アシモフの氷室 5

 ポンプのような激しい勢いで流入する質量エネルギーに呼応する立方体は、今までにないほどに強い光を発し、完全とも言える状態を|現実態(エネルゲイア)化させた。

 時間停止。ジョンソンと世界との相対的速度は大きく離れ、今まさにほとんど静止した世界に彼はいた。パーカーの裾をめくり、腕時計を見る。デジタル時計の零コンマ秒のメモリは数字を変えない。彼だけがこの世界で活動していた。


「やった……ウシャシャシャシャシャ! ついにワシはやったぞ! 完全なる窮まりの境地へ、たどり着いた! 

 氷室で時間をロック!これぞまさに……ヒムロック!」


 あまりにも愉快すぎる現象、湧き上がる全能感。

 今の自分はまさに人智を超えた存在、もう怖いものなんてない。そう感じたのだった。人間の脳が信号を受け取るのに零コンマ2秒、そして脳から帰ってきた信号で体が動き始めるのにさらに零コンマ2秒。最低でも金髪の吸血鬼が動き始めるまでにそれだけの時間がかかる、それはきっとこちら側の時間でどれくらいだろうか、40分ぐらいだろうか?


「まぁいい……それまでにじっくりとこいつの形相エネルギーを吸い取り、活動不能にしてやーー」


 ふと、自分の胸元にむず痒い感覚を感じ、動きを止める。


「何かが這い上がっている? 蛇のように?」


 それこそ爬虫類の鱗のようにひんやりとした感覚が、胸元から脇の下、そして左の肩甲骨へと背面に移動していく。ジョンソンはその何かを確認しようと首を回して背中を見る、何もいない。いや自分は何をしているのか、そいつは服と肌の間をせり上がってきているのだ、服の外側から見えるはずがない。


「なんだ……何なのだ? この不気味な感覚は」


 そしてそれはジョンソンの鶏ガラのような背骨が織りなす細い隆起の上を滑り、彼の耳の下を通り、いとも簡単に二つの鼻腔へと侵入した。いきなり空気の通り穴を塞がれ、ジョンソンはパニックに陥りかける。


“やばいやばいやばいやばいやばいーーいや、待て! とりあえず落ち着くんだ、ワシには口がある! 口で呼吸するんだッ!”


 自らを落ち着かせようとなだめながら、ジョンソンは吸血鬼を見る。

 奴は微動だにしていない、何もしていない。なのにどうして自分は攻撃を受けているのか? 

 とにかく残された時間を気にしている場合ではない、早くこの吸血鬼を活動不能にしなければ。このままでは、奴より先に自分が力尽きてしまう。ジョンソンは右手でおもむろにバックルに残った6本ほどのダーツをまとめて引っこ抜くと、左手に掴んだエイドスアブソーバーとともに振り上げた。


(こいつらを、まとめてぶっ刺……)


 突如体が比重の重い液体の中を進んでいるかのように、抵抗を受けて思うように動こせないようになる。振り下ろせない……奴は目の前にあるのに!


(まさか……呼吸が苦しくなったせいで、ワシの超加速状態が弱まっている⁉ ワシがこの止まっている世界の側に引きずり込まれているというのか⁉)


 二の腕から先はやがてその感覚を失い完全に動きを止める。麻痺にも似たそれは肩の筋肉をも硬直させ、次第に首が思うようにうごかせなくなり、唇はピリピリと痺れだす。


「や、やめ……てくれ……もう、少しなのに……もうすこ、しで、終わるの、に……」


 全てが静止していた世界の中で、カール・ジョンソンの肉体、そしてその精神までもが静止した。瞬間と瞬間の狭間に彼が動いたのはそこまでだった。ただあとは、しんと静まり返った室内に佇む全てのオブジェクトが固まっただけだった。



 共有されることで、元どおりになった時間が動き始める。


 先に攻撃を繰り出したのはマルタウスの方だった。

 彼はジョンソンがブーストを使うところから、ジョンソンのここまでの動きの一部始終が予想できていた。彼の手のひらから砲丸のように発出された水塊はジョンソンの腹部を直撃する。


