第9話 理想を追う者

「ところで正成まさなり

「なんでございましょう」


 宴も果て、各々が自分の屋敷に下がった夜分。将軍の執務場所である中奥の御座の間にて、いくつかの案件の調査を御上から命じられた正成は、下がろうとしたところで、御上に呼び止められた。


「宴の席で一部が騒がしかったが……また明徳あきのりが何かしたのか」

「御酒が過ぎて朱鷺とき殿の弟子殿に不埒を働こうとなさっていたので、お止め申し上げました」


 ありのままを奏上すると、御上は脇息に肘をついたまま重い息をついた。


「将軍の前でさえ女子に不埒を働くとは、帝君の懐刀の裔が聞いて呆れる。役目を取り上げなかったのは、間違いだったか」

「恐れながら、あの方はどの役職であっても、同じ過ちを繰り返されるかと」

「まあな」


 と、御上は苦虫を潰した顔で閉じた扇子を頬に当てた。

 事実、そうなのだ。その昔、乱世が長く続いていた神庭かんばを統一し、火白ほしろに幕府を開いた帝君が誰よりも信頼した猛将である本多ほんだ昌巳まさみの直系の子孫たる明徳は、傍若無人の権化としか言いようのない人物で、その威光を笠に着た行動が周囲の悩みの種だった。城へ出仕するようになった頃から、城下の婦女をかどわして手籠めにしただの、どこそこの店の金品を脅し取っただのといった噂が絶えない。彼が事件を起こすたびに周囲が後始末をつけ、当人に反省を促すそうのだが、改心したという話は一度として聞かない。根っからの悪党なのである。


「正成、そなたもあの男を止めるのはいいが、あまり正面きってぶつかるな。あの男にあらぬことを吹聴されるぞ」

「すでに吹かれております。それに、あの場では私がお止め申し上げなければ、弟子殿は別室へ連れられていた可能性が高かったかと」

「そこまでしていたのか」


 側近の所業に、御上の眉間の皺がますます深くなった。


「他の者たちは止めなかったのか」

「お止めしてはいましたが、明徳様は一向に聞かずで」

「そうか……あの二人には、城に滞在してもらいたかったのだがな……難しいか」

「留めるのございますか」


 正成が眉を上げると、ああ、と御上は頷いた。


「あの素晴らしき音、今宵限りの夢とするには惜しい。それに、母上は楽を好まれる。たまには御次のものとは違う琵琶をお聞かせしたい。……だが、城内に部屋があっては万一明憲や久治ひさはるのような者らと対面することも起きかねない。それを避けるためには離れかどこかへ移すのがよいが、どこへ留めるべきか……」

「……」


 御上の懸念は一理ある。野土のづち土垢つちあかを見下し嘲る者は神庭の平民以上の身分に少なくないが、それを通り越した非道を強いる者もいるのだ。明憲やその取り巻きである社奉行の赤名あかな久治はもちろんのこと、女中の中にも同じ価値観を共有する者はいるだろう。彼らが城中に留め置かれ、御上の生母たる白千しらちの方に楽を献上する野土に嫌がらせをしないとは言い切れない。


「ならば、白郷丸はくごうまるへ留めるのはいかがでしょう。あそこならば庭の眺めも上々、めったなことでは双方会うこともないと存じます。御上の客人であれば、かの場所での滞在は当然のことかと」

「うむ、それは名案だ。ではさっそく明日にでも、あちらへ移ってもらうことにしよう」


 そう顔を輝かせる端から、御上は眉をしかめる。


「しかしいっそのこと、明徳に謹慎を申し渡すべきか……」

「謹慎を命じたところで、当人が悔い改めなければ無意味でしょう。それよりも、何らかの罪状で閉門、もしくは永蟄居を言い渡されるほうがよろしいかと存じます」

「言いにくいことをあっさりと言うな」


 御上は半ば呆れたふうに言う。しかし口元の笑みが、内心ではさして変わらないことを考えていたと如実に物語っていた。


 明徳の常日頃の所業を考えれば、閉門や永蟄居など、外部との接触を断つ処罰が妥当であろう。しかし彼のように家格が高く、権力や資産がある者は被害者の口を噤ませることが容易であるため、司法機関もなかなか裁きにくいのだ。法を犯しているという動かぬ証拠がなければ、厳しく罰せられない。

 また、御上の生家である和浪かずなみ神戸かんべ家と同じく帝君の傍流である雪代ゆきしろ神戸家は明徳と繋がりが深く、明徳に処罰を課そうとするとすぐ反対してくる。本多家の当主も息子に甘く、何の処分もしないのだから、明徳が傲慢になるのは当然だろう。彼に媚びて甘い汁を吸おうとする者までいる始末なのだから、手に負えない。


