第18話 儚い望み・二


「そなたが伏虎ふっこを追放されていたことを知ったのは、最後に会ってひと月も経ってからだ。皮剥ぎの娘が一人かどわされたらしいという噂を町で耳に挟み、気になってそなたに会おうとしても会えず、正成まさなりに調べさせたのだ。だが、そなたを見つけることはできず……」


「だから、師匠様を呼んだのですか? 同じ名の琵琶師だから……」

「いや、朱鷺ときという名の女人が琵琶の上手と聞いて関心を寄せたのは確かだが、私が彼女を招いたのは、若い娘を弟子として連れていると聞いたからだ。弟子の歳の頃はそなたと同じくらいだったし、所領で朱鷺を屋敷に招いたある者が、弟子は和浪かずなみ藩の出身らしいと言っていた。師には及ばずとも、なかなかの琵琶の技量であったとも。だから、その弟子こそがそなたかと思い……確かめたかった」


 御上はそう、野土のづちの琵琶師二人を招いた経緯を告白する。

 途端、潮騒と炎の音が耳によみがえり、小雪こゆきは唇を強く引き結んだ。


 町を歩いているときに突然現れた藩主の家臣に、家族に咎を与えないことを条件に伏虎を追放され、さすらううちに漁村の旅籠の火事に巻き込まれて両目の光を失い、絶望していた漁村の祭りの最中。出会った野土の女に望まれて数曲を弾いた小雪は、女に弟子にならないかと誘われた。あんたには才能があるし、保護者が要るだろうと。

 そのとき小雪はまだ、女があの天才琵琶師の朱鷺なのだと知らなかったが、辻で聞いた技量と音色に敬服していたから心底驚いた。まさかあれほどの弾き手が自分の才能を認め、盲目であることも受け入れて弟子にしてやると言うのだから。幻聴なのかとすら思った。


 あの優しい手を信じて弟子になって、慈しまれ守られて過ごした三年間。小雪は、初恋の君のことを忘れたことはなかった。別れの日が来ることは最初からわかっていたというのに、あんな形でだったからだろうか。どれほど毎日の充実感に満足していても、夜の静寂に身を浸すたび、楽しくも苦しかった逢瀬が思い出された。そのたびに胸が痛くて、捨てた名ごと忘れてしまえと己に言い聞かせるしかなかった。

 同じように、彼も小雪のことを忘れていなかったと言う。捜していたと。

 その言葉を、信じていいのだろうか。


「宴でそなたを見たとき、私は、そなたがあの朱鷺だとわからなかった。だがもしかしたらと思った。だからそなたたちを留め置いたのだ。そなたが伏虎の、土辺つちべの朱鷺だと確かめたかった。……足がこちらを向いたのは、気まぐれだけでは決してない……」


 抱きしめる腕の力が強くなる。締めつけられる苦しさと同じほどの喜びが、小雪の胸にじわりと広がった。

 一目で昔馴染みだと気づいてもらえなかった寂しさはある。だがそれを小雪が咎める資格はないし、どうでもいい。予期しなかったこの逢瀬に酔っていたいという気持ちが、何より胸を満たしていた。


「朱鷺、何故そのように常に目を隠すのだ。そなたの目は、病に罹っていなかったはずだ。私を欺くためか」

「…………」

「……まさか…………」


 何と言っていいかわからず、小雪が口をつぐんだからだろう。彼の声がかすれた。


「まさか、本当に見えなくなったのか……?」

「っやめ……!」


 声の震えが感染したかのように、小雪の肩も震えた。それを肯定と受け取った彼は、そんなまさか、と繰り返す。


 耳元で衣ずれの音がするや否や、止める間もなく、荒々しく帯が取り外された。


 二度と景色を映すことのない瞼にかすかに光を感じ、小雪は彼の腕の中で丸くなろうとする。この顔が醜いことは、周囲の反応で承知しているのだ。醜い己を想い人にさらしたくなかった。

 光を失った小雪の眼を見てか、彼の声に悲痛なものがまじった。


「何故……そなたは伏虎を追放されただけではなかったのか……!」

「追放されただけです。この両目が見えなくなったことは、事故なのです。誰のせいでもありません」


 そう、この目が焼け爛れているのは事故のせいなのだ。藩主が土垢つちあかの娘に夢中であるのを憂い、城下に姿がないならいずれ諦めるだろうと考え、小雪を伏虎から追放した和浪藩の家臣たちの仕業では決してない。彼が己を責める必要はないのだ。