 ジョンソンは腹にめり込んだ水弾もろとも吹っ飛ぶと、窓ガラスを勢いよく突き破り、高さ6メートルの2階ベランダから落っこちていった。下からガシャアンと落下した窓ガラスの弾ける音がする。


 彼が気絶したのだろうか、いつのまにか部屋の中にあった奇妙な立方体は姿を消していた。


「勝負は決まっていたんだ、君が窓際に背を向けて立った時からね。僕と同じモーテルに泊まってしまったのが、君にとっての運のつきだったわけさ」


 仕掛けのタネはエアコンに溜まっていた水だった。


 マルタウスは何日も借りられっぱなしだった無人の部屋の鍵穴に、水を入り込ませて侵入し、確認できる全ての水と親和し、手懐けることで占拠した。トイレ、風呂、洗面台、そしてエアコン。全ての準備が整ったあと、マルタウスはそのすらりとした体をベッドの下に忍び込ませ、ジョンソンの帰りを待つのみだった。

 そして仕掛けたトラップに、引っかかったジョンソンの前に現れ、警戒したジョンソンは都合よく自分との距離を取るためわざわざエアコンのある窓際まで移動してくれたのだ。


 マルタウスが持つ能力の優れている点は、自身が能力で制御したり命令しなくても水が意思を持ったように彼を守ったり、行動したりしてくれる点である。彼がイコノスタシスの力や自分語りで気を引いている間、エアコンの水が全自動で動き出し、ジョンソンの服の裾から侵入するのは容易かった。

 兎にも角にもこうしてマルタウスは自分の力でもって、ヴァンパイアハンター、カール・ジョンソンの脅威を取り除いたのである。



「こ……こりゃあ、派手にやるじゃねぇか」


 ヴェッキーとミリアーナは突如けたたましい音とともに外に放り出され、気絶していた男性を見下ろしていた。


「こいつのせいでアタシのクーパーが修理から帰ってこないのね!」


 ミリアーナは男性の脇腹を足の爪先で小突いた。


「おい、やめろって!」

「アハハハハハハ! ヴェッキー、ミリアーナ見てくれただろう? 僕は確かに元凶を叩いた! さぁ、これで僕は君たちのキャラバンに晴れて正式に参加ということだ!」


 ミリアーナが不服そうに駄駄を捏ねる。


「別に、アタシはアンタのこと仲間って認めたわけじゃないから! 元はと言えばこれはアンタの問題でーー」


「いいじゃねぇかミリアーナ。こいつはこいつなりにやってくれたろ?」


 彼女はそれでもやはり舌打ちして、ポケットから無造作にビーフジャーキーの袋を取り出す。ヴェッキーもここ数日一緒に過ごす中で、彼女が気に入らないことがある時や神経質になった時にビーフジャーキーを噛む癖があるのがわかった。


「まぁまぁ、ミリアーナ! ワインでも飲んで落ち着いてほしいと僕は思うんだが、どうだい?」


「うっさいわね! 大体、ビーフジャーキーに合うのはウォッカなの! ワインとなんか合うわけないでしょ! 絶対、絶対合わないわ!」


 それは一種のフリだろうと内心ツッコミながら、ヴェッキーはある提案をしてみることにした。


「この際だ、二人の好物を交換してみるってのはどうだ?これからしばらくの付き合いになるんだ、ここで親睦を深めるのも悪くねぇはずだぜ」


「さすがヴェッキー! 君はわかる男だ! ほら、ミリアーナ」


 マルタウスが差し出した銀のボトルを渋々と受け取るミリアーナ。まだ彼女はブツブツと言っていたが、二人の視線に耐えきれず「わかった、飲むわよ!」と言って、食べかけのビーフジャーキーを噛み切ると、ワインを一口引っ掛けた。


「……?」


 何かに首を傾げもう一口飲み、今度はジャーキーをかじるミリアーナ。


「……案外いけるわね」


「アハハハ! まさにあっぱれ!」

 

 有頂天で高らかに笑うマルタウスを見て、ヴェッキーは少しホッとした。

 

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