モルディの剃刀 1@アリゾナ州グレーマウンテン

 

 赤い車が高速道路を走っている。運転するのはミリアーナだ。

 赤のミニクーパー5doorは彼女の愛車である。


 こぢんまりした車内に大柄のヴェッキーを押し込むには少々手間取った。

 ヴェッキーは思ったよりでかかったのだ。

 彼のために買ってきたXLの下着、インナー、その他の衣料品はどれもあの岩のような巨躯にはピチピチすぎる。


 彼を回収した、グランド・キャニオンヤキポイントは、コロラド高原が大きな東西に走る谷で分断された南側の崖(サウスリム)の西端ーーそしてそれはグランド・キャニオン国立公園の南西端でもあるーーに位置している。


 そこから車道への道を南に引き返すと見えてくる州道AZ-64通称デザートビュードライブを東へ50分。

 そこから南北を走る国道US-89に乗って、一気に自宅のあるフラッグスタッフへと南下している途中だ。


「……」


 ミリアーナは後部座席でぼんやりとしているヴェッキーを、ちらりちらりとバックミラー越しに伺っていた。


 彼を回収したはいいものの、それからの70分はほとんど会話を交わしていない。虚しい車内の静けさを紛らわすために、カーラジオのボリュームをさらに上げていた。調子のいいブルーグラスが流れている。フィドルの軽快なメロディとギターの明るいコード進行は、普段であれば彼女を楽しい気分にさせるのだが。


 ヴェッキーは依然だんまりだ。右手に広がる低木や草には目もくれないが、反対に広がるグランド・キャニオンを呆然と眺めていた。


「すごいでしょ?どこまでも続くかのような地層の連なり。あれは生えたんじゃないわよ……20億年前からの地層がコロラド川の激流に侵食されてできたのよ、コロラド川がちゃんとした川になったのが約七千万年前だから……それこそ川の流路が変わりつつも絶えず七千万年かけてね」


「……ふーん」


 しかし反応は薄かった。


「絶え間ない地球の歴史って、私たち人類のものよりもずっと長くて壮大だからさ、どでかいロマンを感じない?」

「……かもな」


「でしょでしょ?」

 なーんて笑顔を見せながら前方に向き直る。


 ミリアーナは舌打ちした。


 どうして自分が気を遣わないといけないのか。返すのは生返事ばかり。かつて最恐最悪の吸血鬼として、その名をアリゾナに轟かした男の威厳は微塵も感じられない。今の彼はなんというか、上の空だ。


 もしかしたら先ほど自分が渓谷を破壊したことに気づかないままあたりに怒鳴り散らしたことから自己嫌悪になっているのか。

 最恐最悪のくせにガラスハートの持ち主なのだろうか?


「何というかその、アンタが勘違いしてた事……別に気にしてないから」


「……助かる」


 再び車内に沈黙が走る。


「いや、気まずいわ! 最恐最悪の吸血鬼がそれだと何か可愛そうだから! むしろ見てるこっちが凹むのよ。しっかりしなさい!」


「実はその、腹が減っててよ。やる気が起きねぇんだよな……」


 ミリアーナは唖然とした。

 腹が減ってるから?


「あぁ、そう。まぁ無理もないわね」


「近くに適当に飯食えるとことかねえのか?」


 十年間飲まず食わずのまま冬眠状態だったのだ。吸血鬼の生命力を持ってしても起きた直後に腹が減るのは当然だろう。


「あぁ、もう分かったわよ! 食事にしましょ」


 噛み合わない会話のテンポに苛立ちを抑えきれなかった。

 ミリアーナは衝動的に右手でコンソールボックスを弄ると、袋詰めのビーフジャーキーを取り出す。


 奥歯でギリギリと硬い肉を噛み締めると、がつんと甘塩っぱい。

 同時に牛肉の奥深い旨みが滲み出す。蜜をなめとる羽虫のごとく必死になってそこから得られる快を追いかける。

 口に何か咥えていると落ち着く彼女にとってはこれが一服なのだ。



 真っ赤なミニクーパーは道中にポツンと立つガソリンスタンドで停止した。隣にはブランチを取れそうなちょっとしたダイナーもあるようだ。


 本当はこのままいけば50分ほどでフラッグスタッフの自宅までたどり着けたはずだが、彼が威勢に欠けるのは腹が減っているからかもしれない。窓際の、マイカーがよく見える二人席を選んだ。


