アシモフの氷室 4
「「……」」
長い沈黙が続いた。
しかし、吸血鬼は一向に武器を見せない。この男、よほど吸血病患者としての強化された肉体に自信があるのだろうが、いくら体が丈夫でも丸腰で突っ立っているなど愚の骨頂。自ら大きな的になるようなものだ。それどころかーー
「どうしたんだい?仕掛けて来ないのか?」
「なんだと……?」
「僕はね、自分から暴力は振るわない主義なんだ。もちろん喧嘩だってふっかけないさ。僕の目指す穏やかで気楽な毎日に紛争はなくていい」
「筋の通らぬ話をするんじゃないわい! 夜襲をかけてきたのは貴様じゃろうが! さぁ、来るなら来んかい!」
「どうかな、僕は君から仕掛けてくると思うけど……」
吸血鬼はそう言って、ポケットから何かを取り出そうと右手を腰に伸ばそうとする。
そう、この瞬間。その隙こそジョンソンの待っていたそれだった。彼は最早、ほとんど直感と言えるほどの思考回路で、再びブースト効果を発動させていた。またしても緑に発光する背面の焼門印とAVW。
おそらくもって3秒だろう、しかし腰のバックルからダーツを抜き取り相手の体のどこかに当てる、それならば2.5秒で事足りたのだった。
やってやった、吸血鬼よ、やはりお前は甘かったのだ。
トイレ掃除にも、車磨きにも、ましてや小遣いの管理にさえ余念のない、そんな自分のような人間こそ、そのような人間だからこそ、一瞬に訪れるチャンスの存在を認識し、確実に恩恵を受けることができるのだ!
4メートル先の吸血鬼を狙うダーツが手元を離れる瞬間に、氷室のブーストが切れ、再び二人の時間が共有され始めた。
♢
空を割いて思いの外まっすぐに飛んで行ってくれたダーツは標的の額目前にてその軌道を変え、地面に叩きつけられた。よくわからない力で。
「何ぃッ⁉」
ジョンソンは無残に翼をもがれたダーツの残骸と、吸血鬼の驚きと嬉しさが混じった顔との間で視線を繰り返し往復させ、その度に頭の中を疑問符でいっぱいにしていた。
「マンマミーア(信じられない)! 君が自ら蓋を開けて出てくるなんて!」
そういって、驚いたように何かに賞賛している吸血鬼。その視線の先には、彼が作った掌のお皿の上で、ぷよぷよと嬉しそうに小さく跳ねる、透明な流動体があった。
「君が守ってくれたのか?」と彼が尋ねると、その流動体は愛くるしく跳ねてその質問に頷く。
まさか……この男、動く水と会話しているのか?
ぶっ飛んでいる!
「おお、なんて愉快なことなんだ。ブラーヴォ! ならばこれを機に君の勇気ある働きに名を付けるとしようじゃないか! 君は素晴らしくもサン・マルコ大聖堂のイコノスタシス(聖障)のように聖域への侵入を阻んだのだ! だから今後この力をイコノスタシスと呼ぶようにしよう!」
♢
サン・マルコ大聖堂といえば、世界遺産「ヴェネツィアとその潟」の中でも特に観光客に人気のドゥカーレ宮殿に、併設された礼拝所として有名だ。
そもそもイコノスタシスとは正教会や東方の教会で見られる内陣と身廊を隔てる障壁である。
だが、ローマ教皇庁と距離的にも近くカトリックを信仰していたはずだったヴェネツィアに、そもそも正教会のイコノスタシスがあるのはなぜだろうか?
4世紀に東西に分割されたローマ帝国、そのうち西ローマ帝国はゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされる。
一方で東ローマ帝国(7世紀以降はビザンツ帝国と呼ばれる)の皇帝はヨーロッパ世界唯一の皇帝としてゲルマン人からも高い権威を認められていたため、その後も勢力を保持し続け1453年に滅ぼされるまで続いた。
ゲルマン人の手から逃れ、ラグーナ(潟)の小島や泥沼に移り住んだローマ人たちの一部には、アドリア海のヴェネツィアにて魚や塩で河川貿易を行い、利潤をあげるものもいた。
彼らはビザンツ帝国から帝国の一州として自治権を得たことで、教皇の勢力範囲でありながらビザンツ帝国との結びつきを強固なものとし、イタリアでの脆弱な立場を補強したのだ。
それによりヴェネツィアにはビザンツ帝国からの文化が流れ込むようになる。ヴェネツィア文化の源流であるビザンツ帝国の皇帝が、神の代理人として管轄下に置いていたのが、コンスタンティノープル教会総主教。
すなわちイコノスタシスを聖堂の中に持つ東方正教会や東方諸教会を大きく囲ったギリシア正教圏の親玉なのであった。
ヴェネツィアは自国を守るためにビザンツ帝国との結びつく中で宗教、美術などの文化の影響を受けていたということだ。
サン・マルコ大聖堂のイコノスタシスは現代の我々にヴェネツィアとビザンツ帝国との文化的交流が存在したことを教える貴重な証拠なのである。
このことから「ヴェネツィアとその潟」は
登録基準(ⅱ):建築または技術の発展、記念碑的芸術、町の計画または景観の設計について、時間の経過または世界の文化圏内における人間の価値の重要な交流を示すこと
に当てはまっている。
♢
