モルディの剃刀 2
「ッ……」
目の前のヴァンパイアハンターをいかに巻くか、それが問題だ。ミリアーナは右手でポケットのキーホルダーを軽くいじって器用にイグニッションキーから取り外した。そしてそれを手首にスナップを効かせ、3メートル先に立つ青年の股下めがけて飛ばした。乾いた砂の上を流れ星のようにキーホルダーが滑走する。
突然自分の真下を何かが滑って行ったので青年は思わず背後を振り返った、と同時にそれはけたたましい音量を発する。
「ヤァ!オレガポップコーンボーイ!オレガポップコーンボーイ!」
彼の後ろでものすごい騒音を発する犯人はカウボーイがデザインされたプラスチック製のキーホルダーだった。
「キャラメルハジャドウ!シオガセイギ!」
「何だこれは? というかキャラメルは邪道じゃない!邪道はストロベリーだ!」
やった。青年は一人でキーホルダーにツッコミを入れている。まさかこれほどまでに作戦がうまくいくとは思わなかった。
彼の注意がダサいキーホルダーに向いた隙に、ミリアーナはヴェッキーを乗せたクーパーに駆け込み、素早くイグニッションキーを反時計回りに挿し回した。左足でブレーキを維持した状態で、シフトレバーを前進ギアに入れる。アクセルペダルをベタ踏みすると、スロットルが開いたことで燃焼機関に勢いよく混合気が流れ込み、回転数を上げたエンジンが唸りをあげた。
左足がブレーキペダルを離れた瞬間、ホイールをスピンさせてミニクーパーの車体が急発進した。
「聞かなくてもわかるわ、アイツ本物のアホね! さっさとズラからせてもらうわよ!」
手前側の北向き車線をロケットスタートで横断すると、ミリアーナは鋭く左へステアリングを切り、国道US-89の南向き車線へと乗リ出した。幸いにもフラッグスタッフ方面への車線はガラガラだった。このまま奴を振り切ってしまえば……。
生まれてこのかた二十一年、生存本能がここまで機能しているのを感じたことはなかった。
体はごうごうと火照り、彼女の薄いTシャツの生地は冷たい汗のせいでぴっとりと肩甲骨に張り付いていた。バックミラーの中で青年の姿が小さくなっていくのを確認すると、改めてミリアーナは視線を前方へ落とした。
「……? 何なのこれ︎!」
一瞬目を疑った。道路の様子がおかしい。
前方に構えるアスファルトの路面が、あるところから急につるつるとした黒い床へと変わっていたのだ。
状況が飲み込めないが、おそらくあの上を走ると非常にまずいだろう。
スリップして身動きが取れないまま脱輪してしまうはずだ。
「まさか、さっきの奴の仕業?」
ミリアーナはとっさにブレーキを踏み込んで、反対車線へ逃げるためステアリングを左へ切ったが、それが間違いだった。
黒い床の前で止まりきれなかったミニクーパーは、摩擦のない床の上で前輪を軸に小さな尻をぶんぶんと振り回した。そしてそのまま左手の北向き車線を通り越し、砂の大地の上に弾き出されてしまった。ミリアーナがブレーキを踏んでようやくスリップを食い止める。
「おいおい、荒い運転してんじゃねぇぜ」
必死の思いで前の座席にしがみついていたヴェッキーがため息をつく。
「うっさいわね。ヴェッキー……アンタはここから降りるんじゃないわよ。登録カードを持ってないアンタがヴァンパイアハンターに捕まったらロクなことにならないから」
何ということだ。つるつるの床へと変化したアスファルト。この不可解な現象、おそらくAnti-Vampire Weapon|(エーブイダブリュー)の所業だろう。自然な状態で道路が一部だけつるつるにされているはずがない。ミリアーナはバックミラーを確認した、奴は……映っていない。
嫌な予感がして左側のサイドミラーを確認する。映っていない。
こっちか、と右側の窓からも身を乗り出し、後方を直接見る。やはりいない。一体奴はどこに?
