第7話 宴の調べ・二
わずかに俯けていた顔を上げたとき、
――――――――頭の中が、真っ白になった。
小雪はとっさに俯き、自分から無理やり視線を外した。そうしなければならなかった。
動揺していても動く己の指に小雪は心底感謝した。同時に己を叱咤する。この最高の舞台で失態を演じるなど、琵琶師の端くれとしての矜持が許さない。
再び曲に集中し、他は何も考えずに弾き終えると、曲の余韻が消えてほどなくしてから万雷の拍手に包まれた。
小雪は、一音も間違わずにいたことに心から安堵し、己を恥じた。この曲は、小雪の技量なら完璧に弾けて当たり前なのだ。一音でも間違えそうになったこと自体が情けない。朱鷺の叱責を覚悟しなければなるまい。
朱鷺に合わせ、琵琶の首を握って小雪は頭を垂れた。
「――――これが、わたくしたちの技でございます」
「うむ。見事であった。これほど素晴らしい琵琶を、私は聞いたことがない。優れた歌舞音曲には神霊や死者も心動かし、演者や奏者の願いを叶えるというが、そなたらならば可能であろう。そなたこそまさしく当代一の琵琶師よ!」
「お褒めに預かり、光栄でございます」
御上が弾んだ声で膝を打てば、朱鷺は先ほどと同様の慇懃無礼な態度で応じる。先ほどは気色ばんだ臣たちも、今度ばかりは何も言わなかった。
「そうだ朱鷺よ。そなたの弟子、名をなんという」
「小雪と」
「……小雪、か…………そのほうも、見事な琵琶の音であった。さすがは当代一の琵琶師の弟子だ」
「……」
御上は朱鷺に続き、小雪にも賛辞を送る。緊張のあまり謝辞を述べることもできず、小雪はただ深く頭を下げた。
そして御上の一声で、場はそのまま宴へ流れた。女中たちが膳や酒を運び、広間の両脇に列していた家臣たちの空気がたちまち緩み、宴のざわめきにとって代わられる。
宴が始まって、朱鷺と小雪は、家臣たちの杯に酒を注いで回った。とは言っても小雪は盲人なので、座ったまま、差し出される杯の縁を指で確かめながらゆっくりと注ぐばかりだ。これはどの屋敷へ招かれてもしていたことだから、慣れている。盲人らしい酒の注ぎ方が珍しいのか次から次へと杯は差し出され、小雪はせっせと酒を注いでは愛想笑いをし続けなければならなかった。
さすが国の政を担う者たちというべきか、酒は進んでも立ち居振る舞いは上品だった。今のところ、小雪や朱鷺に不埒な真似をしてくる者はいない。酒が過ぎればまた変わるかもしれないが、御上の御前なのだ。そこまで飲みはしないだろう。自分たちに好色な眼を向ける者はいても、強引な手に出ることもあるまい。多少の警戒心はあるものの、小雪はいつもの宴席と比べるといくらかは気を緩ませた。
「おぬし、目が見えぬというのに慣れておるな」
「師が招かれる宴に同席させていただくことは多いですから。最初の頃は粗相をせぬよう、必死でした」
「しかし、何故盲目となってしまったのだ? 病か?」
小雪が酌をしていると、幕臣の一人が問う。先ほど聞こえてきた会話によれば、数年前、流行り病に苦しんだ藩の出身だ。それゆえだろう。
おい、とその幕臣の両隣からたしなめる声があがった。幕臣はしかし、と反論する。やはり、小雪が病を持っているか気になっていたようだ。
ぶしつけな質問に、小雪は苦笑した。この手の質問は今までも繰り返されているのだ。今更悲しくなんてならない。
「師と出会う前に、泊まっていた旅籠で起きた火事に巻き込まれたのです。逃げていたのですが、焼け落ちた柱が顔に当たってしまい…………師とはその後に出会い、幸運にも弟子にしていただけたのです」
あの全身と目を襲った熱さ、そしてその後の絶望は、きっと一生忘れることはないだろう。身寄りのない盲人が縁者のいない田舎の漁村で穏やかに生きていけるほど、この世は甘くないのだ。だから小雪にとって、縁もゆかりもないのに声をかけて師となり、庇護してくれている朱鷺は大恩ある人なのである。
「それは……さぞつらかっただろう」
わが身の不幸と幸運を小雪が語ると、哀れみの色を混ぜて若い幕臣が言った。確か、
そのように身の上話や旅の話を求められるまま語り、賛辞に愛想良く答えつつ、杯を注いで回って何人目だろうか。小雪は近くからの風を感じた。誰かが小雪の近くに座ったのだ。
「おおい、弟子殿。私にも酌をしてくれ」
闖入者は、いかにも酔っ払いといったふうの声で上機嫌に言う。強まった酒精に小雪は軽い吐き気を覚えながら、差し出された杯に酒を注いだ。
小雪が注いだ酒をぐいと一気に飲み、男は陽気に笑う。だがぶしつけに小雪へ向ける視線は好ましいものではなく、目の前の琵琶師をどう可愛がろうかという欲望が他の誰よりも強く感じられる。不快な視線だ。小雪は面に出さないまでも、内心ではげんなりしていた。
「お前が小雪か。私は
「もったいないお言葉でございます」
「なに、謙遜するでない。師が当代一の琵琶師であれば、弟子も当代一の弟子よ! 今宵はまこと佳き夜ぞ、さあさあお前も飲むがよい」
酔漢の常というべきか、明徳はずいと朱色の盃を小雪に差し出し、酒を勧める。近くに座っているのだろう、義忠が諌めるが、がははと笑うばかり。これでは、酒に強くないと言い訳しても聞いてくれないだろう。
義忠以外の者たちは制止するどころか、一杯くらい構わんだろうと苦笑していて、助けてくれそうにない。小雪は仕方なく、持たされた盃に口をつけた。
酒が喉を通りすぎた途端、かっと体が熱くなった。喉は焼かれているようで、視界も意識も明瞭なのに、くらくらする。こころなしか目頭も熱い。噎せて咳き込むので、一層喉が痛みを訴える。
だから酒は嫌なのだ。気分が悪くなるばかりで、ちっともおいしくない。明徳が嬉しそうな声であるのが、腹立たしく思えた。
「なかなかの飲みっぷりよ。それに見よ、このように頬を赤くして。美しくも可愛らしいこと、この上ない」
と明徳が手を伸ばし、小雪を抱き寄せた。突然のことに小雪は対応できず、気づけば腰に腕が回され、酒気が身体を包んだ。ぞわりと嫌なものが背筋を駆け抜ける。
警鐘が小雪の脳裏に鳴り響いた。まずい。この展開は、いくつかの屋敷で経験済みだ。
小雪はできるだけ穏便にことを済ませようと、明徳を宥めながら腕から抜け出そうとした。が、小雪の腕力では到底この腕を動かせない。小雪の抵抗を面白がってか、ますます小雪の腰に巻きつけた腕の力を強くする。小雪は息が詰まりそうになった。
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