大人一人通れそうな裂け目が出来上がった。

 その向こうから長い指が伸び、マークは襟首をぐい、と掴まれる。

 そのまま彼は肉壁の外へ引きずり出され、明るい光の中へ投げ飛ばされた。


「ッ!」


 そこは鉄筋コンクリートの駐車場らしき場所だった。ザラザラとしたコンクリートの上を何度も転がる。体液でずるずるになった彼の体には砂埃がたっぷりついて来た。


 横向きのまま太い柱に激しく体を衝突させて勢いが止まる。

 コンクリート製のそれに体を叩きつけたマークは痛みに悶えた。激痛に耐えつつも、突然の荒っぽい救出に目を白黒させたマークは、腰をさすって目の前の光景を見た。


「これは……!」


 自分を捕えた吸血鬼は地下駐車場に来ていたようだ。だだっ広い面積の割に止まっている車は皆無である。その所々にはべったりと体に血糊をぶちまけながら地面に接吻する吸血鬼たちの姿が見て取れた。


 すでに自分を捕獲していた吸血鬼も死んでいた。喉笛に深い傷を負ったところから鮮血を湯水のように一定量出しながら、マークが吹き飛ばされた対角のところでその体はだらりと力なく伸びていたのだ。


「命拾いしたね。マーク・J・アンダーソン君」


 後ろの方でしわがれた男の声が鉄筋コンクリートの駐車場にわんわんと鳴り響く。足音が遠くからではあるが近づいてくる。

 その声の主が誰かはわからないが、マークにはそいつがこの騒ぎを起こしたのだと推測する。

 一つ疑問だとすれば、刃物で吸血鬼を殺して自分を引っ張り出したであろう声の主が、どうして自分を挟んで吸血鬼と反対側にいるのかということだ。

 むしろそいつは自分のそばに立っていなければ不自然である。マークは地面に倒れこんだままで背後の声の主の姿を目に入れた。

 そして目を疑った。


「ミスターモンロー! あなたが、なぜここに⁉」


 クリストファー・モンロー。

 普通の職員では、まず滅多にお目にかかれないレベルの人物だった。


 ヴァンパイアハンター協会初期メンバーの一人で数々の脅威を撃ち払ったことからアリゾナ・カリフォルニア合同支部の生ける伝説となった男。


 そんなモンローが自分を助け、現にここに立っている。


「おやまぁ、私のことを知っているのか」


「当たり前です! あなたのことを知らない人なんて合同支部にはいるわけないでしょう、むしろなぜ僕のことを?」


 鷲の嘴のように高く尖った鼻梁と、異様にはっきりと鼻翼まで伸びているアイライン。

 薄い唇の間に細やかなほうれい線を湛え、小さな頭とその存在感のある目鼻立からまるで宇宙人のような顔立ちと言われるその人は、白髪混じりの髪をワックスでオールバックに固めている。


 身長は189センチのマークよりもかなり低く170センチあるかないかといったところか。なんにせよ、マークがモンローを間近で見たのは初めてだった。


20世紀末に起きたサンフランシスコ大暴動などの複数の資料に載っていた写真や合同支部のオフィスで偶然見かけたエグゼクティブの会合などで見たぐらいで、もちろん一度も話したことはない。なのにモンローは自分のことを知っているような口ぶりだった。


「君のことは私の耳にも入っているよ、期待の新人だってね。その年でAVWの使用許可が出たのはおそらく君が初めてだ」


「いやいや! それはここ数年の情勢悪化に伴って協会も人員に余裕がなくなってきたからであって……」


「いいんだ、君は自分が正当に評価されていることを誇りに思っていい。もっとも最近少しやらかしたみたいだけどね」


 マークはモンローの言葉に思わず目を伏せた。

 モンローのような天の上にいるような存在の耳にまで、自分の失態は届いていたというのか。せっかくモンローが自分を評価しているというのに。ますます自分のことが情けなくなり、穴があったら入りたいと思った。


「そうです、僕は出来損ないだ。言われたことさえきちんとできない欠陥商品だ」


 自分に対する嫌悪と怒りが啖呵を切ったように溢れ始め、どす黒い何かが心を蝕んでゆく。


「そこまで自分を卑下するようなことはないさ。誰だって失敗はーー」

「ダメなんです、僕はAVWというものを与えられながらその地位に甘んじていた。その欺瞞が、醜い感情だ、それが身元不明の吸血鬼を取り逃がすという失敗を生み……。そうだ僕は何か自分が与えられて当然だというふうにいつの間にか勘違いしていたんだ、身の程知らずだったんだ、僕は……」


 そこからはもうどうにもならなかった。


 マークは自分でも何をいっているのかわからないままひたすら自分のことを罵倒し続けた。そうやって時に自分を滅茶苦茶に貶めることは、へどろの如き自己嫌悪の沼にはまっていく不気味な快感を覚えさせるのだった。


「もうやめなさい」


「いつだってそうだ、誰も僕のような薄汚いクズ野郎を愛さない。ゴミ以下の卑しい男なんだ。僕は僕を許さない、僕を愛さない」


 微かに涙を流していた。

 自分で自分のやっていることが見るに堪えない自虐ごっこであることに気付きながら、またその醜さに自己嫌悪の感情を昂らせる。その堂々巡りの沼だった。

 自分はこの沼から抜け出すことはできない、ずるずると黒い感情に押し潰されるのだ、僕は冷たく黒い感情の沼から抜け出すことはできない……。


『そんなに自分が嫌いなら、いっそ殺してやろうか?』


 コントラバスから出たような、低い呟きが聞こえた。


「?」


 今のはモンローが自分に対して言ったのか?

 それは自分が自分に向けて吐いた言葉を映し出した幻聴?

 どちらにせよその氷のような冷たい声は、先ほどの少ししわがれていて温かいモンローの声とはまるで別人のように思えた。


「そんなことを言うのはやめなさいっ!」


 モンローが初めて大きな声をあげる。突然のことに驚き、思わず黙り込んだマーク。モンローの宇宙人のような黒い二つの目がマークをまじまじと見つめる。涙はまだ流れていた、でもそれ以上何も言うことができなかった。


「マーク君、今日は私の家に泊まりなさい。君は少し考え直す必要がありそうだ、今のままでは当分AVWを取り返すことはできないぞ」


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