アリストテレスエネルギー
「……」
ヴェッキーは思い出した。
「そうだ、オレはあの時ジジィに……」
どうして自分は生きているのだろうか。
どうしてあんな山奥の崖の中に眠らされていたのだろうか。
疑問符が湯水のように湧き出す。
ヴェッキーは一旦ミリアーナの質問に先に答えることにした。きっとこの女は何か知っているのだ。話を続ければ自ずと手がかりが掴めるだろう。
「オレは少し前、ヴァンパイアハンターのジジィにやられた……」
「ヨハン・ベーカリー、2005年すなわち10年前『アリゾナ最恐最悪の吸血鬼ヴェッキー』を倒したヴァンパイアハンターね」
「2005年が10年前?」
ヴェッキーは聞き返した。
「今年は2015年よ」
ミリアーナはさぞそれが当たり前のように答えた。
そんなはずはない。今年は2005年だ。絶対そうだ。
「おい、今年が2015年なんてデタラメ言ってんじゃねぇぜ!今年は2005年のはずだ!」
ヴェッキーは思わずミリアーナに指を突きつけた。
この女、自分を弄ぼうとしていい気になっているのではないか。
「なっ! デタラメじゃないわよ、何ならアンタの目で確認してみなさいよ!」
ヴェッキーはそれから我武者羅にこの家から『2005年』という数字を探した。テーブルの上のデジタル時計、卓上カレンダー、新聞、テレビのニュース番組。
向かいの家のポストも拝見させてもらったが、どこを探しても探してもそれこそ悪趣味なドッキリ番組みたいに、そこら中にあったのは[2015]の文字ばかりだった。
今日は2015年5月27日……彼は遂にSFよろしくタイムスリップしてしまったわけだと考えた。
「ちきしょう……一体どうなってやがるんだ」
「フフフ、かなりお困りのようね」
ミリアーナが、説明するにはこうだった。2005年のあの日、ヴェッキーはヴァンパイアハンターであるヨハン・ベーカリーに敗れた。
その後ヴェッキーは仮死状態のまま、例の場所……グランド・キャニオンはヤキポイントの丘の上へとヨハンに運ばれ、そこに埋め込まれた状態で丸十年眠っていたらしい。
そして今日、十年ぶりに外の空気を吸ったわけだ。
「我ながら飲まず食わずで、しかも生き埋めで十年過ごすなんてやるじゃねぇか!」
しかし、となるとどうしてヨハンは自分を殺さなかったのか、ということになる。
「それが、今日アンタに言いたかったことの本題よ」
ミリアーナはヴェッキーの『2005年』探しのせいで冷めきったコーヒーをぐいと飲み干すと、少し難しそうな顔をしながら話し始めた。
「今からの話は多少脱線はするけれど、そうしないとわかってもらえないことがあるの」
♢
ヴェッキーは二人分の新しいコーヒーを淹れなおすと、深く椅子に座り直し、一応耳を傾けてやろうかとミリアーナの目を見つめた。
「ヴェッキー、「形而上学(けいしじょうがく)」って知ってるかしら?」
「あぁ、自分ちょっと勉強とかダメなんで」
席を外そうとするヴェッキーの襟を掴み、ミリアーナは彼をテーブルに引き戻した。
「metaphysics、高次の物理学って意味よ。古代ギリシャの哲学者アリストテレスが第一哲学と呼んでいたもの。主にその起源は彼が作った講義ノートの中にあると言われているわ」
「で、それがどうかしたのか?」
ミリアーナはアイランド型キッチンの棚から木箱を取り出し、二人が座っていたテーブルの上に置いた。中を開けると埃っぽいにおいとともに、子供が喜びそうな赤茶色をした粘土の塊が姿を現した。
「例えばアンタ、この粘土でアタシを作ろうとするじゃない」
「しないけどな」
「うっさいわね! 黙って作りなさいよ!」
渋々ヴェッキーはテーブルの上に敷いた新聞紙の上で、粘土をこね始める。
「うんうん、自然界のものにしろ人工のものにしろ素材がなければ何も作れないわよね。事象が現実態(エネルゲイア)となるためには物理的因果法則としての自然の原理が欠かせない」
「物理的因果法則としての自然……」
「それを質量というわ、ギリシア語ではヒュレーね。まぁ、わかりやすく「素材」だと考えてもらっても構わないわよ。って、何よそれまさかアタシのつもりなの?」
やらせたのはミリアーナなのだ。なのに彼女はヴェッキーの後ろに回り込んでいちいち彼の作品にケチをつけ出すのであった。
「もう少し可愛く作りなさいよそこは」
「こっちだって頑張ってんのによ」
まぁいいわ、とミリアーナは話を形而上学に戻した。
「このときある意味で、「粘土のミリアーナ」は粘土から生まれる。生成原因の一つは粘土、「質量(ヒュレー)」といえるわ。