「チリドッグセット、ドリンクはカキコークね。アンタは?」

 ヴェッキーは目の前の店主やミリアーナがまるで視界に入っていないかのようだった。

「ちょっと、聞いてる?」


「……」


 彼の視線の先には賑やかにテーブルを囲む三人家族があった。これからグランド・キャニオン観光にでも行くのだろう。ヴェッキーは父親の横に座るぶくぶくと肥えた男の子を注視しているようだ。


 いや、正確には彼の前に置かれているキッズセットか。ハンバーガーとフレンチフライ、そしてトマトジュース。


「まさか……アンタ、あれが良いの?」

「あぁ」

 ヴェッキーはこくりと頷いた、こんなでかい身体がキッズセットで満たされるのだろうか。

 ミリアーナはため息をついてオーダーを追加した。

「キッズセット、とりあえずカキコークで」


 ところがーー


「おいっ!」

 ドスの効いた声がフロアに響いた。

 ヴェッキーがものすごい形相で睨みつけてくる。


「なっ、なによ……」


 何か気に触れるようなことをしただろうか、びくりとして胸の内に聞いてみるが、

「撤回しろよ」

「は?」


「撤回しろって言ってんだろっ」


 ヴェッキーのよく通る声に、店内にまばらにいた客もはっとこちらを振り向いた。あまりこんなところで視線を浴びたくない。

 ぎこちなく静まり返った店内、時間が止まるとはこういうことを言う。

 その時だった。


 ーーズボッゾボボ!


 凍りついた静けさをかき消すような妙な音がした。

 あぁ、あの肥えた男の子だ、紙カップに入ったわずかなトマトジュースを口内に回収しようとストローで容器の底を吸う、あの音を出し続けている。それはちょっとばかりまずいんじゃないか?


「こら、行儀が悪いだろう」


 なんとも言えないバツの悪さを感じたのか、少年の父親はとっさに少年がカップを吸うのを手で制した。だがヴェッキーはもう……そっちを見てしまった。案の定彼は家族の座るテーブルへと足を向ける。


「おい小僧、何を飲んでる?」


「なっなんですかあなたはっ、うちの息子が何かしたって言うんですか!」

「うるせぇ!」


 反抗的な態度を見せる父親の目の前に、ボウリング玉のような重い拳が振り落とされた。衝撃でガタガタと激しく震える卓上の食器。


「おめぇは黙ってろ!」


「すっすみません!」


 父親は黙って俯いてしまった。

 背筋が凍るような圧迫された空気感、ミリアーナはテーブルから彼らの動向を見守ることしかできなかった。ヴェッキーを昔の威勢がないなどと侮っていたのは間違いだった。

 長年アリゾナの人々に恐怖の殺人吸血鬼として恐れられたヴェッキー。そしてその恐ろしさは今も昔も変わらず、ご健在であった。


「さぁ、坊主。答えろ。何を飲んでる?」


 男の子は小刻みに震え、うぅうぅと涙を飲みながら命乞いの目でヴェッキーを見つめた。


「ごめんなさい……ごめんなさい、助けてください」


「そんな言葉は聞きたくねぇな。俺が求めているのは——」


「そこまでよ」

 耐えかねてミリアーナは席から立ち上がった。このまま注目の的になれば、色々と不都合なことになりかねない。万が一警察沙汰になった時、ヴェッキーは身分証明できるものを何も持っていないのだ。

