ヴェネツィアとその潟 2
どれほどの時間が経ったのだろうか。
ミリアーナは薄汚いボロボロの部屋で目を覚ました。
「痛っ」
彼女は塗装の剥げた木の床に寝かせられていた。
辺りを見回す。小さなベッドはバネが飛び出していて横倒しになっている、壁には黄ばんだ紙に殴り書きされたクレパス画。壁紙も色あせてボロボロだが、ところどころロケットや三日月の模様が残っていた。
「子供部屋、それも今は使われていない?」
「その通りだよ」
ミリアーナの独り言に答える誰かの声。
それはつい先ほどまで聞き覚えのある、ハリのある若い男の声だった。
声のした方を見ると、そこには美しい青年が立っていた。
「目覚めたかい?」
月の光を浴びて輝く金色の髪。ウェーブがかったそれが彼の肩まで伸びている。目鼻立ちはどこか中性的で小さく整っていた。
ようやく状況を理解した、自分は連れ去られたのだ。
「アンタ、よくも!」
「まぁまぁ、そう怒らないでくれよ」
ミリアーナの唇を人差し指で塞ぐ青年。
今の彼はもう麻袋を被っていなかった。
ヨーロッパ貴族のような気品ある燕尾のジャケットは青と黒を基調に上質な生地の表面を光らせている。その下には雲のようなひらひらの襟がついたカッターを着ていた。
「君の名前は?」
「……ミリアーナ」
「ミリアーナ、素晴らしい名前だ! いいかいミリアーナ? 僕はね、女の子の血を吸いたいだけなんだ」
「はぁ?」
この男、まさか吸血鬼なのか?
「君のような美しく気高いシニョリーナの血液……きっと僕のはやる欲動を満たしてくれることだろう」
青年は上半身だけ立ち上がったミリアーナの前に屈み込むと、彼女の小さな顎に指を添えて彼女の顔を覗き込んだ。
「……」
至近距離で見つめあう二人。
「僕にその血を委ねる気はないか?」
どこか妖艶な雰囲気を醸し出す異性に、優しく甘い吐息でそんな台詞を吐かれ、ミリアーナは自分でも驚くほど大胆になっていた。
「ナチュラルに死ねっ!」
「”あぁっっ!」
股間を自らの右脛で蹴り上げる。キックは青年の股の下にしっかりと命中した。
「あまりのキモさに悪寒が走ったわ! 飛んだ身の程知らずね」
「オッ……オッディーオ(素晴らしい)……暴れるのは、活きの良い印だ」
青年はミリアーナに股間を蹴られ、恍惚とした表情で遠くの方を見ている。
「蹴りで感じてんじゃないわよ、変態野郎!」
「んふぅ、強い言葉と強い蹴りは深く突き刺さる! 僕の股に!」
青年は体をくねくねとよじらせて、息遣いを荒くしていた。
ミリアーナはそれに軽蔑の視線を送りつつ、考える。
彼こそがモーテルのロビーで会った男達が口にしていた、この町を徘徊する変質者なのだろう。だとしたら、この男がしつこく小娘達への声掛けを行なっていたのか。
そして自分は声掛けどころか、この男に誘拐されたということか。
「変質者に連れ去られるなんて……反吐がでるような話ね」
「変質者?」
「あんたのことに決まってんでしょ」
すっとぼけやがって。
青年はミリアーナの言葉を聞いて反芻した後、合点がいったのか突然笑い出した。
「アハハハハハ、まぁいい! 君はもちろん僕に血を吸わせてくれるんだろう?」
「馬鹿じゃないの、あんたは泥水でも啜ってるのがお似合いよ」
どうしてこんな奴のために痛い思いをしないといけないのか。
青年は首をかしげて「あれ、おかしいな……」とブツブツいっている。
「君、僕の顔をもう一度見てくれ……美しいだろう?」
「何なのよ?」
「僕に血を吸わせたくならないか?」
「アンタ、気が狂ってるんじゃないの?」
「……」
青年はまた思案にふけった。
「おかしい! そんなはずは……僕はアドリア海の貴公子マルタウス、罪深い美貌を持った吸血鬼なんだぞ! 普通の女性なら僕の顔を見れば、すぐさま血を吸わせてくれたんだ! どうかしているのは君の方なんだよ!」
マルタウスと名乗る彼が少々取り乱し始める。
「アタシがまともじゃないって言いたいわけ……?」
吸血病患者、つまり吸血鬼は吸血行為を容易に行えるように、体が多種多様な機能を成長させる。
例えば腕が進化して吸血対象を捕まえやすくなったり、足が速くなったりというのは基本で、特殊な粘液を出せるようになったりする者もいる。
特徴に応じて腕が進化した「ブルドーザー型」や足が速い「チーター型」と分類される。ミリアーナ自身も軽度であるが、感覚器官が敏感な「感覚型」と診断されている。
以上のように吸血鬼は例外なく、何かしらの型に分類されるのがセオリーなのだ。
だからミリアーナは世界遺産の力を得たヴェッキーを「世界遺産型」吸血鬼と呼ぶことにしたのだ。
なのでマルタウスが言っているように、顔が進化して血を吸わせたくなるような美しい美貌を手にいれる患者もいる。「美貌型」と呼ばれる彼もしくは彼女はその美しい姿で人を魅了し、手の平で転がした後、血を吸うのだ。
マルタウスがそのタイプであるかは謎なのだが。
