第10話 池のほとり
重なる琵琶の音に耳をすませる。音そのもののほんのわずかな差異を見つけ、正して調和するために。神経を指に、耳に集中させる。
「遅い! とろとろしてると置いてくよ!」
叱責が飛び、
朝から休憩を挟みながら行われた稽古は、昼を少し過ぎる頃に終わった。稽古の総ざらいも終わり、小雪は暇になる。
琵琶の音を御上に献上した翌日、朱鷺はしばらくの逗留を命じられた。御上が朱鷺の音曲を大層気に入ったらしく、御上の生母への献上も望まれたのだ。朱鷺は城下を気軽に観光できなくなったと不満を言っていたが、御上の命なのだから仕方ない。当代一の琵琶師の師弟は、
それに伴い、二人の滞在先は城中から
普段は茶室として使用されているという白郷丸にある離れには、躾の行き届いた二人の女中がおり、掃除などはすべて彼女たちがやってくれる。小雪は野土であるのに、急須に触れる必要さえないのだ。朱鷺は楽でいいと笑っていたが、まさかここまで丁重に扱われるとは思っていなかった小雪は、待遇の急激な変化に落ち着かないくらいだった。
ふと思いたって、小雪は琵琶を手に、白郷丸の庭園へ足を踏み入れることにした。花の香りが芳しい庭園は広く、歩くだけでいい暇潰しになる。あの中で琵琶を鳴らすのは爽快であるように思えた。
杖で地面をつき石畳を踏みしめる感触を頼りに歩き、風でさざめく水面の音と杖先にぶつかった石の感触でそこが池のほとりだと理解した小雪は、その石の上に座った。どこかから、砂糖菓子のようなとびきり甘い匂いが漂ってくる。これは確か、白鷺草の匂いだったか。母が好きだった花の香りを嗅いで、小雪は懐かしさに頬を緩ませた。
琵琶の音は残響も反響もせず、蒼穹に吸われていく。城の者たちは皆己の仕事に忙しいのか、庭園に人気はなく、人がやってくる様子もない。聞いているのは池を泳ぎ回る数匹の鯉だけだ。
人気のない沈黙が心地よく、小雪が調子に乗って琵琶を弾いてから、随分時間が経った。旋律に砂利の音が混じったのを聞きつけ、小雪は琵琶を弾く手を止めた。
「すまない、手を止めるつもりはなかった」
「これは、
声から正成だと気づいた小雪は驚き、慌てて立ち上がった。
「……中で弾かないのか」
「そうしようかと思ったのですが、こちらのほうがいいかと思いましたので」
こんなに心地よい風が吹く天気で、花の香りがする庭園なのだ。離れの縁側よりも、青空の下で演奏するほうが気持ち良いに決まっている。
小雪がそのようなことを言うと、
「お前は、変わっているな」
「そうですか?」
「私が知る芸者は皆、琵琶を弾くためにわざわざ外へ繰り出しはしなかった。武家の女はなおさらそうだ」
「ああ……芸者と言っても、私は野土ですから。お武家様がお呼びになるような方々とは違います」
嘲りも呆れもない素直な感想に、小雪は苦笑した。
芸者で日焼けすることを嫌がる者は多い。特に名のある舞い手や役者、色町の女はそうだ。白粉に頼るだけでなく、傘を差したりして素肌の白さを守る。格式ある武家や公家の姫君は、いわずもがなだ。
が、小雪は職業として琵琶を習っていたわけではないので、朱鷺と出会うまでは両親の仕事をしばしば手伝っており、日焼けすることにさして抵抗がない。そもそも旅の琵琶師なのである。日焼けを怖がっていられるわけがない。
それよりも、言わなければならないことがある。
「先日は、危ないところを助けていただいてありがとうございます」
琵琶の首を持ったまま、小雪は声がしたほうに向かって深々と頭を下げる。あの夜助けてもらったきり、彼とは会えないままで礼を言っていなかった。
「いや……こちらこそ、宴席で怖い思いをさせてすまなかった。御前であれば、あの方も無体はすまいと思っていたのだがな」
「同僚の方、なのですか?」
「あの方は老中だ。政治の中核を担っておられる」
「では、浅野様もそのような御役目を?」
「いや、私は別の役目を仰せつかっている」
「そうなのですか……」
どんな役目であれ、この人ならさぞ真面目に仕事に取り組むのだろうな、と小雪はぼんやり思った。感情の起伏が窺えない声音やまとう空気からは、『怠ける』や『いい加減』といった言葉は思い浮かんでこない。単調な作業を一心に丁寧に繰り返す、小雪の父と同じ、熟練の職人の気概を感じさせる。
正成は淡々と言う。
「
「……はい。御気遣い、ありがとうございます」
思いがけない気遣いに、小雪の頭は自然と下がった。
一介の琵琶師風情にわざわざそんなことを言ってくれるなんて、正成は随分お人よしというか、人に気を配る性質なのだろう。仮にも将軍の住まいで不祥事があってはならないということもあるだろうが、小雪にわざわざ言う必要はないだろうに。御上の施政者にしては奇妙な考えを、彼も共有しているのだろうか。
あるいは、
正成の父は何らかの罪で一度垢付けの刑に処せられたものの、功績か恩赦によって罪が許され、武家に戻れたのだろう。そんな人物を父としながらも藩主に仕えることができ、さらにはその主君が将軍となり国の統治者となったのだから、正成はその境遇には不似合いな出世をしていると言っていい。
しかし、
女だから。芸者だから。そうした理由で、小雪や朱鷺が芸だけでなく色も売れと武家や公家に嘲笑われ、それでも怒鳴りつけることができないように。
それが本邦の在り方だ。常識というべきもの。
だというのに、正成は我慢しなくていいと言う。そのような事態になるなら、助けると。あんな侮辱を受けたのに。
「……先ほどの演奏、宴の晩で聞いたときよりも良かったと思う」
「え」
ぽつり、と独り言のように正成は呟いて、小雪が驚くよりも早く去っていく。見送る間もない。
一人残された小雪は、鼓動が高鳴ったあの一瞬の無様な自分を思い出し、唇を噛みしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます