アシモフの氷室 3

 カール・ジョンソンを乗せたピックアップトラックは、キングマンのダウンタウンの一角で停車した。

 そこは人もまばらな街道沿いのモーテルだった。すでに日付は変わっていて、夜のネオンに繰り出していった観光客も、それぞれの寝床へと帰っていった後だった。


 彼はこのモーテルの一部屋を数日間にわたって借り、その中に“アシモフの氷室”を設置していた。

 というのもAVWを起動させたまま外に置いておくと、どうしても一般人の目についてしまう。そこであらかじめダウンタウンにあるモーテルを一部屋借りておき、その部屋の中で密かに氷室を起動させていたのだ。


「さて、とりあえず氷室の様子を見に行くとするか……」


 二階廊下に上がり、一番奥の部屋にたどり着く。

 とりあえずこれから数日の予定は、氷室を使って例の金髪の吸血鬼を足止めしているうちに、のんびりと奴を捜索することだった。


 おまけにたとえ狙われていることを知っていても金髪の吸血鬼はそれがジョンソンであることを知らない。

 時間的にも情報的にもこちらは圧倒的に優勢。明日になれば、民衆どもがゾンビのようにのっそりのっそり歩いているのを一人ずつみて回ればいいだけなのだから。ジョンソンは余裕ある立ち振る舞いでドアの鍵を開けた。


「……」


 ドアの先にあるのは数日前と同じ風景。清掃が入らないようドアにプラカードをかけて置いた。

 誰の手も加わっていない静かな部屋には、彼にとって見慣れた1.5メートル四方の立方体が横たわっている。

 白銀の図体に影を落としていた。どうやら氷室は攻撃を受けていないようだ。

 ここでやっと一息つく。誰もこの部屋には足を踏み入れた形跡はないようだ。


「ヘッ!安心したら、催してしまったわい」


 ジョンソンはバスルームも念のため、恐る恐る確認する。ドアを背に半身で室内を見回した。こちらも水滴ひとつ残っていないようで、むしろその完成された状態に違和感すらおぼえつつあった……というのは冗談だ。


 彼は座って小便をする。まばらに禿げ散らかった頭髪と、口を覆った不潔そうな髭を除けば彼は非常に几帳面な人物である。一滴の飛沫に心の汚れを感じる。

そうやって彼は五十歳の今日まで、小便の飛沫のように小さな動乱を沈めてきたのだ。

 ヴァンパイアハンター協会の比較的初期のメンバーだった彼は、AVWが発明される前から、コツコツと発作を起こした吸血病患者を捕獲していた。


 AVW「アシモフの氷室」を与えられてからは、なおさらそのきめ細かい仕事ぶりに磨きがかかったのかアリゾナ・カリフォルニア州合同支部での評価も高かったのだ。


 白塗りの天井を見つめながら、用を足し切ったと思った。そんな彼の尻をひんやりとした何かががなぞっていった。


「ア?」


 ウォシュレットか何かが故障して、ボタンを押してもいないのに水が出たのだろう。モーテル側の手入れが行き届いていない証拠だ、後でデスクに電話を入れてやろう。ジョンソンは渦巻いた水が流れていくのを便器に顔を近づけて、睨みつける。不可解な現象はそこで終わればよかった……。


 突如便器の水が逆流して戻ってきたかと思うと、吹き出した水はジョンソンの顔面に迫り、張り付いた。突然の出来事に慌てふためいたジョンソンは顔にかかった飛沫を流すために、水道へ駆け寄る。


「なんだこの!ワシが何かしたというのか!」


 全開にひねった蛇口からは、沢のようにシャワシャワと水が流れ。それを手に汲み取り、あまりの仕打ちに怒りを覚えながら、がむしゃらに顔をこすった。顔に張り付いた便器の水が新しい水に流されていく。


 しかし、今度は蛇口から出た水の方が顔面を覆う。さらに、顔に擦りつけた水道水は、先ほどより一層多くの面積に張り付いたのだった。


「ムギィッ‼」


 鼻腔と口腔からの吸気を遮断され、更にパニックになったジョンソン。目の開けられない状態のまま乱暴に手を振りかざして見えない敵と対峙する。


「ムムッムム! ムミャミャムミャムミャムムェムェムォンムゥ!(クソッタレ!すがたをかくさずでてこんか!)」


 やっとこさ死ぬ思いで振り回していた手先が布地に触れた。

 その肌触り……間違いない、ルームに備え付けられていたタオルだ。目を閉じた暗闇の中で確信した。逃すまいとその襞を掴み取り、乱暴に顔面をこする。その肌触りは上質でさらさらとして、汚れや水を優しく回収してくれそうだった。


「オッディーオ(なんてことだ)! 汚いおじさん。人の上着で顔を拭くなんて、まるで子猫ちゃんじゃないか」


 タオルからは楽しげな青年の声がした。不思議に思って水滴を拭き取った目を開く。そこに立っているのは、他でもない……ジョンソンが数日にわたって白羽の矢を立てていた、例の金髪の吸血鬼だった。そいつはバスルームの入り口に立っていた。