それを知っていてマルタウスは、自分が顔を見せればミリアーナが勝手に血を吸わせたくなるのだと妙な思い込みをしているようだ。
だからこそミリアーナに拘束具をはめずにいるのだろう。
だが、お生憎様。血を吸わせたくなるなんて気は湧かない。
やがてマルタウスはポンと手の平を打ち、納得したようだった。
「そうか!」
マルタウスは月光の差し込む窓枠に腰掛けた。
「君が血を吸わせたくならないのは、まだ僕のセクシーさが理解できていないからだね。ならば話は簡単だ、待とう!」
青年はそこから動かないつもりのようだ。
「君は助けを呼ぶことができそうなものを持っていないみたいだし、ここから逃げることは不可能だ。だからじっくり時間をかけることにした。君が僕に血を委ねたくなるのを待つよ、まぁ時間の問題だとは思うけどね……」
ミリアーナはまさかと思ってポケットを探る。携帯電話はなかった。
すぐに帰ってくると踏み込んで、モーテルの部屋に置いたままだったのだ。
これでは外への通信も不可能。
そこでミリアーナも待つことにした。ポケットは空ではなかった。ここぞという時の携帯食料、ビーフジャーキーだ。
これを噛みながら誰かが助けに来るのを、もしくはマルタウスが逃走できる隙を作るのを待つ。
「おやおや、ミリアーナ! 君のようなか弱いお嬢さんに、そんな獣臭い食べ物は似合わないと思うんだけど……」
「気易く呼ぶんじゃないわよ!」
「んふぅ……やはり、君は最高だッ!」
誰か速く来てくれ、こんな所に何時間もいるのは我慢ならない。
♢
「黒い髪で薄着の女を見てねぇか?」
「えぇ? 消防署ならぁ、この先曲がって左だよぉ」
ヴェッキーはため息をついた
「送ってあげようかぃ?」
「ありがとよ、もういい」
自分が探しているのは消防署ではない。
ミリアーナがいなくなってから十時間が経っていた。
夜はいつの間にか更け、朝の九時ぐらいだ。
これで聞き込みも十六人目だが、未だにミリアーナを見たという情報はない。だからといって、身分の証明できないヴェッキーが警察に相談することは気が引けた。
「さすがに腹が減ったな……」
ヴェッキーは空いた腹を抱えて、またおろおろと歩き始めた。やはり昨日ミリアーナについて行くべきだった。あそこで二度寝したことを悔やんでも悔やみきれない。
その時前方からヴェッキーと同じように肩を丸めた男が歩いて来た。
右目に黒い眼帯をしている男。灰色の長髪は荒れ放題で、ヒゲも綺麗に剃られていない。こんなに暑いのに大きめのトレンチコートのポケットに両手を突っ込んでいた。疲れている様子だった。
歩道は狭く人間二人ではお互いが体を反らないと通れないほどだったが、ヴェッキーはそんなことをする気がなかった。
どうせ、向こうがうまく避けてくれるだろう。男との距離が縮まって行く。
「……」
肩がぶつかる。男はヴェッキーの思うように避けてくれなかった。
まぁいい、さすがに肩が当たれば向こうも退いてくれるだろう。
「……」
相手は動こうとしない。
「オイ、おめぇ。前見て歩けよ」
「そっちこそ、どうして避けてくれなかったんだ?」
男が言い返した。
相手も自分と似たようなことを考えていたのだろう。両者が譲らなければ衝突を免れることはできない。
「オレはな困ってるし、腹も減ってんだよ。おめぇを避ける気力なんてありゃしねぇぜ」
ヴェッキーは言った。
「ほぉ〜」
適当な相槌を打った後、灰色髪の男は突然踵を返した。
そして元来た道を戻り始める。
「なっなんだおめぇ? どうして元来た道を引き返しやがる」
「気が変わったんだよ。付いてこい、俺は今から朝飯を食うことにした。モーニングの一つぐらい奢ってやる」
……ごく。
ヴェッキーはモーテルを出る時、ミリアーナの財布を持ち出そうとも考えたが、彼女は用心深く鍵をかけていたので頂戴することはできなかった。つまり、ヴェッキーは今のところ一文無しだ。
タダで朝飯を食えると聞いて、いかないわけがなかった。
浮足だって彼の後を追う。
「気前がいいじゃねぇか」
「俺は今短いバカンス中なのさ。ウィリアムズにはもう三日ぐらいいるさ」
「そりゃいいな」
「カ〜ッ! ほら俺って職場でこき使われてばっかりだろ? たまには息抜きが必要なんだよ」
「知らねぇよおめぇの仕事なんざ」
寂しい影を落とす二人の男性客は『イタリアン家庭料理』と看板に書かれたレストランへ入った。
テーブル席が六つだけの小さな店で、パーカーのフードをかぶった中年の男性客以外には誰もいなかった。
「そういや、あんちゃんは何を探してるんだ? 随分と苦労しているみたいだったが」
男はゆで卵の上部分をスプーンで叩いて、罅を入れた。
「ヴェッキーでいい」
「あ、そう。そんならば俺も名乗ろうか。ジェロール・バスティード」
ジェロールはヴェッキーが質問に答えるように促した。
「一緒にこの町に来た小娘が姿を消した」
「恋愛相談か〜、俺って忙しいからさ。経験すくねぇんだよな……」
「別にそんなんじゃねぇよ!」
というか、どれだけ忙しいアピールしたいんだ?