ミリアーナはヴェッキーが作った塑像の出来栄えを確かめるために、それを手に取って天井の光にかざした。
「でもね、ここには私たちが日頃見落としがちなことがある……」
そして像を、何の躊躇もなく手のひらで捻り潰した。
ぼろぼろと崩れた粘土が新聞紙の上に溢れ落ちる。
「あっ……おめぇっ! 結構頑張ったのに!」
ヴェッキーはせっせと散乱した粘土をかき集めた。
ミリアーナはそんな彼の健気さに目もくれず、
「物が生まれるには設計図やモデルなどの範型(パラティグマ)すなわちその事物の本質、それが何であるか、もまた必要でしょう。素材だけでは何も作れないわ」
「あたりめぇだろ。ペットボトルを作るにもPETだけじゃ無理だ。ボトルに成形するための型が要る」
「自然界の事象も同じことよ。自然界には質量に内在するもう一つの原理が存在する。それは存在者を当の存在者とする、言い換えれば「そのものをそのものたらしめる」原理よ」
「『そのものをそのものたらしめる』原理……」
「そう、それが質量と対の概念である形相、ギリシア語ではエイドスよ」
「エイドス?」
「つまりはよ、事象は素材・物理的因果法則としての自然である質量|(ヒュレー)と、それに先立つ法則としての自然である形相(エイドス)からなるということよ。この二つがあってこそ事象は現れる」
「その二つがあれば事象は現実になるってことか?」
「まぁ、大まかにはそんなところね」
ミリアーナが新聞紙の余白にペンで「ヒュレー」の丸を書き、その丸の中に「エイドス」と書いた。
「今描いたのは質量(ヒュレー)の中に可能性的に形相(エイドス)が孕まれた「可能態(デュナミス)」の状態。いうなればこれは蕾よ」
「これはまだ不完全な状態っていうことだな」
ミリアーナは蕾の隣に咲いた花を描いた。
「可能性としての形相が実現されることで「現実態(エネルゲイア)」となる、蕾が花開くのよ。事象を現実態(エネルゲイア)化することは物体の変位の内積として観測できるから、質量と形相はそれぞれ仕事をする能力、すなわちエネルギーと呼べるわ」
「物事を現実のものとするのには、質量のエネルギーと形相のエネルギーが要るってことだな」
ミリアーナは新聞紙をくしゃくしゃにして捨てた。
そしてヴェッキーの方に向き直る。
「ヴェッキー、アンタは大峡谷の地中で十年眠っている間にグランド・キャニオン国立公園から形相エネルギーを少しずつ自らのうちに取り入れていたのよ。母親の胎内で眠る赤ん坊のようにね」
「あぁ?」
「そのおかげでアンタは超自然的な現象を現実態(エネルゲイア)化することができるようになった」
「いや、待てそりゃおかしいだろ」
ミリアーナが言った通りだとすれば、仮に自分が長い間眠ってグランド・キャニオンから形相エネルギーを取り込んだとしてもーーそもそも十年岩の下で眠らされて、グランド・キャニオンから何かを吸い取れたのか謎だがーー、それのみでは何もなさないはずだ。
そうだ。
形相と質量の両方がなければ何の意味も成さないのではないのか。
質量エネルギーと合わせて現実にならないそれ単体の形相エネルギーなど、心に描いた食べ物のように現実世界に存在できず何の利益も為さないのではないか?
「質量エネルギーがねぇなら現実にはならねぇだろ」
「その通りよ、「普通」の人間ならね」
「普通ってなんだよ?」
ミリアーナの軽く弾んだ息づかいと含みのある言葉は、いよいよこの妙に抽象的な話が興味深い結論に繋がりそうだということを予見させる。
「吸血鬼であるかそうでないかということよ。吸血鬼のアンタはすでに十分すぎるほどの質量エネルギーを持っているのわ」
「んだと?」
「吸血病の症状、わかるわよね?」
「身体能力、生命力、治癒能力の向上……それから吸血衝動」
「それだけじゃないのよ。アンタの知ってるそれに加えて……現実態化しなければ目に見えないから観測が難しいのだけれどーー吸血病患者には体内の質量エネルギー増長という症状があるのよ。あくまで個人差はあるけど」
「質量エネルギーが増える?」
「つまりはね、吸血病患者は外部から形相エネルギーを得れば体内の質量エネルギーを用いて事象を現実態(エネルゲイア)にすることができるのよ!」
「現実にはねぇものを現実に……?」
☆不定期開催豆知識
この作品に出てくる形質二元論はアリストテレスのそれと正確には異なる箇所が多いので鵜呑みにしないでください。あくまで、フィクションですので。
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