 保安官などの存在は自宅に連れて帰るまでは避けたい。いや、それも最悪のうちではない。


 もっと出会いたくない「アイツら」がいる。


 たとえこの店にいるとは考えられないにしても……。


「ちょっとアンタいい加減にしなさい! 子供相手にそこまでムキになることないでしょ」


 だが、そんな忠告ちっとも頭に血が上った彼には聞こえていないようだ。おいおい。

 そんな中恐怖を押し込めながら、涙で顔をズルズルにした少年は唇をかすかに動かした。


「と……トマトジュース……」

「あ? よく聞こえねぇな」


「トマトジュースです!」

「おぉ、気合の入った声出せるじゃねぇか!」


「何でちょっと煽り気味なのよ……」


 ヴェッキーはさらに一歩少年の側に詰め寄った。

「もっと詳しく!」


「ジョイファームのカリフォルニア100%トマト……サイズSです……」


 沈黙も束の間、浅黒い彼の二本の豪腕が小さな手を、がしりと握った。

 そして力強く何度も上下に振る。


「やるじゃねぇか!」


 彼の顔は鬼の形相から、屈託無い笑顔に変わっていた。


「オレの目に狂いはなかった」

 状況の飲み込めない少年の背中を、ばしばしと叩いたヴェッキーは上機嫌な様子で席に戻る少年は大男に背中を叩かれたせいで、苦しそうにえづいていた。


「オレのはカキコークじゃねぇ、トマトジュースだ」


「キッズセット、ドリンクはトマトジュースですね?」

 店員はヴェッキーの注文を繰り返すと、面倒な客から一刻も早く離れるべくそそくさとキッチンに消えた。

 ヴェッキーは少し興奮気味で話した。


「やっぱりそうじゃないかと思ったんだよ、あの小僧が飲んでる銘柄! やっぱりトマトジュースは、数ある中でもジョイファームカリフォルニア100%トマトに限るよな! いや〜注文遮ってよかったぜ!」


「全然よくないわバカッ!」


 結局ヴェッキーはキッズセットとダブルチーズバーガー、クラムチャウダー他5品を食べ終わると、口直しにもう一杯トマトジュースをオーダーした。この男はこちらの財布のことが意識の範疇にないのだろうか。


 彼がトマトジュースを飲んでいると、どうしても悪名のせいか生き血をすすっているようにしか見えない。何かぞわりとさせられるものがあった。

 ヴェッキーは最後のトマトジュースを飲み干すと満足げに椅子にふんぞり返った。


「あぁ〜満腹満腹」


「ったく……しかしアンタ、悪名高い吸血鬼がトマトジュース好きなんて気色悪い趣味してるわね」


「オレはな、みずみずしいトマトが好きなんだよ」


「そのドヤ顔をしまいなさいよ」


胃袋もガソリンタンクも満タンにして、二人は残り50分ほどのドライブを再開するため、店を後にしようとしていた。


「ちょっと、お前達」


 不意に後ろから声をかけられる。

 振り返ってみると若い青年がこちらを見つめていた。社会人一年目ぐらいの年齢だろうか。髪も手入れされてあり、誠実そうな印象を受ける。


「さっきお前達の話が耳に入ったんだが、どうも怪しい。ひょっとしてお前吸血鬼じゃないのか?」


 ミリアーナはその青年のなりを見て、心臓がどきりと跳ねるのを感じた。

 小中高と悪いことはひとつもしたことがない、みたいなクソ真面目さがまっすぐな目と太めの眉から滲み出ている。それは別にいい。


 しかし、服装だけが一般人のなりではなかった。


 真っ白な羊毛の貫頭衣の下から覗く色褪せ一つない黒ズボン。そこにまるで古代ローマ市民のような、「トガ」と言っただろうか、ひだの多い上着を羽織っている。


 それは「あいつら」の正装だった。


 この男一体いつから……。


「登録カードを見せてくれないか?」


「さぁ、聞き間違いじゃない? 行きましょ、時間がないのよ私たち」

 軽く白を切った後ヴェッキーの耳たぶを引っ張りながら、ミニクーパーまでの歩みを速める。


「おっおい、どこ引っ張ってんだよ! いてぇだろうが」


 ミリアーナは声を殺して、ヴェッキーの耳元に聞かせた。


「アンタ、まさか忘れたの? あの服装、ヴァンパイアハンターよ」


 ヴェッキーが目を丸くした。

「おいおい、まじかよ」

「親の顔より見てるはずでしょ。一体何年アンタがあいつらを倒したニュースを見させられたと思ってるのよ」


 最悪だ、まさか客の中に混じっていたとは思いもしなかった。よりによってこのタイミングで「アイツら」に出くわしてしまうなんて。


 ヴェッキーのような吸血病患者(通称「吸血鬼」)は突発的な吸血衝動を催すため、一般人に危害を加える恐れがある。まだ会話が成立するうちは問題ない、症状も軽い方だ。

 そのうちなら一般人でも体の大きな男性なら組み伏せることは可能である。


 だが、禁断症状のステージが一定以上高くなると自制の効かなくなった患者は肉弾戦でどうこうできる状態ではなくなる。その時の彼らの身体能力、生命力、治癒能力はどれもこれも人間離れしているのだという。