 天井まで届かんとする高い身長と、しなやかな身体つき、そしてウェーブがかったブロンドの髪、それらを初めて近くで見た。自分は彼の紺色の上衣を掴み寄せ、その胸元に顔を埋めていたのだ。


「貴様はぁ⁉」


 男の胸を涙で濡らすヒロインのごとく、顔面をこすりつけていた自分の行動を認識し、脊髄反射的にどっと湧いた胸糞悪さ。

 と、同時にその相手の存在に抱いた疑念。まさか自分から、それも、のこのことターゲットが自室にやってくるとはあまりにもご都合がよろしすぎる。だとすれば、実は自分自身の作り出した妄想ではないのか? そう考えるようになる。


 ここ数日同じ吸血鬼を探し続けたせいで、その男がついに夢にまで出てきたのだろうか。


「早く、ワシの目の前から姿を消せッ吸血鬼めが!」


 ジョンソンは背面に意識を集中させ、力を込めた。そこからは幾何学模様の眩い光が浮き出す。


 呼応するかのように、ベッドの横に設置されている氷室が轟々と唸りを上げ、内部から吐き出された淡い緑の光は、真っ暗い天井を光で染めた。

 目の前の発光現象にすくんだ吸血鬼は、抵抗を持ったかのようにその動きを急激に減速させた。まるで動きが止まっているかのようだった。


 AVWにはブースト効果という機能がある。物を削る、物を埋めるなどの様々な超常現象を引き起こすトリガーであるAVWに、体の限界範囲内で質量エネルギーを更に供給することで、一際高い効果を付与することができる。

「アシモフの氷室」の場合は言わずもがな、相手との速度の差を更に広げる。相対的に見れば自分が加速し、相手が減速するということなのだ。


 ジョンソンは焦りながらも吸血鬼の脇をするりと抜ける。

 まだ効果が続いているのか、その場で身動き一つ取れない吸血鬼の姿を尻目に確認すると、小走りにベッドの上に置かれたいた手荷物のジッパーを開け、手際よくエイドスアブソーバーを取り出し、窓際ギリギリまで吸血鬼との距離を取った。


 氷室が発光してから窓際に陣地を構えるまで、ジョンソンのデジタル腕時計が示したのは約1コンマ5秒間。バスルームを塞いでいた影は、こちらの方を振り向いてすらいなかったのだ。


 速さとは相対的なもの。

 高速道路で同じスピードで走る並行車を見るのと、その車を外から見るのでは感じる速さは違う。

 更に言えば我々は日々地球の自転、更には公転の運動の上で、移動しているのだから地球上のAからBという座標運動の速さすら絶対的なものではないのだ。つまり、速い遅い止まっているというものはあくまで自分との相対的違いで、観測者がどう感じるかなのだ。


 今起こった現象を吸血鬼はジョンソンが高速移動したと認識するだろう、この男は自分の脇を目にも留まらぬ速さで移動して手荷物から武器を取り出したのだと……。

 残念、お前とワシの相対的な速さが変わっただけだ。


「お前の背中は……捉えたぞ!」


 ジョンソンの背面と氷室から緑の光がふぅんと消え去る。

 それがブースト効果の反動で氷室が機能を通常運転に戻したことを教える。吸血鬼と自分との速さが再び近づく。

 しかしこの短時間で奴の攻撃を回避し、なおかつ窓際まで移動して間合いを作った。更にはエイドスアブソーバーを手に取れたことを考えれば些細な代償だった。それに今でも自分の方が相手より速い。


「やれやれ……どうやらヴェッキーの言っていたことは正しかったみたいだ。君、今僕をより一層遅い状態にしただろう? 一瞬だったけど、僕には君がねずみちゃんみたいに素早く僕の横を通り抜けたように感じたよ」


 吸血鬼は見事だなぁ、という風に賞賛の拍手をしながら、バスルームから出て、右手奥のジョンソンの方向に体の軸を回転させた。奴の掴み所のない笑みがジョンソンに向けられる。


「フンッ! 戯言もそこまでだ、さぁ大人しく形相エネルギーを吸われてもらおうか! えぇ?」


「けいそう? 小難しい言葉はよく知らないんだが、僕の超SEXYな唇を吸う権利はレディ限定だよ?」


「アホゥ! わからんならそれでいいわ! 全く、ワシは貴様みたいな軽いノリの男が一番苦手じゃわい!」


 大型エイドスアブソーバー1台を腕に抱えて構えをとると同時に、バックルに取り付けられたダーツ型の方にも右手を伸ばす。相手の攻撃方法のわからない今、奴は「この勝負、次の一手が遅かった方が負ける」と考えているだろう。少なくともジョンソンはそう考えていた。


 スピード勝負、ならば軽量のダーツ型で相手に命中させてみせる。ジョンソンはひりひりとした緊張感の中で体を強張らせ、好機を伺っていた。

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