 だが、と口を開く御上に、小雪は首を振った。


「貴方が心を痛める必要はありません。貴方がこうして今も、私の身を案じてくださる……私はそれだけで充分です」

「朱鷺…………」


 それは本心であり、強がりだった。

 ずっと閉じ込めていた自分が心の中で泣いているのを、小雪はひしひしと感じていた。触れたい、そばにいたい、愛されたい。三年もの間小雪という檻に閉じ込められていた、廃された社の中で叶わぬ恋に泣いていた土垢の娘は、ようやく再会した想い人に縋りたいと全身で叫んでいた。


「……朱鷺」


 熱を帯びた、低く甘い声で本当の名を呼ばれ、小雪の肌がぞくりと粟立った。同時に、彼が何か言おうとしていることを悟り、顔を上げる。あの頃に立ち返ったような錯覚にとらわれた。


「そばにいてくれ…………また、名を呼んでくれ」

「……………………それは、琵琶師としてですか、妾としてですか」

「違う、私の正室としてだ」

「……!」


 告げ、小雪は息を呑んだ。頭の中が真っ白になり、芯が熱を帯びてじんと痺れる。

 そんなの、と唇が知らず否定を形作る。


「そんなの無理です。私は人別改帳から名を抹消された、野土の琵琶師。白千しらちかた様とはわけが違います。ましてや盲目の身、和浪藩主の妾でさえ畏れ多いのに、将軍の正室になんてなれるはずが」

「なれる。ならせてみせる」

「駄目です! そんなことをすれば、貴方の名が貶められます!」


 驚愕と恐怖から目を見開き、小雪は叫んだ。


「私には政治などわかりませんが、平民ですらない女を正室とする御上に、幕臣の方々が従うとは思えません。従ったとしても、やはり支障がありましょう。あるいは、貴方の名を貶めるやもしれません。ただでさえ貴方の理想は実現が難しく、その上雪代ゆきしろ神戸かんべ家と確執があるというのに。それでは貴方が思う世を描けない!」

「……!」

「これから世の中を変えてくださるのでしょう? かつて貴方は、民がその身分や職業によって貶められることのない世を作りたいと仰った。その御言葉は嘘なのですか」

「朱鷺、私は」

「私如き、捨て置かれませ。私が貴方のそばにいては、貴方が従えるべき方々の反発を強めるだけ。貴方が歩む道に、私は必要ないのです」


 かき口説く小雪の言葉は、募るほどに熱と震えを帯びていく。目頭も喉も熱く、痛い。いつの間にか感覚がふわふわとして、全身を包む肌触りさえ遠く感じられた。


 淡雪のように消えた幸福の代わりにこの胸に広がっているのは、怯えにも似た感情だ。全身を包む、そして肌ではない別の何かで感じる熱がおそろしい。

 彼から離れなければならないと、小雪の理性は叫んでいる。一緒にいれば、彼も自分も駄目になってしまう。そう確信した。

 激しさを増す小雪の声音とは反対に、彼が放つ熱と空気は静かに凪いでいった。痛みや悲しみや、怒りによって。代わりに、小雪を抱く腕の力が強くなる。


「…………そなたは、私にまた、そなたを失えと言うのか…………?」

「……っ」

「再び会えたというのに……次などないかもしれないのに………………!」


 絞り出すような声で御上は縋る。

 だが、小雪の答えは決まっているのだ。今この場で小雪が言えるのは、一つしかない。


「………………お放しくださいませ」

「朱鷺」

「御上、人に見られます」


 突き刺されるような胸の痛みを無視し、小雪は繰り返し拒絶した。拒絶しなければならなかった。


 彼がどんな顔をしているのかはわからない。だが傷ついた表情をしているはずだ。遠いあの日、『若様』ではない、名を呼んでくれと拗ねた人なのだ。

 御上と呼べば、傷つけるとわかっていた。だからそう呼んだ。そのくらいしか彼から離れる方法を、小雪は思いつかなかった。


「……そなたはもう、私の名を呼んでくれないのか…………?」


 暗く沈んだ声に、小雪の胸が鈍く痛む。

 けれど謝ることはできなかった。望んで傷つけたのだ。許しを乞うことはできない。


「御上、どうかお放しくださいませ」


 背に回されていた腕の力が緩んだのを逃さず、小雪は御上から離れた。


「……風が冷たくなってまいりました。あまり長くおられては、風邪を召されましょう。早くお戻りになりますよう……」


 かすれた声でどうにか言って、失礼します、と顔を伏せたまま小雪は走り出した。壁伝いに離れへ駆け込むと、結の問う声も無視してあてがわれた部屋へと逃げ、転ぶようにして床に膝をつく。


「……っ……っ」


 堪えきれず、嗚咽が漏れた。身体を震わせ、傷つけてしまった人を想って小雪は慟哭する。


「ごめんなさいっ…………!」


 胸が痛くて苦しくて、小雪の唇から悲痛な叫びがついて出る。いつかの日の寂れた社が、さらに遠くなっていくような気がした。

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