「最近この辺りは変質者が目撃されるみてぇだし、襲われてなきゃいいんだが……」
彼女は気が強いしたまに手が出る奴だが、しかしそれでも非力な若い娘だ。外道の手にかかれば彼女の抵抗など虫の羽ばたきほどでしかないだろう。
ヴェッキーもあまりその可能性を加味したくなかった。
「あぁ、変質者か。昨晩もすぐ目の前をうろついてたしな」
ジェロールがふとそんな言葉を漏らした。
「うろついてただと」
しかもこの近くを?
やはり噂は本当だったようだ。
「それって麻袋を被った男か?」
「あぁ、黒髪の女と話してたさ」
直感だったが、ヴェッキーはその女がミリアーナだと感じた。
やっと見つけた。
この男が聞き込み17人目にして初めての、目撃者だ。
「興味がありそうだから、詳しく教えてやろうか。昨日の夜十時ごろ、俺は晩酌のつまみを買おうとホテルを出たんだ。そしたらなぁ、噂の変質者……あいつの特徴にそっくりな男がいたんだよ」
「で?」
「さっき言った通り、短い黒髪の女と話してたんだ。それで俺は見ちまったんだよ。変質者がポケットから金属の小瓶を取り出して、それを開けたんだ。そしたら……」
ヴェッキーは固唾を飲んで、その先の言葉を待った。
「女は気を失ったのさ。そして変質者は女を担いで夜道を歩いていった」
ビンゴだろう。その女がミリアーナだと思って問題ない。
「その女は俺の探してる奴かもしれねぇ」
ジェロールは軽く聞き流して、可笑しそうに話し続けた。
「ここからが重要だヴェッキー、聞いてくれ。俺は車を降りてバレないようにその後をつけた。そして見つけたんだよ……奴の隠れ家を! いやぁ〜、本当にヒヤヒヤしたぜ、俺は丸腰だったからな。いつ振り向かれて奴に襲われるかと思ってよ!」
「少し黙りやがれ……」
ヴェッキーは低い声で呟いた。
見逃したことをさも武勇伝のように語るジェロールに苛立ちを覚えた。たとえそれがミリアーナを見つけるのに重要な情報であったとしてもだ。
「どうして助けなかった?」
ヴェッキーは一応聞いてみた。
「へへ〜ッ、しないだろそんなこと」
予想通りの答え。
それはそうだ。一般人は例え女性が吸血鬼に襲われていても助けるとは限らない。吸血衝動が出ている吸血鬼と取っ組み合いになれば無事で済む可能性は低いのだ。
人間であって人間でない、吸血病患者は社会にとって「目の上のたんこぶ」的存在なのだ。吸血鬼であるヴェッキーもそのことが当たり前の世界で生きてきた。
「だって……今の俺はオフなんだぜ?」
「あぁ?」
ジェロールが続けた言葉は不可解なものだった。
「オフ? どういう意味だそりゃ」
「そのままの意味だよ。オフの時ぐらい吸血鬼とは関わりたくないんだよ」
彼の言葉の行間にはいまいちピンとこない。一体何が言いたいのか?
それではまるで自分がオンの時は吸血鬼と嫌ほど関わっているような口ぶりではないか?
「ジェロール、おめぇ……一体何もんだ?」
「……カ〜ッ! そうだったか! 俺ったらあんちゃんに大事なこと言ってなかったじゃねぇか! 俺のバカチン!」
頭と腹を抱えて笑うジェロール。
「俺の職業はな、泣く子も黙るヴァンパイアハンターさ」
「んだと?」
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