第二章 宴
第6話 宴の調べ・一
日が沈み、蝋燭に火が灯されていく時刻。大広間に通された
小雪は常から地味な色合いの麻の着物をまとっているはずなのだが、今日ばかりは驚くほど贅沢なものをまとっていた。目が見えなくても、布地の肌触りが違うからすぐわかるのだ。それに普段はうなじのあたりで緩く括るだけの黒髪は師によって結い上げられ簪で飾り、唇には紅を差した。完璧に晴れの装いである。小雪でこれなのだから、派手好きな朱鷺はより有り金をつぎ込んだ、質素に見せかけた贅沢なものに違いない。小雪は確信している。
二人がそんな装いをして神庭を統べる御上の座所たる
御上の御前での歌舞音曲の披露。成功を望む芸者であるなら、誰もが憧れる最高の舞台だ。少しでも己を飾り、実力と共に存在を誇示すべきだろう。簪屋で
そうして小雪は師に飾りたてられ、この次第に宴の華やかさを帯びていく大広間にいるわけだが、その心の内はわずかも平静でいられない。大広間の両脇に座し、御上が現れるのを待っている幕臣たちの侮蔑と好奇の視線を受けながら、小雪は目前に迫った時間に対するおそれで、胸がいっぱいだった。
一体どんな顔で、心で弦を弾けばいいのだ。部屋で待っていたときよりは落ち着いていたし、諦めもついているつもりだった。けれどいざこの場に座してみれば、今すぐにでも逃げ出したい気持ちに駆られる。
こんな乱れる心持ちで琵琶を奏でては、朱鷺の邪魔になるだけだ。幻想を生みだすあの妙なる音色を狂わせてしまう。それでは弟子として失格ではないか。小雪は弱い己を責めた。大恩を受けた身として、一人の琵琶師として、そんな無様はさらしたくない。
小雪は唇を噛みしめ、膝に置いた拳をぎゅっと握る。――――覚悟を決めるしかない。
「御上のおなりである」
ぴしりと鞭打つような声が、場の和やかな空気を一瞬にして変えた。談笑する声は消え、誰もが姿勢を正してその人の現れを待つ。
やがて、畳を踏みしめる音がした。一同は頭を垂れた。
「頭を上げよ」
涼やかな青年の声が幕臣と琵琶師に降り注ぎ、小雪は小さく息を呑んだ。
声の主――御上は言う。
「そなたが当代一と名高い琵琶師、朱鷺か」
「さて、当代一かどうかはわかりかねますが、わたくしが琵琶師の朱鷺にございます」
笑みが含まれた声。謙遜する態度とは裏腹に、己が琵琶への絶対の自信に満ちあふれている。着飾り丁寧な物言いをしていても、普段の朱鷺と何ら変わるところがない。
慇懃無礼な朱鷺の態度に、居並ぶ男たちの空気が刺々しいものになる。当然だろう。野土が一国の主にとるべき態度ではない。
御上も、声音からにじむ自信を感じ取ってはいるようだ。しかし、くつくつと笑う様子はそれに憤るどころか、むしろ面白がっているように思われた。身分不相応な態度に小言ひとつも言わない、寛大と言うべきか迷う振る舞いは、将軍という至高の地位にある意味では似つかわしくない。
「聞いて確かめてみよ、か。――――ならば聞かせてもらおう、そなたの調べを」
「御意」
朱鷺の周囲でかすかに風が生まれたのに合わせ、小雪も頭を下げた。ついに訪れてしまったこの瞬間に、瞳を閉じて深呼吸をする。
私の役目は、師の旋律を支えること。それだけ。それだけのために、ここにいる。
そう言い聞かせ、琵琶を腿の上に置いた。首を片手にして傾け、もう片手に撥を持つ。斜め前に座す朱鷺の背から、いつでも応じると、声なき声が聞こえてくる。
弦に撥を押し当て、小雪は旋律を紡いだ。哀切な旋律と共に、さらりと衣ずれの音がする。
この曲――『望月』は、朱鷺が作った曲だ。並みの殿方よりも豪快な朱鷺の性質からはとても想像できないが、真っ白な月に失った人の面影を重ね、涙するという曲想のもと作られている。
だから小雪も、そんなひとときを思う。それは我が身のことだから、隆康の心境を想像するよりも容易い。過去を思うだけで充分だ。
今は遠い、温和で楽をこよなく愛する父と陽気な母のもとで過ごした、未来も今日と同じような日が続いていくのだと信じて疑わなかったあの頃。
――――――――あの、勇気ある少年。
もう戻らない、愛しい時間――――――――
父は、母は元気だろうか。色恋話に花を咲かせた友人たちは良い人を見つけ、添えただろうか。父の仕事仲間や部下は。皆笑っているだろうか。
思い出しても詮無いことだ。なくしたものをいつまでも恋しがっていても無意味だと、何度も考えたではないか。
それでも、郷愁の念は消せない。火白に着いた夜や今このときのように、立ち止まるとふと思い出す。
人を偲ぶよすがさえ見失う嘆きを。
夢でしか会うことの叶わぬ悲しみを。
雲に隠された月を希う想いを、小雪は手にした撥と四本の弦で紡ぐ。
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