第12話 言葉散る小路・一

 しかし結局、小雪こゆき朱鷺ときに相談しなかった。相談しようと思いはしたものの、翌日目を覚ましてみると、昨夜あったことを朱鷺に話してもいいものか、と思えたからだ。


 朱鷺は、芸者が政治絡みの陰謀に関わってもろくなことがない、何を見聞きしようと「見ざる、言わざる、聞かざる」で通せと、常々口にしている。もし件の会話を何らかの企みのものと判断しても、だからどうしたと言うだろう。ましてや明徳あきのりが絡んでいるのである。言うだけ無駄だと考えざるをえない。


 かといって、正成まさなりに言わなくていいのかともやもやした気持ちを抱えているのも嫌なのだ。正成に言うだけ言ってしまったほうがいい。少なくても、小雪の心の負担は軽くなる。


 だが稽古の後、正成に相談しようと決めた頃になって、正成の仕事場所を知らないことに小雪は気づいた。御上の客人として遇されてはいるものの、城のどこにでも行っていいわけではない。人を探してあちこちを歩き回っていては不審がられるだろうし、正成だって迷惑に違いない。


 どうやって正成にこのことを伝えればいいものか。思案しながら、小雪は白郷丸はくごうまるを取り巻く塀に沿って歩いた。昨夜の声が聞こえてきた塀の向こうに何があるのか、気になったのだ。この区画は城の中央から離れた、人があまり通らないところであるらしく、喧騒が遠い。見咎められることはないだろう。


 昨夜とは違い、塀の向こうからは人の声どころか、扉を開く音ひとつしない。まったくの無音である。まったく使用されていない箇所なのだろうか。

 不思議に思いながら、小雪が足を止めてじっと塀を見つめていたときだった。


「そなた、一体何をしておるのだ?」

「!」


 背後からかけられた声に、小雪はもう少しで叫ぶところだった。背筋がびくりと跳ねるように伸びる。


「すまない、驚かせてしまった。……大丈夫か」

「…………!」


 申し訳なさそうな声を聞き、小雪はぴしりと固まってしまった。聞き覚えがあったのだ。


 小雪の思考が停止していると、声の主は何かに気づいたのか、息を飲んだ。何の断りもなく、小雪の手を引っ張る。引きずられるようにして小雪はその後に続くばかりで、杖を落とさないようにするので精いっぱいだ。

 壁にぴたりと張りついて、小雪は声の主に言われるまま息をひそめた。人を呼ばわる者たちが前を通りすぎたのを確認すると、小雪の手を握っていた大きな手が離れる。

 それを名残惜しいと思ったのは、きっと気のせいだ。


「……すまなかったな。巻き込んでしまった」


 柔らかな謝罪だった。小雪は驚きのあまり声を出すことができず、ふるふると首を振った。

 何しろ、臣下に捜されているらしいその人は御上なのだ。宴席で声を聞いたきりだが、間違いない。


 御上は小雪の不審な様子に気を悪くしたふうもなく、まったく、と息をついた。


「少し息抜きをしようと思って外に出たのだが、供をつけるのが鬱陶しくてな。撒いたのはいいのだが、そうするとあれだ。急ぎの案件は済ませたし、四半刻で戻るというのに、大騒ぎしおって……」


 そうぼやく声音は、宴席のときのそれとはまるで違う。育ちの良さを伺わせつつも、青年らしい若々しさがある。まるでどこにでもいる、少し良い家の御曹司であるような、小道で顔見知りに愚痴を言っているような気安さ。

 小雪の緊張は少しだけほぐれ、知らず口元が緩んだ。


「ところでそなた、あのようなところで何をしていたのだ? この塀の向こうは、そなたが入っていい場所ではない。あまり近づくと、兵に見咎められるぞ」


 落ちてくる声が問う。どう言おうかと小雪は唇を開けては閉じ、帯に遮られ何も映さない目をさまよわせた。


 まさか、壁の向こうに何があるか探ろうとしていたとは言えない。信じてもらえず、不審がられるだけだ。当然、昨夜の会話を話すこともできない。

 どう答えればいいだろう。この沈黙も不審を招くというのに、どう答えればいいかわからない。小雪は場を取り繕おうと、必死に思考を巡らせた。


 小雪が黙り込んでいると、御上の眼差し――というよりはまとう空気が変わったような気がした。何かを考えているような、探っているような。視線を感じて居心地が悪くなり、小雪は身を縮こまらせる。


「……いや……そなたは…………」

「おや、こちらにおられましたか御上」


 人肌の熱が頬に触れ、小雪が息を呑んだそのとき、ねっとりと絡みつくような声がした。小雪は反射的に振り返る。


「明徳か」


 同じように振り返ったらしい、臣の名を呼ぶ御上の声は冷たく硬い。先ほどまでの雰囲気も、鬱陶しそうなものに変化している。

 じゃりとまた音がする。


「このような場所におられるとは……皆が探しておりますぞ」

「急を要する案件はすべて終わらせたはず。息抜きに出てもよかろう」

「ですが、急に御姿を消されれば、皆が慌てるのも無理はないかと。ましてやこのような物陰で、盲いた野土のづちの娘と戯れていると知れば」

「この者がここにいるのは、私の散歩に付き合わせてしまっただけにすぎん。下卑た勘ぐりは無用だ」

「おお、これは失礼を……」


 少しも反省していない声音で明徳は謝する。御上に対する態度ではない。嘲っているようにすら聞こえた。


 どうやら明徳は、御上に反感を持つ臣の一人であるようだ。小雪は納得する。宴席での振る舞いを見る限り、明徳は御上が気に入るような人物ではない。むしろ毛嫌いしているはずだ。御上が高潔な人物であることは城下の噂に名高いし、殿中でも何度か聞いた。明徳も、この清廉な御上を煙たく思っているに違いない。


「ですが御上、盲いていても所詮は野土の娘。男を惑わす手管に」

「黙れ」


 懲りずに食い下がる明徳のいたぶるような声を、御上は鋭い声音で断ち切った。小雪のそばから発せられる空気は、今や研いだばかりの刀のように冷たく研ぎ澄まされている。


「口を慎め。そなたの聞き苦しい言葉と腐った性根こそが、醜く盲いておるわ」

「……! 御上と言えど、その仰りようは」

「私は、か弱い女子をいたぶり侮辱するそなたの性根を指摘したまで。加えて言うならば、そなたの物言いこそ、私への不敬があったと思うが」


 目の前からたちのぼる怒りの熱気にいささかも臆することなく、御上は冷ややかに返す。怒りを押し隠したその声音と明徳の激しい怒気をまともに受け、小雪はただおろおろとしているしかない。


 そんなとき、緊迫した場を崩すためかのように、第三者が闖入してきた。

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