 そんなふうに、権力や財力のある者がその威光を盾に好き勝手することを、この年若く潔癖な御上は大層嫌っている。彼は、人間の価値は身分や職業ではなく思想や能力、人柄で決まると考えており、その身にある肩書きで悪行が許されていいはずがないという主張して憚らないのだ。傍若無人の権化たる明徳を処罰したいと欲するのは、ごく自然の成り行きである。周囲が権力の地盤固めなどを理由に宥めなければ、初めて明徳の所業の噂を聞いたその日のうちに即刻証拠を集め、彼に何らかの処罰を課していただろう。


「しかし、このたびの法令の改定が終われば、明徳様もこれまでのような振る舞いはできなくなりましょう」

「ああ。あの二人が賛成してくれたおかげで根回しもしやすく、思ったよりも早く実現できそうだ。草案作成の作業も順調と聞くが?」

「御意。改革派と保守派の駆け引きが長引いているようでございますが、かえって問題点や妥協すべき点が浮き彫りになり、草案作成のためになってよいかと」

「そうか」


 経過報告を聞き、御上は機嫌よく頷いた。


 御上はこの春から、法制度の改革の準備を行っている。庶民に刑罰の基準の仔細が伝わっていないことや恩赦の基準が曖昧であること、事件の内容によっては身分が高い者らによる政治介入も容易であることなどから、身分や職業次第で不当な判決が下されることが行われているからだ。有力な武士や裕福な商人が訴えられる側、もしくは訴える側であった場合、特にその傾向が強い。拷問による自白の強要についても御上は疑問を抱いており、改めるべきだと考えていた。


 また、悪党の所在地や罪状、身分によって管轄となる司法機関が変わるため、目の前に悪党がいるのに捕縛できない、どの機関の管轄になるかで揉めるといった弊害がしばしば起こっている。それだけでなく、町奉行所は訴訟のみならず火白城下の行政や消防などをも業務としているので、月替わりで担当していても、長官である町奉行が多忙のあまりに過労死することさえあるのだ。町奉行が不安な顔をすることが多いのは、当然のことなのである。


 このたびの法制大改革は、そうした司法と機関が抱える諸問題の解消だけでなく、法を時代に合わせて改正し、判例集や法典の作成にまで踏み込むことも目指してしている。問題が浮上していると気づいていながら、帝君が定めた法は神聖にして不可侵であるとしてこれまでどの将軍も手をつけなかった聖域にまで手をつけるのである。御上が明示した改正方針もあって、当然、幕臣たちの反発は強い。有力な老中の賛同をとりつけたとしても、おそらくは完了まで五年、いや十年はかかるだろう。御上は最初からそのつもりでいており、他の政策も織り交ぜながら、焦らず、周囲を説き伏せながら進めていくつもりだと明言していた。


 さいわいにして、職務や立場の上下はあれど身分や職業に重きを置かず、対等な者として親しむ御上の考えに共感する者は、ごく少数であるが現れるようになってきている。宴席で小雪こゆきを庇った義忠よしただは、その一人だ。今回の法制大改革では法の改定作業に参加しており、身分や職業に関係なく平等な法による裁きをという御上の意向を踏まえた内容にしようと、熱心に作業していると聞いている。反対派や中立派との折衝が難題であるものの、御上に提出される草案は、おそらく御上が満足するものになるだろう。正成はそう確信していた。


「これでようやく、一歩前へ進むことができる。……だが、まだ理想の実現にはほど遠い」


 慎重に進めねば、と御上は己に言い聞かせるように言った。


 御上が見据える道の果てにあるもの。それはすべての身分と職業が対等な世という、御上が和浪藩主時代から口にしていた、美しい理想だった。


 途方もない絵空事だ。垢落あかおちはどうあっても老中になれず、皮剥ぎは一生上の身分の者たちに蔑まれ、武家であれば上辺だけでも大きな顔をしていられるのが、神庭という国の在り方なのである。法だけでなく、身分を問わず多くの人の心に、身分や職業に対する固定観念が根づいている。その現状を鑑みれば、すべての身分と職業を対等にするなど、思い描くことすらありえず、実現も不可能な夢なのだった。

 それを承知してなお、御上は美しい理想を抱き、今も捨てず、いつか実現させてみせると強く決意している。法制大改革は、その一手にすぎない。


「……今宵はもう休む。そなたも御苦労であった、下がってよいぞ」

「では、これにて下がらせていただきます」


 許しを得て部屋を辞そうとし、正成はふと、御上が虚空に向ける眼差しに気づいた。灯火に浮かび上がる絢爛たる屏風の花嵐ではなく、はるか遠くを見る目だ。


「御上? いかがなされました」

「……ん? ああ、いや……少し疲れただけだ。気にするな」


 御上は緩く頭を振る。その横顔は疲れているようでも、夢を見ているようでもあった。

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