「君の目の前だ」
向き直ると青年がフロントガラスいっぱいに顔面と手のひらを押し付けてこっちを睨み据えていた。
彼は今にもそこを突き破って運転席に入り込まんとする勢いだった。
「——!」
ミリアーナは頭が真っ白になりそうだった。スリードアの赤いボンネットに乗ったまま青年は続ける。
「先回りしたんだ。君たちより速かった……僕のAVWが」
あまりの驚きに言葉を失ったミリアーナを隔てるフロントガラスをゴンゴンとノックしながら、青年は追及をやめない。
「さぁ出せ、後部座席の男を! 突き破るぞ!」
「その必要はねぇよ」
聞き覚えのあるドスの効いた声が車体の後ろから響きわたる。
「吸血鬼はここだぞ……逃げも隠れもしねぇぜ」
ミリアーナは困惑した。
「ちょっと、アンタ何勝手に降りてんのよ!」
「決まってんだろ。こいつはオレが目的なんだよな? それでおめぇが怪我していい道理はねぇじゃねぇか」
「かっこつけてんじゃないわよ! バカ!」
ありがた迷惑でしかない。
ヴァンパイアハンターがヴェッキーに接触しないようにこっちは必死の思いをしているのだ。それが自分からノコノコと敵前に現れられては、自分の努力が水の泡だ。
「なら話が早い、さぁカードの提示を」
ヴェッキーは大きく右腕を振り上げると、車からこちらへ近づいてきた青年の差し出した左手を、しっぺのように勢いよくはたき落とした。
「持ってません」
あたりにこだまする、ぱぁんと破裂するような音。
見た目以上に強い力で叩かれたのだろう、青年の手のひらはみるみるうちに赤く腫れ上がり、そして怒りに震えていた。
「貴様ァ……!」
ミリアーナは一瞬よくやったと思ってしまった。だが、喜んでいられたのはそこまでだった。
「怒らせたな、この僕を」
鋭い目つきに変わった青年の背中が突然鋭く光り始めたのだ。まばゆいばかりの緑閃が辺りを染め上げる。
ヴェッキーには青年と対面しているのでわからないだろうが、ミリアーナには背面から発せられる光の中に浮き出る、奇妙な幾何学模様が視認できた。
「AVWッ?」
忘れるはずがない。Anti-Vampire Weapon|(エーブイダブリュー)が
ミリアーナの父親はヴァンパイアハンターだった。だから父親が背中に掘られた幾何学模様を使って、さっきまでそこになかった武器を発現させるところを何度も見た。そして、その武器でヴェッキーをヤキポイントの地中へと埋め込んだ瞬間も。
青年の手のひらにはもやのような粒子が集まり、何かの形へと形成され始めていた。両手に掴まれた一対のグリップ状のものが上へ上へと伸びていく。
やがてグリップの先端に二対の長い直方体が姿を現し、四角い野球バットのような白銀の全体像が露わになった。
「なっ、なんだ?双剣が何もねぇところから、現れた……⁉︎」と、目を見開きながらヴェッキーは舌を巻く。
「人に危害を加えた吸血病患者は……ヴァンパイアハンターからの身体の自由を失う。知らないとは言わせないぞ。改めて僕の名前はマーク・J・アンダーソン、ヴァンパイアハンター。AVWは『モルディの
突如マークはヴェッキーに双太刀のようなそれで、斬りかかった。
右上からの斬り降ろしや、体を駒のように回転させて打ち出す裏拳のような斬撃。
警戒したヴェッキーは立て続けに繰り出される猛攻を軽やかに流しながら、絶妙な距離を保ち続けている。あの武器の先端は相手を鋭く切りつけられるものではない、単純武器としての殺傷力が高いわけではなさそうだ。
だが、あのAVWは先ほどミリアーナの目の前でアスファルトを、ツルツルの黒い床へと変えた。あれに直接触れれば絶対に切り傷では済まないはずだ。
双太刀がヴェッキーの足元へ潜り込む。急激に間合いを詰められ、ヴェッキーは空中にスペースを見つけざるを得ず、上へと飛び上がった。
「しめた……!」
ヴェッキーの足元に潜行したマークは、その真下で激しい前傾姿勢のまま体を180度上方向に捻り上げて、背面跳びのような体制に転換した。
空中に飛び上がったヴェッキーの足裏をその目で捉える。
「ヴェッキー、危ないわ!」
「もう、遅い!」
地面すれすれで振りかぶった双太刀の右片が、ヴェッキーの右足の靴底を掠めた。
「あっ……ぶねぇ!」
ヴェッキーは地面にすたりと降り立った後、舌打ちした。
どうやら靴底の厚いバスケットボールシューズを彼に与えたことが功を奏したのか、その太刀が肉に到達することはなかったようだ。
「やるじゃねぇかっ!」
今度はヴェッキーが彼に攻撃を仕掛けようと地面を踏み込む。マークもすかさず双太刀を胸元に引き寄せ、防御の形態をとった。
ヴェッキーは助走をつけてヘッドロックをかけにいくつもりか、だが彼が踏み込んだ二歩目の右足が地面へ着地した瞬間……。
「うぉっ⁉」
派手に転倒したのだった。ミリアーナは開いた口が塞がらなかった。あまりにもお間抜けすぎる。
ーーいや、待ってほしい。バスケットボール専用シューズは汗で滑りやすいコートを軽快に動くために開発されたもの、それが摩擦の少ないザラザラの砂の上で滑るなんて普通では考えられない。
ヴェッキーにそこまで運動センスの欠如があるとも考えづらい。だとしたら一体……。
「?」
離れたところで、尻もちをついているヴェッキーの足元に視線を向けた。どういうわけか右足の靴底だけアウトソールの凹凸がなくなっている。なるほど、先ほどの攻撃で切られた場所、それこそバッシュの凹凸が消失した部分ではないのか?
もしそうなら、アスファルトの路面をつるつるの床に変えた……そのことにも説明がつく。
「わかったわ……そういうことね。ヴェッキー! アイツの武器、攻撃した箇所の凹凸を削り取ってつるつるにしてしまうのよ!」
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