第17話 儚い望み・一

 さいわいにして、それからは小雪こゆきだけが御上に呼ばれるようなことはなかった。白千しらちかたと御上に楽を献じることはあったが、それは朱鷺ときと揃ってのことだ。そのときも小雪は硬くなって、二人の問いかけに頷いたり首を振ったりしかできなかったから、畏まった会話すら成立させられなかった。


 母子に楽を献じた後の会話の中、小雪は幾度となく御上の視線を感じた。いつかの日と同じ、探るような視線はおそろしく、小雪は必死になってそれを無視した。そのために余計に御上の興味を惹くことになったとしても、口を開くことは小雪にはできなかった。


 それからさらに日々が過ぎたある夜半。小雪は三の丸に軒を連ねる義忠よしただの屋敷を辞し、白郷丸はくごうまるへの帰路に就いていた。彼が親しい者たちを招いて小さな宴を開くというので、師弟揃って呼ばれていたのだ。


 朱鷺が屋敷に泊まるというので弟子殿もどうかと勧められたが、小雪はそれを丁重に断った。以前ある武士の屋敷に泊まり、客人に襲われかけてからというもの、武家屋敷に泊まることには抵抗があるのだ。朱鷺が泊まるのは、そんなことを気にしていないからだろう。気に入った殿方がいたのかもしれない。


 屋敷を辞して随分歩いていると、小雪を先導する武士が振り返る音がした。


「白郷丸に着いたぞ。もう少しだ」

「そうですか。なら、ここで手を放してくださって結構です」

「……いいのか?」

「御心配なく。離れまでは、石畳と杖がありますから。感覚で歩けます。連れてきてくださって、ありがとうございました」


 小雪が一礼すると、武士はそうかと言って去っていった。見回りの者もいないのか、他には誰の足音もしない。

 武士の足音が聞こえなくなるまでその場に立ち尽くし、石畳を頼りに離れへ戻ろうとして、小雪は出入り口とは別のほうから足音を聞いてはっと息を飲んだ。不安と警戒心が小雪の心を覆う。


 小雪は人気のない暗闇の中で、おそるおそる音がするほうへ顔を向ける。当然のことながら、顔など判りはしない。三年経っても抜けない、帯で目を隠す以前の仕草だ。無意味だと理解していても、そうしてしまう。


 無視して離れの中に戻ったほうがいいのはわかっていたが、人がそこにいると気づいてしまった以上、誰もいなかったかのようにふるまうのは気が引けるし、無礼だ。せめて一礼くらいしてから戻るのが筋だろう。

 砂を踏む音がまたする。もはや隠しもしない人の気配に警戒心が強まり、小雪は琵琶を抱きかかえた。

 勇気を振り絞り、小雪は問いかけた。


「あの、どなたでしょう?」

「…………朱鷺」

「…………っ」


 名乗らず名を呼ぶ声を聞いた瞬間、小雪は凍てついた。誰何したことを心底後悔する。


 どうして。どうして貴方がここにいる。


 人の気配がすぐそばまで近づいてくる。しかし小雪はその場から動けなかった。


 御上――彼は、供の者さえ連れていないようだった。彼以外に気配はなく、足音もしない。場の周囲さえ静まり返っている。小雪は、まるで世界に自分たちしかいないかのような錯覚に陥った。

 琵琶を胸に抱きしめたまま、小雪は唇をわななかせた。


「どう、して……」

「眠れず、城内を歩いておったらいつの間にかここまで来てな。しばらく立ち尽くしていたら、そなたが帰ってきた。……そなたと話がしたかった。もう一度、その声を聞きたかった」

「……!」


 小雪は今更になって、自分が彼に対し声を発していたことに気づいた。はっと口元に手をやるが、もう遅い。

 小雪は後ずさりした。開いた距離だけ、彼は歩を進める。

 そして名を呼ぶ。


「小雪……いや、朱鷺。そなたは朱鷺であろう?」

「っ違います!」


 小雪は何も考えず、とっさにそう答えた。わけのわからない恐怖が、彼女の胸を支配していた。


「私は小雪です。朱鷺は師匠様の名です」

「そうだ。だがそなたも朱鷺だ。伏虎ふっこ土辺つちべに住んでいた、私が愛した朱鷺だ」

「っ…………!」


 小雪の否定に怯むことなく、彼は断定する。どれほど小雪が否定しようと揺らぐことはないとわかる、確信に満ちた声だ。

 小雪はもうこれ以上、己の素性を偽ることはできなくなってしまった。この人の前で真実を偽ることなど、小雪にはできない。

 立ちすくむ小雪を、彼は琵琶ごと抱きすくめた。


「……会いたかった」

「……!」


 心底そう望んでいたとわかる声の震えと全身を包むぬくもりは、小雪の心をも震わせた。あんなにきつく蓋をして心の水底に沈めていた記憶と感情が、いともたやすく浮かび上がり、箱から飛び出して小雪の心を満たす。

 喜びや悲しみがないまぜになって、涙が一筋頬を伝う。様々な感情が全身を支配し、身じろぐこともできない。


 何故、と小雪のあえぐような問いが唇から洩れた。からん、杖が石畳に落ちる音がした。


「何故、今更その名を呼ぶのです。貴方と逢瀬を重ねた娘は、三年前に死にました。私は野土のづちの琵琶師の、小雪です。なのに何故、私を朱鷺などと呼ぶのです……!」

「朱鷺……」


 優しい手が髪を撫でる。小雪はすすり泣いた。それしかできなかった。

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