第五章 願

第19話 音色ににじむ・一

 滞在先である白郷丸はくごうまるへの帰路に就いていた朱鷺ときは、近づくにつれはっきりと聞こえてくる琵琶の音色に眉をひそめた。


 痛々しい、と表現していい音だ。胸を締めつけられるどころではなく、切りつけられるとか、涙を絞りとられるとかいった心地がする。聞いているのがつらくなる音色だ。そうたとえば、『隆康』の夜半の笛や最後の場面に相応しい音色。


 これでは朱鷺でなくても、一体何があったのかと言いたくなるだろう。女中たちも迷惑しているに違いない。


 小雪こゆきの楽の音は、良くも悪くも技量以上に感情が物を言う。そのときの感情一つで、出来がどんなふうにも変化するのだ。素人のように雑になったかと思えば、朱鷺をも唸らせる深みを帯びることもある。気まぐれで掴みどころがない。


 場や聴衆、曲の性質に合わせて音色や動かす感情を変えるのが一流の楽人、というのが朱鷺の持論である。聴衆の感情を動かす作品としてはかなりの出来栄えだが、曲想に反し、感情を負の方向へ向かわせるこの音色は、朱鷺の持論からすれば問題としか言いようがない。


 聴衆の感情や天地を否が応でも動かす、この力ある音色をもっと自在に操ることができるようになれば、あの弟子は今以上に人々の称賛を浴び、より朱鷺の助けにもなるだろうに。弟子の技量を高く買っている朱鷺は、弟子が己の感情に振り回されやすく、そのために才能を開花させられないでいることを残念に思っていた。


 内心でため息をついた朱鷺は、わざと荒々しく扉を開けた。ほどなくして、身の回りの世話をしてくれている年嵩の女中のゆいが現れる。もう一人は現れもしない。


「おかえりなさいませ」

「ただいま結さん。うちの弟子が迷惑かけてるみたいだね」


 朱鷺が苦笑しつつ弟子に代わって謝ると、結は能面めいた顔で深く息をついた。表情には出さずとも、内心ではやはり迷惑であるらしい。


「……今朝からずっとああなのですよ。心ここにあらずといった様子で。いつもは真冬の空気のように澄んだ音色ですのに、聞いているだけでつらくなってくる音色で……」

「ほんとにねえ。……昨夜、何かあったのかい」

「いえ、わたくしもきよも存じません。小雪様にもお聞きしたのですが、何も答えてくださらず……ただ」

「?」

「……昨夜、玄関前で誰かと話し込んでいらっしゃるような声を聞きました。そして、部屋にお戻りになってから、声を殺して泣いていらっしゃって……室内へは入らなかったので、声しか聞いておりませんが」

「…………」


 それだけではなく、朝に玄関先へ出てみると小雪の目を覆う帯と杖が落ちていたとも、結は報告してくれる。報告を聞いて朱鷺は眉間にしわを寄せ、腕を組んだ。


 わけあって故郷を離れて野土のづちとなり、さすらううちに辿り着いた漁村の旅籠で起きた火事によって失明した小雪は、めったなことでは目を覆う帯を外さない。両目を潰すようにひどい傷があるからだ。元々の目鼻立ちが端整であるだけに傷痕はいっそう醜く見え、見た者の多くはそれに目をひそめ、哀れむ。帯は、彼らの無遠慮な視線や言葉を苦痛に感じる小雪の、いわば甲冑だった。周囲の安全を確かめる杖は、言うまでもない。


 そんな小雪が帯を自ら玄関先で外し、杖を落とすはずがないのだ。玄関前で出くわした誰かに無理やり外され、逃げる際に杖を落としたとしか考えられない。涙とこの音色の理由も、その者が原因なのだろう。


 義忠よしただの屋敷に泊まらせたほうがよかっただろうか。だが彼の屋敷とて、安全とは言いきれなかったのだ。宴に呼ばれていた武士数人が小雪に好色な目を向けていたし、その中の一人は小雪を部屋へ連れ込もうとしていたのだから。小雪は自力で危機を凌いではいたが、ああいう手合いはしつこい場合がある。小雪の安全を確保するためには、彼女を帰すのが最善の方法だった。


 自分は別にいいのだ。権力や財力、人脈を利用する対価として体を差し出すのだと納得している。だがそれを小雪に強要するつもりはない。故郷と両目を失ってなお荒むことのないあの心には、朱鷺が拾った頃から人が住んでいるのである。清い娘を穢して喜ぶほど、落ちぶれてはいない。

 朱鷺は頷いた。


「わかった。あたしが事情を訊いてなんとかする。教えてくれて助かったよ」

「そうですか。では茶を用意します」


 結はほっとしたふうに息をついて一礼し、下がる。それを横目に、朱鷺は音の源へ向かった。

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