第15話 影の人

「……そのようなことがあったのか」

「俺は又聞きしただけですけどね」

「いや、助かる。……また頼むぞ」

「へえ」


 男は頷き、荷を背負って去る。それを見送らず、正成まさなりは彼とは反対方向へ足を向けた。


 喧騒の絶えない往来をひとつ曲がった小路。人通りのまったくないそこで、正成は巷間を監視する自身番の者から、城下に流布する噂話を聞いていたのだった。


 正成の役目は御庭番――将軍の御台所や側室の住まいたる火白ほしろ城大奥の警備であるが、それは表向きの話である。御庭番の本当の顔は、御上と御用取次のみが使える隠密。火白城下の情報を収集し、城内を監察し、下知あれば諸藩の実情を探ることもする。家臣の監察を役目とする大目付や目付とは別の、御上の耳目なのだ。


 正成は和浪かずなみ藩にいた頃から、御上直属の隠密の一人として働いていた。市井を歩くことを好む御上は、巷間には下々の者が今抱えている不満や彼らの関心事のみならず、犯罪の兆しや名高い者の素顔、役人の働きぶりまでもがひそやかに、あるいは堂々と語られていることをよく知っており、利用価値を見出していたのだ。和浪藩主時代、自身がひそかに城下を歩くだけでなく、正成たち子飼いの者に伏虎ふっこ中を歩かせ、さらには藩の各地を旅させて情報収集に勤しみ、報告を藩の政治に役立てていたものだ。


 御上が和浪藩主であった頃から間諜の役目を負っていた者たちが、御庭番の肩書を得て早数年。御用取次や老中に代わって政治的な意見を求められるばかりか、中奥へ上がることや宴席への参加を許されたり、私的な用を言いつけられたりと御上に重用されている正成は、御庭番衆の中心的存在として周囲に扱われるようになっている。御庭番を拝命しているのが下流の、元々職業や身分による差別意識が薄い者ばかりであることも一因であろうが、正成が垢落あかおちの子であることを考えれば破格の待遇だ。やっかむ者もいるが正成はさほど気にせず、淡々と任務をこなしていた。


 本丸御殿の庭にある詰所で同僚たちと情報を交換し終えると、正成は白郷丸はくごうまるの庭園へ足を向けた。


 将軍家の始祖である帝君自らが指揮をとって造成したという白郷丸の庭園は、城内のどの庭園よりも華美だ。国中から特産の草花を献上させ、一流の庭師に手入れさせているだけあって、冬の最中であっても絢爛とした風情を見せる。特に花が咲く春から夏にかけての季節は、風の向きによっては天守や本丸御殿にもその芳香が広がるのだ。暇を見つけた女中が、さながら花の蜜を求める虫の如く立ち寄るのも頷ける。


 建物のほうから、類稀な琵琶の音が聞こえてくる。朱鷺ときのほうだろう。弾き手をそのまま表した、繊細で優しい音色が絡んでこないのは、彼女だけ白千しらちかたにでも呼ばれたのだろうか。低い身分の者への偏見を持たない御上の生母がかの野土の琵琶師の師弟を気に入っていることは、正成も耳にしている。

 池のほとりまで歩いて、正成がそろそろ詰所へ戻ろうかと思ったときだった。視界の端に、顔を伏せた娘の姿が移った。


小雪こゆき殿」


 物思いに沈んだ表情が気になって名を呼ぶと、小雪は顔を上げた。


「これは、浅野あさの様。お散歩ですか」

「ああ。お前もか」

「はい。先ほどまで白千の方様の御相手をさせていただいたのですが、他の方とお会いになるとのことで、下がらせていただいたのです」


 小首を傾け、小雪は苦笑した。しかし、すぐその顔を曇らせる。

 正成は視線を動かした。


「……また、誰かに不快な思いをさせられたのか」

「いえ……そういうことではないのですが…………」


 正成が尋ねると、小雪は困ったように眉根を寄せ、言葉を濁す。迷いを強く残した様子を見せていたが、やがて意を決したように再び口を開いた。


「浅野様。実は先日、気になることがあって……」

「気になること?」

「本当に、なんでもないことなのですけど……」


 小雪はそう前置きして、ぽつりぽつりとその気になることを語った。

 聞き終えた正成は、わずかに目線を下に向けて沈思した。


 なんともおかしな話だ。真夜中に庭先へ出てみたら、物騒な単語や明徳あきのりの名が出てくるやりとりがあったなどと。あまりに三文芝居めいていて、作り話かと疑いたくなる。小雪も自分の話の信憑性を気にしてか、緊張し、こちらの様子を窺っている。

 しかし、小雪がこんな信じてもらえるかもわからない嘘をつく性格のようには思えない。彼女と言葉を交わしたのはわずかばかりだが、人や物事を疑い探る役目柄、人が嘘をついているかどうか見抜く目は多少なりともあると自負している。その目に、彼女が嘘をついているようには映らなかった。

 しばし考え、正成は頷いた。


「……わかった。今の話、しかるべきところにそれとなく伝えておくことにしよう」

「ありがとうございます」


 ほっとした様子で小雪が微笑む。面から翳りが消え、いつもの控え目な、慎ましやかな風情が薫った。

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