第14話 女三人寄れば

 最後の一音の余韻が消えてほどなくして、貴婦人のため息がこぼれた。


 白千しらちかたが御所望であると、やってきた女中に告げられた小雪こゆき朱鷺ときと共に赴いたのは、城内にある御殿の一室だった。


 白千の方は、当代の御上の生母なのだという。御上の将軍位着任に伴って火白ほしろに入り、城内にあるこの御殿で静かに余生を過ごしているらしい。彼女に仕えていたことがあるという、白郷丸はくごうまるで小雪と朱鷺の世話をしてくれている女中のゆいはそう話してくれた。


 白千の方が座す小雪の目の前で、かすかに衣擦れの音がした。


「……噂に聞いていましたが、これほどまでとは思わなかったわ。当代一との呼び声、確かなもののようね」


 貴婦人の賛辞する声音はどこまでも柔らかく、優れた奏者の楽の音のように耳に心地よかった。


「お褒めに預かり、光栄の至りにございます」

「御次の者たちの演奏も良いけれど、貴女たちほど優れた演奏は聞いたことがないわ。我が子が国主となり、もう思い残すことはないと思っていたのだけど……どうしてかしら、もっと聞いていたい、まだ死ねないと思ったわ」

「白千の方様ほどの御方の、生きるよすがとなれるとは……この朱鷺、望外の喜びにございます」


 今度は朱鷺のほうから衣擦れの音がしたので、小雪は頭を垂れた。


「そちらの弟子殿……小雪といったかしら。貴女も見事な腕前だったわ。まだ無名なのが不思議なくらい。いずれは優れた琵琶師として、名を馳せることでしょう。先が楽しみね」

「もったいないお言葉でございます」

「さあさあ、二人とも顔を上げて。この暇な婆の話相手をしてちょうだいな」


 そう白千の方はころころと笑った。


 白千の方は、高貴な身分に見合った高い教養や気品を感じる女性だった。しかし、野土だからと師弟を見下すことはなく、まるで旧知の仲のような気安さがある。御上が宴席で見せた大らかさは、もしかすると母親譲りなのかもしれない。


「高貴な身分と言っても、元々は商家の娘だったのよ。実家では、野土のづちの芸人の楽をよく聞いたものだわ」


 話の合間、白千の方はそうあっさりと師弟に打ち明けた。

 彼女は和浪かずなみ藩の先々代藩主の時代、和浪藩主の居城である伏虎ふっこ城の一介の女中でしかなかった。が、ある日藩主に見初められ、子を生したため側室となったのだという。芝居のような話だが、そういう成り行きで将軍や藩主の側室になることはそう珍しくないのだと、白千の方は苦笑した。


 朱鷺以外の女性とこのように長く、気楽に話をしたのは随分と久しぶりだったからか、白千の方の語り口が優しかったからか。話が進むほどに小雪は楽しくなった。


 思えばここの女中たちとは、事務的なやりとりしかしていない。二人いるうちの若いほうは、小雪と朱鷺を野土の琵琶師と見下しているのがはっきりとわかる態度だったから、世間話をしようとはとても思えなかったのだ。そういった感情を一切見せない年嵩の結も、楽しく世間話ができるような空気の人物ではなかった。


 白千の方は、城の外の世界がどうなのかを知りたがった。昔と比べ旅は庶民にとって身近なものになっているものの、城に一室を与えられるような高貴な女性が城外を自由に歩くことはできない。せいぜい、連れだって流行りの芝居小屋へ足を運ぶ程度なのだという。旅人は城下や見知らぬ土地に思いを巡らせる、数少ないよすがであることは小雪にも容易に察せられた。


 白千の方に尋ねられるまま、これまでの旅で見聞きしていたことをとりとめもなく師弟で話していく。すると次第に話題は今の城内のことに移り、小雪はつい、何故和浪藩主であった御上が将軍になったのかと、尋ねてしまった。和浪の出身ではあるが、藩主が将軍になった経緯についてはよく知らないのだ。純粋に興味があった。


 芸人は政治に関わるものではないと考える朱鷺は、もちろん小雪をたしなめる。しかし白千の方は気にしたふうもなく、おっとりと微笑んだ。


「ええ、それはわたくしも驚いたわ。……聞いた話によると、幼く、病がちであらせられた先代が身罷られるかもしれないというとき、先代の生母であられる由里ゆりの方様が、和浪藩主を次代の将軍にと推挙してくださったそうよ。他にも候補者がおられたそうだけど、重臣方が議論した結果、和浪藩主にと決定されたのですって」

「しかしそれでは、名が挙がっていた他の方々は、さぞ落胆なさったでしょうね」

「……ええ」


 朱鷺の相づちに頷いた白千の方は、そこで初めて、柔和な面差しに憂いを乗せた。


「将軍家の血が絶えたときは、和浪、中津なかつ雪代ゆきしろの三家から相応しき方を宗家の養子とし、御上にお迎えするのがならい。当初は雪代から、先代の御上ともっとも血の近しい方をお迎えする予定だったそうなのだけど、由里の方様が和浪神戸家からと強く推薦なさったとか。でも和浪神戸かんべ家は、初代将軍の御子から始まる由緒正しき御家とはいえ、先代の御上からは血が遠く……」

「先君と血の近い、将軍を輩出すると信じていたかの御家はお怒りである、と」

「噂では、そのようになっているわ」


 白千の方は困ったような表情で話を締めくくった。


 小雪は疑問が解消されてすっきりしつつも、予想以上に話が大きくなり、やや及び腰になった。わざわざ和浪から御上が迎えられたのだから、何かしらの政治的な駆け引きがあったろうとは思っていたが、そんな事情であったとは。


 義忠は、明徳が無頼を働いても罰せられない理由として雪代神戸家との癒着を挙げていたが、その雪代神戸家にも御上と対立する理由があるのだ。雪代神戸家が明徳を庇っているのも、もしかすると御上に対する嫌がらせなのかもしれない。御上と周囲の間にある、想像するよりはるかに大きな溝を見つけ、小雪は驚くばかりだった。


「……あのように盛大に宴を開かれていたので、御上の御世は万事順調なのだとばかり思っていました」

「残念ながら、見かけだけなのよ。御上は改革を好まれる方。あの方の手腕によって幕府の財政などは潤いつつあるそうだけれど、一方で窮屈な思いをするようになった武士も多いと聞くわ。改革を望まない方々にとっては、目の上のたんこぶも同然なのよ」

「それはまた……気が休まるようなものをという御上の側近の方からの注文も、道理ですね」

「まあ、そういうことね」


 白千の方はくすくすと笑った。


「朱鷺、貴方は正直なのね。貴方と話していると、奥女中だった頃を思い出すわ」

「田舎上がりなものですから」


 けらりと朱鷺は笑う。彼女もいつになく饒舌であるような気がする。朱鷺も、白千の方との語らいを楽しんでいるのかもしれない。


 政治の話を早々と切り上げて、流行りの小袖の柄について語る。世代も身分も越えた女三人の語らいは、日が空を赤く染めようとするまで続いた。

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