ヴェネツィアとその潟 3


 ヴェッキーはこの男に絡んだことを後悔した。ヴァンパイアハンターは吸血鬼が最も関わりたくない相手だ。鳥にとっての蛇、シマウマにとってのライオン。自分を狩る側の人間だ。


 ジェロールはまさかヴェッキーが身元不明の吸血鬼だとは夢にも思っていないようだが。


「普段から吸血鬼と嫌ほどやり合ってるんだ。仕事じゃない時ぐらい別のヴァンパイアハンターに任せてもいいだろ。ここらの州じゃ協会の人員は余りに余ってるんだし、俺がやらなくても他の奴が手を打つさ」


 そう言ってヘラヘラと笑うジェロール。その様子を見て、ヴェッキーは敵ながら彼が相当の屑だと感じた。


「まぁプロの俺がいうんだから、あんちゃんもこの件に自分から頭突っ込むのはやめた方がいいぜ。それより協会のサービスセンターに泣きついた方がまだマシだとは思うんだけどなぁ」


「案内しろよ、その隠れ家って奴を」


「俺の話聞いてたのか? 素人のあんちゃんが手を出してどうにかなる案件じゃねぇぞ」


「それでも、そいつをぶっ飛ばしてミリアーナを助ける。オレがやると決めたんだよ。案内しろ」


 ジェロールは頭を抱えて、大きなため息をついた。


「カ〜ッ! 聞き分けの悪い奴だな。わ〜ったよ、車で近くまで送ってはやる」


「本当か?」


「ただし、血液しこたま吸われて干し魚になっても自己責任だぞ」

 

 ♢


「ほら、ここだ」


 ジェロールは廃屋の前でミニバンを停めた。

 木造の小さな小屋と表すのがいいだろうか?二階建ての建物は庭も荒れ放題、軒下の壁面には無数の穴が空いていた。


「念のため言っとくけど、俺は行かないぜ。仕事以外で関わりたくないんだよ」

「別に期待してねぇよ」


 襲われるのはヴェッキーだけで十分だと言って、ジェロールは車から降りようとはしなかった。ヴェッキーは車を降りてから、ジェロールが座る運転席の窓を指で叩いた。


「どうした?」


 ジェロールがそれに応じてウィンドウを下ろした。


「おいジェロール」


「だからどうした、忘れ物でもしーー」


 パチンコ玉のような高威力のデコピンがジェロールを襲う。彼はそのまま大きく後ろにのけぞった。


「餞別だ。よくもミリアーナを見捨てやがったな、クズ野郎が!」


「いっつ〜! そっちこそ、せいぜい死なない程度にくたばりな!」


 ジェロールは地面に唾を吐いてから走り去った。


 ヴェッキー一人で中へと入って行く。ドアを開けた瞬間、涼しげな風が頬を撫でる。

 ヴェッキーはぼろぼろの壁から背中が離れないようにして探索を開始する。玄関を入るとすぐそこが廊下になっていて、右手にはキッチンとダイニングらしき空間がある。

 錆にまみれた蛇口からシンクに水滴が落ちる。一定の間隔でシンクを濡らすその音はまるでメトロノームのようだ。そこには誰もいなかった。


 次に廊下を挟んで反対の部屋に入る。家財道具は何一つ残されていなかった。ただ激しく黄ばんだ穴だらけの壁紙があるのみ。やはり誰もいなかった。ミリアーナと吸血鬼は一体どこにいるのか?


 その時ヴェッキーは妙なものを蹴った。ごとごとと音を立てて腐りかけの床を転がって行くそれはーー。


「瓶?」


 よく磨かれた銀色の小瓶。

 それがいくつも転がっていた。

 どれもこれも埃ひとつない。それらが彼の足元で重い音を立てて不規則に転がる。

 その中からは液体が内側をたぷたぷと叩く音がした。


「何かが、おかしいぜ」


 ヴェッキーは激しい違和感を抱いた。この部屋に家財道具が一つもないのに小瓶が転がっていたのか、不自然だ。いや、それ以前に廃屋に埃ひとつ被っていない小瓶が転がっていていいものか?


