第8話 宴の調べ・三

 さすがにこれはやりすぎだと思ったのか、酔った勢いだと苦笑していた何人かがやんわりと明徳あきのりを宥めてくれるが、明徳はまるで聞かない。小雪こゆきを離さず、片手でぐいと残りの盃を呷る。

 義忠よしただがきつい声音で注意する。


「明徳様、悪ふざけが過ぎましょう。御上の御前ですぞ」

「堅いことを言うでない義忠殿。ほれ、御上とてあのように琵琶師を侍らせておるではないか」


 明徳は声を裏返らせてそう言った。

 確かに御上の声がするほうから、朱鷺ときの笑んだ声も聞こえてきている。小雪と違ってあらゆることに慣れている朱鷺は、艶やかな笑みと当意即妙な応答でそつなく応対しているのだろう。場を盛り上げる大輪の華と言うべきか。周りの家臣たちも、酔っていても節度ある態度を保っているようで、御上の周囲が知的で華やかな空気に包まれていることは充分に察せられた。

 それに比べてこちらは――――


「明徳様、お放しください」

「誰が放すものか。嫌がる顔も可愛いのう」

「いやっ…………!」


 明徳の酒臭い息が近づき、胸元に指がかかる。小雪は嫌悪に顔をそむけた。

 そのとき。


「……明徳様、そこまでになされよ」

「!」


 低く深い声が、場に割って入ってきた。小雪は息を呑んでそちらを向く。

 騒ぐ一同を黙らせたのは、正成まさなりだった。彼が放つ真冬の森の中のように静謐な空気が、一切の反論を許さないかのように人々の口を噤ませている。

 正成は、まとう空気にそぐった冷たい声音で言う。


「今宵は宴の席であれば、多少の悪ふざけも酔いのうち。が、それ以上の振る舞いは御上も御不快に思われましょう。その手、離されよ」

「……」


 少しも声を荒げていないのに、正成の言葉には迫力があった。まるで見えない刃を向けているかのようで、その空気に呑まれてか、明徳はひるんだ様子だ。


 その隙をついて、誰かが明徳の腕から強引に小雪を引き剥がした。方向と案じる声からすると、義忠だろうか。酒気が混じる生温かい吐息と体を締め付ける力が遠ざかり、誰かの腕の中で小雪は安堵の息をつく。

 それが癪に障ったのだろう、明徳は鼻を鳴らす。


「ふん、盲いた醜い野土のづちの娘如きをわざわざ助けようとするとは、所詮は垢落あかおちの倅ということか」

「!」


 瞬間、場がざわめいた。緊張が走り、空気が凍てつく。


「明徳様! 言葉が過ぎます!」


 義忠が声を荒げる。が、明徳は開き直って、それがどうしたと言わんばかりの態度だ。


 垢落ちというのは、元々は土垢つちあかではないのに垢付けという刑罰によって土垢に身分を落とされてしまった者のことだ。死刑や流刑ほどではないが、引き回しに並ぶ不名誉な刑罰とされている。

 垢付けはあくまでもその罪人が負う刑罰なので、家族に塁が及ぶことはない。だが身内に垢落ちがいるというのは不名誉なことに変わりなく、ましてや武家ともなれば嘲笑の的となりうる。身内に垢落ちがいることを理由に役職を解かれたり、あるいは下げられたりすることも少なくない。それは今までの旅路で、小雪も何度か聞き知っていることだった。


 正成は侮蔑の言葉にも、声音はわずかも揺るがなかった。


「……その、垢落ちの子に諭されるのはどなたか。酒で身を滅ぼされることのないよう、身を慎まれたほうがよろしいかと」


 そう言い捨て、正成はもう小雪たちに興味がないとでもいうかのように踵を返した。

 決まりの悪い沈黙の中、真っ先に口を開いたのは義忠だった。やはり、小雪を助けてくれたのは彼だったようだ。


「大丈夫ですか、小雪殿」

「はい。心配してくださって、ありがとうございます」


 心配そうな、申し訳なさそうな声音の義忠に頷き返す。そして今更小雪を抱きしめるようにしていることに気づいたのか、慌てて小雪を離す。小雪も真っ赤になって顔をそむけた。


 明徳は興を削がれたとばかりに、不機嫌な顔で酒を自ら杯に注いで飲んでいるようだ。あれだけいたぶっていた小雪に関心を向けもしない。

 今のうちに小雪が退散しようとすると、朱鷺が正成と入れ替わるようにしてこちらへやってきた。


「これは皆様方、私の弟子が何か無作法でも?」


 花町一番の太夫もかくやというような美声、そしておそらくは微笑に、白けた空気は一瞬にして甘ったるいものに変化した。悪友の源内も認める美貌の媚態なのだから、当然だろう。同性であり、日頃慣れているはずの小雪も、先ほどまでの状況を忘れてうっかり甘い空気に酔わされてしまいそうになった。


「い、いや、こちらこそ、悪ふざけが過ぎて弟子殿を怖がらせてしまったようで……」

「本当に申し訳ない」


 と、家臣たちは朱鷺に謝っている。きっとでれでれした顔をしているに違いない。国の政治を担う武家の面目などまるでない。

 これらをすべて計算ずくでやっているところが、朱鷺のおそろしくも凄いところだ。自分の容姿が異性どころか同性までもを魅了することも、どうすればそれが最大限に発揮されるかも承知している。他者を虜にする危険と利益を天秤にかけて、少しでも多くの利益を得られるようにする術を、朱鷺は熟知していた。


「……こっちはあたしがどうにかするから、あんたはあっちにいてな」

「はい」


 ひそりと命じられ、小雪は申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。

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