終章
第35話 萌芽
牢屋敷への御上の乱入と老中の捕縛という異例の事態の連続から、早二十日余り。
事件の詳細を話してくれたのは、
老中の
が、一体いかなる耳目を用いてか、あるいは悪党の嗅覚によってか。
その後は簡単だ。
万が一、雪代神戸家が和信に疑いを抱いたとしても、増長が過ぎる明徳の所業に眉をひそめていたところなのである。それに和信も明徳ほどではないにしろ、雪代神戸家と縁がある。疑ってもそれを外部へ告げることはあるまいと、和信は確信していた。
かくして、脅迫者を殺し、法制大改革に傷をつけるという一石二鳥の策が実行されたのである。
そうした悪党のたくらみを、御上は小雪の捕縛直後にはすでに把握していた。和信の主義主張はよく知っているし、抜け荷についても小耳に挟んで証拠集めをしている最中だったのだ。明徳が和信の弱みを握っているらしいことも掴んでいた。明徳を誰が殺したのか推測するのは容易かった。
小雪の簪がなくなっていることから正成が
「でも、大丈夫なのですか? あんなにたくさんの、それも御武家様の前で通力を使ったりして……」
事件の経緯を聞き、小雪は不安になった。片棒を担いでおいて今更なのだが、今までも何度か通力を使ったことはあるが、役人や大勢の人の目につかないところに限っていたのだ。追放された師がこうも派手に通力を使っては、噂を聞いた
それに対し、大丈夫だよと朱鷺は笑ってみせた。正成から返してもらったという赤いびいどろが揺れる簪を、結い上げたばかりの小雪の髪に挿す。
「別に、力を人前で見せるななんて言われてないからね。隠神の巫覡が力を使えることは、天下に知られたことだし。それに、死人の霊を少し時間だけ降ろす程度のことで目くじらを立てるほど、お偉方も暇じゃないだろうさ」
「そうなのですか……」
それならいいのだが。小雪は少しだけ安堵した。
朱鷺は頬を緩めた。
「正成様たちも、あんたを助けようと色々頑張ってくれてたみたいなんだけどね。でも、あんたの無実を証明するには少しばかり証拠が足りなかったらしくてね。だから、あたしも一肌脱ごうと思ったんだよ。あたしたちの手で黒幕を引きずり出せるなら、やりたかったし。…………本当に、あんたが無事でよかったよ」
朱鷺はそう優しく答え、小雪をそっと抱きしめてくれる。だから小雪はそれ以上何も言えなくなって、彼女のぬくもりを甘受するばかりだった。
朱鷺だけでなく、小雪の見舞いにと訪れた義忠も、後日談を教えてくれた。非番の月になったため町奉行としての激務は随分と減り、暇を見つけることができるようになっているのだという。
清と同様偽証した雪代神戸家の元女中は、結納を済ませた直後のところを捕縛され、こちらへ護送されたのだという。普通、犯罪者に管轄地域の外へ逃げられると奉行所は手を出せないのだが、評定所管轄の事件なのでそういう限界はないのだ。借金の返済と婚儀に必要な資金の調達のため犯罪に手を染めたというのに、それによって婚儀を水泡に帰してしまったのだから、皮肉な話である。
小雪と同じ牢にいた
法制改革の作業にも、大きな変化があったという。これまで身分による刑罰の不平等について中立の意見を保っていた者たちの中から、この事件を受けてか、刑罰だけでも身分を問わず平等にすべき、いやむしろ民の模範となるべき武家だからこそ重くすべきという意見に同調する者が現れるようになったのだそうだ。家と武士の恥さらしに重罰を、と和信の兄から弟の断罪を望む文が審議を担当する奉行のもとへ届けられていることも、平等な刑罰の推進に一役買っているらしい。この流れを逃がすつもりはないと、義忠は小雪に力強く語ってくれた。
「人の心は気儘だ。今はあの事件によって平民、それに武家自身が自分たちの堕落に対して厳しい視線を向けているが、いつまでもそのようであるとは思いがたい。今のうちに議論し法制化してしまわないと、勢いを取り戻した反対派が再びやかましくなるのは間違いない」
火事場泥棒のようだけどねと、白千の方から小雪へ見舞いにと贈られた、城下の名店赤城屋のあんこ餅に爪楊枝を挿して義忠は言ったものだ。やはり美味いとほころぶ顔は、火白の行政を担い、悪事を裁く役職であるようには見えない。それがおかしくて、小雪はくすくすと笑った。
彼のような人が法の改定に携わるなら、そしてあの清廉な人が道を示すなら、きっと改革は成功するだろう。最初は軋みながらでも、少しずつ上手く動いていって。いつかこんなふうに、武家も野土も、もしかしたら土垢も関係なく笑いあえることが当たり前になるのだろう。
そうなったらいいと、小雪は空を見上げて思った。
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