 ジェロールの証言を思い出した。


 麻袋の変質者はポケットから金属の小瓶を取り出して、蓋を開けた。そしてミリアーナは気絶したのだと。

 この中には人間が気絶するような危険な液体が入っているかもしれない。


「この空き家にいるのはおそらく間違いねぇ。だとしたら確認してねぇのは」


 上か。ヴェッキーは天井を見た。この廃屋に居座っている人物は、二階にいる可能性が大きい。ヴェッキーは階段を登る。

 ところどころ穴が空いている木の階段がヴェッキーの体重に軋みをあげているが、この際後戻りはできない。こんな音を立てているのなら、普通の人間はとっくにヴェッキーの存在に気付いている。


 いた。


 階段を登りきって左手、小さなベッドが手前にある子供部屋に其の者は一人でいた。


「よう」


 ヴェッキーは気さくに声をかける。


「お前か、最近ここらで好き放題やってんのは?」


「君は?」


 美しい青年だった。肩まで伸びた波打つ金髪。その下には憂いを帯びた藍色の瞳が覗く。睫毛が長かった。


 ミリアーナがこの家に入っていったのはジェロールによると確かなことだ。しかし、彼女の姿が見当たらないということはすでに逃げ出した後ということなのか?


「オレはヴェッキー」

「そうかい。実は僕、今とても困っているんだ」


 青年は深刻な悩みを抱えているようだった。仕方ない、悩みの一つや二つ聞いてやろう。

 この空き家について色々吐かせるのはそれからでもいい。


「いいぜ、オレで良ければ相談に乗ってやる」


「ほ……本当かい⁉」


「あぁ」


 青年は目に涙を浮かべていた。


「よかった……やっと僕の願いを聞いてくれる人が現れてくれた!」


 あまりにも本気で咽び泣くので、ヴェッキーはついつい心を許してしまった。そもそも目の前の彼が騒ぎを起こしている人物であるという確証は持てないし、もしかするとこれは人違いかもしれない。

 もはやヴェッキーは目の前の青年に対し、疑って気の毒だという気持ちさえ抱き始めていた。


「じゃあ、言うね……」


 青年は体を包んでいた麻袋を脱ぎ去った。その下には青と黒と白をモチーフにした鮮やかな上着を羽織っていた。袖口には青いレースがついていて、中世ヨーロッパの貴族のようだ。


 青年が大きく息を吸って、吐いた。


「君の血をくれぇぇぇぇっ!」


「なにぃぃぃっ⁉」


 突然ヴェッキーの背中に飛びかかってきた。目にも留まらぬ速さでヴェッキーの腕を封じ込めると、ポケットから銀色の小瓶を取り出す。


「おっおめぇ!何しやがーー?」


 小瓶の蓋がひとりでに開いたかと思うと、飲み口から水が飛び出し、ヴェッキーの顔にかかった。

 その水は意思を持っているかのようだった。ヴェッキーの顔の上でベール状に薄く広がると、鼻と口にぴったりと張り付く。


「何だこりゃあ(ガボガボボガ)⁉」


 水責め拷問の一つにウォーターボーディングというものがある。


 拷問相手の顔に布を被せ、その上から水をかける。そうすることで水を含んだ布が顔面に張り付き、擬似的に溺れる感覚を与えることができる。一般的な拷問より死の恐怖を感じやすいので、現代でも生き残っている拷問法だ。ヴェッキーが受けているのはまさにそれだった。


 息ができないことへの恐怖と一刻も早くこの状況から逃れたい焦りがヴェッキーを正気で無くした。陸の上にいるはずなのに、底深い水の中で足掻いているように感じられた。


「ミリアーナに逃げられてしまったんだ。これでまた僕は吸血のチャンスを失った。本当は可愛いシニョリーナの血を吸いたいんだが、贅沢を言っている場合ではない……あまり暴れないでくれよ。大丈夫、ちょっとだけだからさ」


