第36話 輪の中

 義忠よしただだけでなく、正成まさなり小雪こゆきのもとを訪れた。

 応接間で小雪の様子を見た正成は、小さな息をついた。


「……元気そうだな」

「はい。おかげさまで」

「拷問されたのだろう。拷問を受けた事実だけで心を病む者はいる」

「大丈夫です。夢にも見ていません」


 小雪は小さく笑う。小雪はそこまでか弱いと正成は思っていたのだろうか。だが生憎と、釈放されてから今まで、拷問のことを夢に見たことはない。水を張った盥に顔をつけることだってできる。せいぜい、背中の笞打ちの痕が傷む程度だ。

 正成はそうか、と言うと、話題を変えた。


「……午後から謁見だそうだな」

「はい。出立の許可を願い出るつもりです」

「それが賢明だろう。今はまだ誰も気づいておらぬようだが、いずれ気づく者が現れる。お前が長くいれば、無用な騒動がまた起こる可能性は高い」

「……はい」


 正成が言いたいことを察し、小雪はそっと目を伏せた。脳裏に、三年前のことが

よぎる。


 あの日、小雪はいつもの社へ向かっている途中で見知らぬ武士に呼び止められた。乱暴に捕らえられ、否応なく引きずられたのは、どこかの小路。そこには、見たこともないような立派な身なりをした家老が、お付きの者を従えて小雪を待っていた。

 武士に無理やり膝をつかされた小雪は、扇子で顎を上げられた。見上げた先にあったのは、皮剥ぎの土垢つちあかに対する侮蔑の眼差しと、主君に近づく女への糾弾の言葉だった。

 藩主を誑かす悪女め、身分違いも甚だしい、皮剥ぎ如きが、家族は罪に問わないでやるからどこへなりと去れ――――――――


 朱鷺ときという土垢の娘を殺した言葉を、小雪は今でも忘れていない。拷問を夢に見ることはなくても、あの心ない言葉を夢や己の心の中で聞くことは、これから何度もあるだろう。


「……すまない」


 不意に、正成は謝罪をこぼした。小雪ははっと顔を上げる。


 常には淡々としてめったなことでは感情を浮かべることのない正成の顔は、罪悪感の影が薄く下りていた。謝罪の声音にもそれはにじみ、彼の瞳を大きく揺らしている。


「お前を排除したいわけではない。だが私には、あの方をお守りする義務がある。あの方が理想を唱えるなら、それを実現するための露払いをすると決めている」

「わかっています。あの方が歩まれる道に、私はいてはならない。……あの頃からわかっておりました」


 ほのかに笑みを浮かべ、小雪は正成に小さく頷いてみせる。否定しようのない事実を、自分に言い聞かせたかった。


 お前の存在は邪魔なのだと暗に告げられているのも同然なのに、小雪は彼に反感を抱けなかった。想い人のそばにありたいたいという自分の想いを阻んでくれていることに、感謝の思いすら抱く。


 正成は小雪の想い人に必要な臣下だ。そして小雪の想い人の理想は決して彼らだけのものではなく、他にも共有し、支えようとしてくれる者がいる。義忠はその一人。彼らが御上と理想を同じくし、支えてくれるのなら、いずれ御上の理想は現実のものになるだろう。

 けれど、彼らが作る平等の輪の中に、自分は必要ない。――――いてはならない。わかっている。


「おそらく御上は、出立を許可してくださるだろう。……達者でな」

「はい。浅野あさの様も、お元気で」


 小雪はそう、静かに頭を下げた。

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