 人の道を踏み外し吸血鬼と化した吸血病患者を捕獲・時に殺処分するプロ集団が、ヴァンパイアハンター協会だ。


 だが、ヴァンパイアハンター協会側も常に後手後手に回っていては社会問題の解決には繋がらない。。


 そこで人的被害を減らすために協会は吸血病患者に「吸血病患者登録カード」の携帯を勧めている。

 なぜならその人が患者であることを周りの人が知っており、日頃から注意していれば被害は未然に防げるからだ。

 ヴァンパイアハンターは普段からカードの携帯を怠っている患者がいないか嗅ぎ回っているのだ。


 つまるところ目の前の青年が問いかける問答は正義感というよりも厚生のためのいわゆるお役所仕事である。


 ミリアーナは財布から自分の登録カードを取り出した。母親が吸血病患者だった彼女は生まれた時からこのカードを持たされていた。

 もちろん好きではない、まるで呪いである。


「ほら、確かにアタシは吸血病患者。こうやって登録カードも携帯してるわ」


「ありがとう。いや、でもお前じゃない。僕が知りたかったのはそっちの、男の方だ」


 青年はミリアーナの背後にいるヴェッキーの方を指差した。

 もちろんヴェッキーは丸裸で地中からやってきたのだ、証明カードなんて持っているわけがない。万が一にも不所持であることがバレたら百パーセントこの男に素性を詮索される、場合によっては連行も考えていい。それは避けたい。


「荒事はさらに避けたいわね」


 かなり若いようなので立場は低いとは思うが、それでももしかすればAnti-Vampire Weapon (エーブイダブリュー)を持っているかもしれない。

 そしてヴェッキーの連行に抵抗すれば……最悪それを使用してくるかもしれない。

 そのことを考えると、ミリアーナは気が気でなくなってきた。

 彼女はミニクーパーの後部ドアを開き、無理矢理にヴェッキーを右脚で車内へねじ込んだ。


「アンタはいいから入ってなさい!」


「おいおい扱い荒いぜ……」

「うっさいわね! 黙ってないとホントただじゃおかないわよ!」


「お前達逃げるのか? 何かやましいことが有るんじゃないだろうな?」

 青年がこちらに押し迫ってくる。

「ますます怪しいぞ。僕はな、登録カードを持ち歩いていない患者を探す部署なんだ。最近カードの携帯を怠っている吸血病患者が多くてね」


「へー、そりゃ大変ね。アタシもアンタの仕事がうまくいくように願っておくわ」

 心にもないことを言って紛らわそうとする。


「いいか、もう一度いうぞ。カードの確認だけさせて欲しい。僕はお前たちを疑いたくないんだ」


「だーかーらー! 吸血鬼じゃないからカードはないって言ってるでしょうが!」

 しつこい男だな、と思う。


 そんなことを思っていても、実際のところミリアーナはどのタイミングでイグニッションキーを挿しこみ、この状況から抜け出すかで頭がいっぱいいっぱいになっていた。



☆不定期開催豆知識

 USAの高速道路番号は1924年に決まったハイウェイナンバリングシステムに基づいてつけられています。

 一の位が奇数の道路は南北、偶数は東西を結ぶ道路です。例えば、ヴェッキーたちが現在いるのは国道US-89は奇数なので、南北に移動していると言った感じに。

 高校時代に読んだスパイ小説「ナヴァロンの要塞」などには島の地図が書いてあって、主人公たちがどこにいるのかを逐一文章と見比べたりしたものです。

 実際に道路を検索してみると、違う楽しみ方ができるかも知れません。

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