 耳元でねっとりと囁く声が聞こえた。青年は白い歯を見せ、ヴェッキーの方へとそれを立てかけた。


「このクソ野郎がっ(ガボ、ボボボガボボガ)!」


 ヴェッキーは必死の思いで引っ掻いた。指先で柔らかい肉への抵抗感を感じる。何かに当たったのだった。


「うわぁぁぁぁっ!」


 痛々しい叫びとともに、ヴェッキーは水責めから解放された。悲鳴の上がった方向を見る。青年が血の流れる腕を抑えて床の上を転げ回っていた。


「ぼ……僕の腕が……削れたぁっ⁉ そんな、ありえないぞぉぉっ!」


「どうやら能力が発動したみてえだな……」


 上着の袖で顔の水分を拭き取り、足元で喘ぐ青年を睨む。

 少しでも油断した自分が馬鹿だった、この青年は自分と同じ吸血病患者、すなわち吸血鬼だ。おそらく、吸血衝動が高まっているのだろう。

 そして今、この青年は少なからず血を失った。血を失った吸血鬼はさらに吸血衝動が高まる。

 そんな彼に、人並みの理性を期待してはいけない。


「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!」


 青年は子供が駄々をこねるように足をバタバタと鳴らす。


「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい……なーんてね」


「あぁ?」


 青年は、釣り糸で引っ張られたかのように垂直に立ち上がった。


「うんむ、君なかなかのやり手だ。でもね、でもねしかしっ!」


 ヴェッキーは青年の腕を見た、傷は癒えている。

 彼の自己再生能力、並大抵の吸血病患者ではない。


「このマルタウス、ここから先は指一本君に触れずその血を勝ち取ると宣言しよう!」


 マルタウスと名乗る青年はポケットから新しい銀色の小瓶を取り出した。慣れた手つきでその瓶の蓋を開けると、ぽんっと景気のいい音がした。

 飲み口を傾け、手のひらに中身を注ぐ。それもまた水だった。


「僕と親和した水は、まるで体の延長のように意のままに動かすことができる。こんな風にね」


「うぉぉ……」


 目の前の光景に息を飲んだ。

 水は彼の指から一滴もこぼれないまま、手の中で球体に丸まる。

 形を崩さないまま、掌中で踊る透明な水の塊。

 これが水を操る力。

 だが、その直後強い殺気を感じ取った。


「何かが、来やがる!」


 ヴェッキーは本能的に、子供用ベッドの陰へ飛び込む。

 その直後、彼のいた場所を水の玉が掠めた。


「あっ……危ねぇ」


 水塊はそのまま壁に激突して四散した。おそらくあれに当たっていたら、再び水責めにあっていたに違いない。


「その程度で逃げられたと思わないでくれよ!」


 アサルトライフルの如く凄まじい密度で打ち出される水の粒。


 ヴェッキーはベッドの陰でひたすら攻撃が止まるのを待った。寝台伝いに感じる背中の振動がその勢いを物語る。


 だが、このままではいつまでたっても劣勢だ。最終的には彼をねじ伏せなければ解決したとは言えない。


「ダァライヤァァァァ!」


 自らを鼓舞するためにヴェッキーは雄叫びを上げながら、ベッドの陰から飛び出した。

 そして思いっきり左足を蹴り出し、一瞬で間合いを詰め切る。


「ッ!」


「歯ぁ食いしばりやがれぇ!」


 右半身が大きく後ろに仰け反る。

 その反動で力強い正拳が打ち出された。ヴェッキーの岩のように硬い拳が、しっかりとマルタウスの顔面に入る。頬骨の下を捉えた会心の一撃。

 マルタウスが思わずぐらつく。


「マンマミーア!」


 今のパンチが相当効いたのか、マルタウスは足元がおぼつかない様子で上半身をだらりと前に垂れる。まっすぐ立てるほど回復していないようだ。


「フフッ、ヴェッキーすごい……すごい拳だよ。惚れ惚れするほどにだ」


 鼻から血を垂らし、マルタウスは皮肉げに苦笑した。


「おい、おめぇ随分と気楽そうじゃねぇか。」


 今度は左半身へエネルギーを溜め込むように、振りかぶった。


「まさか……これで終わりだとは決め込んでねぇよな!」


 右こめかみへ叩き込む左フック。

 マルタウスの動きが止まった瞬間をヴェッキーは見逃さなかった。


「ウォォォォォォォッ!」


 腹の底から雄叫びをあげ、右、左、右、左と立て続けに、顔面へ拳を打ち込む。

 マルタウスがパンチを受けて右に吹っ飛ぼうとすれば、逃すまいと逆側から拳を打ち出す。

 一心不乱に拳を振るい続けたヴェッキー。

 このまま押し切って、確実に決める!

