第四章 逢
第16話 郷の藩主
御上の意向で留まることになったものの、御上自身からの召し出しはなく、
仕方ない。御上は政治の中心にある人なのだ。太平の世であるが、そう簡単に暇を見つけて遊ばれては困る。これまでにない大改革の準備を進めているというなら尚更だ。
だから
小雪はそれらの宴に、朱鷺と共に参加することもあればしないこともあった。参加しないときは、夜遅くまで琵琶を繰り一人稽古に励んだ。師の足手まといにならないように、叶うならその背に少しでも追いつけるように。朱鷺が奏でる旋律や叱責の声を思い出しながら、幾度も弾いた。
しかし、一人だから気楽だというわけでもない。同郷の同性だから親しみを感じているのか、
そんなこんなで今日も今日とて、小雪は庵で白千の方のために楽を演奏していた。
彼女の好みだという、ゆるりとした調べを爪弾いていると、白千の方は唐突に問いかけてきた。
「そういえば小雪、貴女は
白千の方に問われ、小雪の心の臓は小さく跳ねた。
「
「まあ、貴女も伏虎の民だったの。だから、御上が将軍になられた経緯を知りたがっていたのね。なら御上が和浪藩主であられた頃のこと、聞かせてちょうだいな。私も伏虎で生まれ育ったのだけれど、城へ上がってからの城下の様子はあまり知らないのよ」
白千の方は笑みをひらめかせ、そう言う。小雪は不敬ではあるが、貴婦人がただの母親になったと思った。
小雪は目を伏せ、最後に見た故郷の姿を思い浮かべた。
「……私は、あの方が藩主であられた数年のうち、ほんの二年しか和浪藩にいませんでしたが、明確な変化があったように思います。一番わかりやすいのは、
「そう、あの子……御上は、民に慕われていたのですね」
「はい。
「まあ、そうなのですか」
袂を口に当てて、白千の方は上品に、嬉しそうに微笑んだ。
当代の御上は先代和浪藩主であった頃、良き藩主と評判だった。まだ世の酸いも甘いもろくに知らない十代半ばの若者であったが、庶民の身なりや調度に関する規制の緩和の他、公共施設の開設や解放、特産物の売買の奨励といった今までにない政策を次々と打ち出し、下々の者の生活が明るく、かつ豊かになるよう心を砕いていたからだ。
しかし一方で、身分や職業を問わず平等に扱う姿勢を愚かと切って捨てる者もいた。御上の慈悲が野土や土垢にまで及ぶことを、多くの平民や武士は理解できなかったのだ。一部の税を重くしたことも、税を課せられた民の反感を買う一因だった。
中でも反感を買ったのは、和浪藩南東部に位置する
そうした功罪を、琵琶を繰りながら小雪が話していると、障子がすっと開かれた。
「御話し中、失礼します」
「
「御上が、御方様のご機嫌伺いにと」
小雪の息が、一瞬止まった。危うく撥をとり落としそうになる。
「すぐお通ししてちょうだい」
白千の方がそう応えをすると、女中は一礼して障子を閉める。小雪は半ば反射的に、白千の方のほうを向いた。
「では、私はこれにて下がらせていただきます」
「あら、貴女もいればいいのに」
「御上とまみえるのは畏れ多いですから……それに、稽古もありますので」
「……そう。御上にも貴女の楽を愛でていただこうと思ったのだけど、仕方ないわね」
と、白千の方は残念そうに息をつく。小雪は内心でほっと息をつきながらも、嘘をついたことに対して謝りたくなった。
「今度は朱鷺も呼んで、また世間話でもしましょう」
「是非とも。……失礼いたします」
一礼し、小雪は下がった。
女中に手を引かれ廊下を歩いていると、突然肩を押さえつけられた。御上のおなりです、と耳打ちされてようやく事態を理解し、小雪は慌てて廊下の端へ寄って平伏する。
衣ずれの音が近づいてくるにつれ、小雪の心の臓が大きく音をたてた。早く通り過ぎてほしい、と切に願う。
しかし、その願いは叶わなかった。近づき、遠のいていくはずの足音が、小雪の前で止まった。小雪は頭を垂れたまま硬直する。
「……そなたは琵琶師の……」
どうしよう。その言葉が頭の中をぐるぐると駆け回る。この場をどうにか切り抜けなければ。しかし、どうやって。この衆目ある中では、逃げることは叶わないというのに。
「御上、白千の方様がお待ちです」
小雪が焦りのあまり思考を空転させていると、無感情な女声が御上を促した。しかし小雪が盲目でなかったなら、感情を消そうとして失敗した、嫉妬や屈辱に震える瞳がそこに見えただろうことはすぐ察せられる。
ああと女中に返しながら、御上はなおも小雪に執着した。
「そうだ。小雪とやら、そなたの音がまた聞きたい。共に参れ」
「っ………………っ!」
「……!」
思いがけない命令に動揺した小雪は頭を上げ声を発しそうになり、慌ててどちらも引っ込めた。周囲の者たちも小雪と同様、息を飲む音がする。
御上の命に、野土の琵琶師如きが逆らえるはずがない。許しもなく頭を上げることすら不敬なのだ。
どうしようと小雪が必死に思考しようとした矢先、思わぬところから助け舟が入った。
「御上。この娘はこれより稽古に向かうということで、白千の方様のもとを辞したのです。早く行かせたほうがよろしいかと」
言葉を紡げず身じろぎもできない小雪に代わって、小雪を案内していた女中が言う。小雪が白千の方に告げているのを聞いていないのだから、御上が小雪を連れて行くのを止めるためにでまかせを言ったのだろう。が、小雪はそれを訂正する気になれなかった。早くこの場から逃げたかった。
「……そうだな」
ため息が落ちた後、止まっていた足音が遠のいていく。早く去ってくれと、小雪は面を伏せたまま、失礼にも願ってしまった。
完全に足音が消えると、小雪は頭を上げて肩で息をついた。心の臓がまだどくどくと音をたてている。緊張からか指先が冷たくなっているのが、自分でもわかった。
案内役の女中が無言で小雪の手をとり、引っぱり上げた。小雪は驚く間もなく廊下を引きずられそうになり、慌てて体勢を立て直す。先導する女中のみならず、廊下全体の空気が冷たくなっているのは気のせいではないだろう。
仕方ない。城にいる女中は皆、裕福な商人や旗本、大名などの家から縁を頼って上がってきた女ばかりなのだ。盲目の野土が御上に夜伽を望まれ、子を授かって女中たちの主に成り上がる可能性はなくても、そんな小娘が御上の目に留まったことそのものが不満であり屈辱だろう。あからさまな侮蔑の言葉を投げてこないだけ、躾が行き届いている。
そう思うしかなかった。
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