「んふぅ! イコノスタシス……「ヴェネツィアとその潟」の世界遺産型吸血鬼にふさわしい能力だ!」
マルタウスは自らの手に乗っけた水塊を高くかざした後、改めてジョンソンの方を見た。
「さて、もう一度言っておくけど……僕は自分から喧嘩はふっかけないんだ。元はと言えば君が僕を捕らえるために妙なーーおそらくそこにある機械を使って僕をこの街に閉じ込めようとしていたわけだ」
「あぁ、そうさ。お前一人捕まえるためにワシがどれだけ労力をかけたかーー」
「そうそう。僕が単身アメリカに来るのにどれだけ苦労したか……」
「人の話を勝手にすり替えるなや!」
♢
長い眠りの後、目覚めたマルタウスの前に最初に立ちふさがっていたのは、自分の頭の上を覆うレンガだった。
それを突き破って初めて彼は自身が地中に埋まっていたことに気づいた。
若き青年の吸血鬼、マルタウスは奇妙な集団に襲われたある夜を皮切りに、丸々10年間もの記憶を暗黒にしていたのだ。
その前の記憶すら完全なものではなく、自分が何者かであるかも曖昧なまま、彼は何日もの間ヴェネツィアの中を彷徨う。昼はおろおろと街中を徘徊して自分のアイデンティティに触れる何かを探し、夜は空の下ですがりつくものもなく眠った。ただはっきりと自分が吸血鬼になった経緯は覚えていたので、やはり自分が吸血鬼であることは確かだった。
そんなある日、港のゴンドラ乗りから妙な話を聞く。地中海をでて、西に広がる大海原の向こうの大陸に、赤い色をした巨大な川があるという。
それはもう、血のように赤いのだそうだった。10年の眠りを除けば、彼は吸血病を発症してすぐだったので、この体はきっと血に飢えているのだと勘違いしていた。
もしかしたら、その川の水は血で、自分はそれを飲めば生きていけるのかもしれない。きっと自分にとってその川こそが辿り着くべき桃源郷であり、定住すべき場所なのだと。そして彼は「レドリヴェールコロラート」すなわちコロラド川を目指す旅に出たのである。
ある人物の銀行口座番号を知っていた彼はその資金を使い、様々な法の網をくぐり抜け、目覚めてから26日でアメリカ東海岸のフロリダ半島への上陸を成功する。
そこからの旅はさらに過酷を極めた。
トレインホッピング、ヒッチハイク……血のように赤い川を目指す彼を道中多くの人々がクレイジーだとか、どうかしてるとか言っていたが、それでもそのうちの数人は彼に食べ物を分け与え、車に乗せてくれたりしていたのだ。
彼はそんな風に親切を受けている時にも、心の中で目の前の人間の血を吸わなければ……と思う一方で、親切にしてくれた人々への良心の呵責を感じて踏みとどまっていたのだ。
旅を続けていく中で、彼はいつの間にか自身の水を操る能力に気づいていたし、それがおそらく10年の眠りと関係しているのだろうと薄々勘付いてはいた。
そしてこのまま血を吸わなければ死ぬのではないかという恐怖が臨界地点に達しかけていたある日、彼はコロラド川のすぐ手前まで来ていたのだ。そこはウィリアムズというアリゾナ州の小さな田舎町だった。
♢
ジョンソンは間断なく話し続けるマルタウスに、嫌気がさし始めていた。
だが、まだ話終えようとしない。
「ある朝、僕はその町でヴェッキーに出会った。彼は今まで僕が出会った人々同様、僕に声をかけてくれたんだ。とても嬉しかったし、気が楽になった」
暗闇の中でわずかな街灯と月明かりを受けて乱反射する水塊。
マルタウスは手のひらの上のそれをくるくると回していた。
その中に彼自身の顔が映り、肩が映り、ジョンソンの警戒した表情や窓、エアコン、寝台、部屋の空間そのものが小さく歪められて収まっているようだった。
「結局血を吸うのには失敗した、彼は強かったから。でもね、彼との出会いはそれ以上に価値あるものだったんだ。彼は僕と同じように吸血鬼だっただけでなく、世界遺産に閉じ込められ不思議な力を手にいれた人物だったんだ。僕が吸血病になって社会を捨ててから、初めて全くと言っていいほど同じ境遇の人を見つけた瞬間だった。だから……彼を助けたいし、彼やミリアーナの旅にとても興味があるんだ、僕はヴェッキーと旅をしたい、この場所でくすぶっているわけにはいかないんだ」
ジョンソンが再び、ダーツを刺したバックルに手を伸ばす。
「自分語りは済んだか? 嬉しいことに貴様は面白い力を持っているみたいだ、お前みたいなタイプの吸血鬼は見たことがない。その世界遺産型だぁ……よくわからんが貴様の吸血鬼としての力には非常に興味が湧く。だから安心しろ、お前はワシに捕獲されてアリゾナ州都フェニックスの収容所で研究される。キングマンは出れるさ、収容所で大人しくすると約束するならなッ!」
放つ。眩いばかりの蛍光。
一瞬昼間のように明るくなった部屋の中で、ジョンソンのブースト機能が発動する。
これで最後のチャンスだろうと、ジョンソンは質量エネルギーをありったけ氷室に注ぎ込んだ。
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