 彼の後頭部に激しい衝撃が走ったのはその時だった。


「ガッ!」


 鈍痛。

 その後には頭の中で大太鼓が叩かれたように、ぐわんぐわんと寄せては返す揺れを感じる。脳が揺れている。

 拳を振り上げるのをやめ、奇妙な感覚がある後頭部をさすった。


「何っ!」


 手にべっとりとついた赤黒い血液。

 後ろを振り返る、そこにはいくつもの小瓶が床でカタカタと震えていた。

 おかしい、瓶はこんなにたくさん床に落ちていなかったはずだ。

 その一つが、ヴェッキーに向かって突如飛んでくる。


「んだと?」


 反射神経で顔を腕で防ぐ。ヴェッキーの腕に硬い金属がめり込んだ。

 骨まで響くような重い痛みが走る。

 それを革切りに、転がっていた小瓶が一斉にヴェッキーに飛びかかった。

 襲いかかる瓶はヴェッキーの体に強力な打撃を与えていく。


「アハハ、ハハハハハ、ハァーッハァーッハァーッ! さぁ、みんな! 反撃開始だ!」


「しゃらくせぇ!」


 ヴェッキーは姿勢を屈めて、マルタウスに背を向ける。子供部屋の出口めがけて走り出した。

 その間も背中に次々と小瓶が飛んでくる。その度に青アザができそうなほど体があちらこちらで悲鳴をあげる。


「ちきしょうっ!」


 ヴェッキーを突如襲ったのはおそらく、一階を探索した時に見逃した、複数の小瓶だった。

 それらの中には液体が入っていたのを思い出す。おそらく水だったのだろう。水が入っていればその容器まで操ることができるとは、なんとも規格外の力だった。

 一旦退避だ。ヴェッキーは廊下に出て、下への階段に足をかける。

 階下に見える一階。


「なんだ……?」


 目線の先、一階の廊下で何かがうごめいている。

 それは少しずつこちらへ移動してくる。


「おい、嘘だろ」


 動いているのは、重量感のある黒い石で造られた六十センチほどもある、水瓶だった。ごつごつとした底を引きずりながら、ヴェッキー方へ進んでくる。


「まさか、飛んできたりしねぇよな……あんなの食らったら、タダじゃすまねぇぞ」


 巨大な石の水瓶は階段の一段めの前で動きを止めたかと思うと、空中にゆっくりと浮き始めた。射程距離を図るように空中で僅かに回転する。


 そしてやはり、飛んできた。


 すかさず身をかがめたヴェッキーの頭上を、擦れるほどの誤差で通り過ぎていく水瓶。後ろの壁が派手に破れる音がした。

 振り返る。

 水瓶は見事に壁へめり込んでいた。そして早くも、もう一度ヴェッキーに襲いかかろうと動き始める。めきめきと周りの木壁が軋む。

 さらに思い出したかのように、小瓶もヴェッキーに向かって飛んできた。

 防御しきれず、体に何度も金属が打ち付けられる。


 それが決定打だった。


「ちきしょう……」


 ヴェッキーは力なく膝をついて、前に倒れこんだ。

 そこへとどめの一撃。水瓶はヴェッキーの後頭部を確実に捉えた。


 頭蓋骨をスコップでえぐられるような猛打を受けて、ヴェッキーは吐血しながら空中へ吹き飛ばされた。


 水瓶はそのままバラバラに砕け散った。階下の床へ叩きつけられる。

 仰向けにして倒れる、体に力が入らなかった。


「う……あぁ」


 ふと、見上げる。

 階段や壁には自分があげた血しぶきが至る所に掛かっている。

 その先にマルタウスが立っていた。


「僕の、勝ちだッ! ブラボーブラボーォ!」


 高らかな勝利を歌い上げる。


「さぁ、今度こそ君の血を頂くとするか、ヴェッキー!」


 逃げる力はもう残っていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る