第34話 終焉の調べ・二
それは終焉を肌に感じ、強い願いを胸に抱いているからか。野辺送りを題材にした調べは、これまで小雪が奏でていたものとは比較にならない情感を音色に編み込んだ。奏者たる小雪自身でさえ、自らが紡ぐ音の色を不思議に思った。
外の雨音や己の吐息、人々の張りつめた気配を共連れに、二人の琵琶師がどこまでも続く死者の葬列を描いていくほど、空気そのものがどんどん冷たく凝り、異質なものへ変化していく。特にそれは、小雪の前方で顕著だった。小雪と朱鷺が紡ぐ旋律に引き寄せられ、ぞっとする気配が一点に集っていく。
これこそが
ゆえあって霊力の大半を封じられ、故郷から放逐された現在、朱鷺はかつてなら当たり前に使うことができていた、神秘の技を自由に使うことができないのだという。だが、小雪が演奏している間のみその封印は緩み、かつて起こしていた奇跡を起こすことができる。どうやら小雪には、力を緩ませたり強化したりする不思議な力があるらしい。この師弟にとって演奏とは生きる糧であると同時に、霊力を合わせて奇跡を起こすために必要な過程なのだった。
小雪の両目がふと、熱と痛みを孕んだ。それに小雪が耐えていると、闇に閉ざされていた視界が突然、光に包まれた。眼帯を貫く眩しさのあまりに、小雪はきつく目を閉じる。開けては閉じることを繰り返し、光に目を慣らしていく。
そうして、小雪が失くしていた世界はよみがえった。
青と白の襖、板張りの床、記憶に焼きついている師や御上の顔。御上の傍らに膝をつく、御上と同じか少し年上だろう男は
多くの者にとっては当然の、小雪にとっては久しぶりの、色と表情を持った世界。これもまた、小雪の異能によって増幅された、朱鷺の通力の残滓が成せる奇跡の一つなのだ。小雪は撥を繰りながら理解した。
小雪の眼前に広がった色鮮やかな世界の中央、人々の視線を集める場所で、もやが縦長に延び、淡く明滅しながら人間の姿になっていくのが、朱鷺の通力の奇跡を宿した小雪の目に映った。人々の顔に驚愕と恐怖が生まれ、場はざわついている。
小雪の繊細な音を絡ませた朱鷺の力強い琵琶の音が天地と人々の心を震わせ、長く鳴き、消えた。
全身から力を何かに吸い取られたような疲労感に襲われ、小雪は倒れずにいるのがせいいっぱいだった。小雪だけでなく、今や誰一人として口を開かない。朱鷺の荒い息遣いだけが聞こえていた。
そんな中、動揺と畏怖を押し殺した声音で御上がそれに尋ねた。
「……さて、
「……」
それ――――明徳は無言で首を振った。その青白い横顔は淡々としていて、小雪を蔑んでいた生前の姿とは似ても似つかない。
「では、いつ飲んだ酒のせいだ。宴の後、誰かと杯を交わしたのか? あるいは、酒を送られでもしたか?」
今度は首肯した。御上は矢継ぎ早に質問する。
「それは誰だ?
「……」
明徳はかっと見開くや、これにも首肯した。さらに場を見回し、久治を指し示した。こいつも一味だ、と強調するように、殊更感情的な様子である。死んで感情が削げ落ちた様子の霊魂であっても、己を殺した者とその手下を目にすれば、やはり無念が魂を憎悪で満たすのだろうか。
明徳の怨念を感じさせる面への恐怖のみならず、彼が示した人物の名に、ただでさえざわめいた場が一層驚きと混乱に包まれる。
そんな中、がたり、と音がした。足に感じた衝撃からすると、誰かが立ち上がったのだろう。
「なっ……そんな、御上、私は無実です! 亡霊の戯言などっ……」
久治は御上にそう、己は無実を訴えようとした。途端、明徳は久治を睨みつけ、怒りをあらわにする。久治を黙らせたその形相の、なんとおそろしいことか。小雪は心の臓を誰かに鷲掴みされたような心地になった。場の空気が、真冬の早朝のように凍りつく。
「……生きては多くの悪を成し、人を嘲り続け……死しては己を殺した者らを暴くとは……因果応報ではあるが、かの者らしい……」
苦笑交じりのような、複雑な感情を混ぜた声音で御上は呟いた。
「もうよい。……彼岸へ逝かせてやってくれ」
「御意」
了解するや、朱鷺はぱんと拍手を打った。
「懸けまくもかしこき……」
普段の朱鷺とは少し違う色の、力強い声が呪文を読み上げていく。長く、抑揚があって、唄のようにも聞こえる。いや、唄なのだ。霊魂にこびりついた俗世の罪穢れを清め、これから向かうべき道を指し示す導の唄。
空虚な眼差しで漫然と前方を見ていた明徳の霊が完全に消滅し、朱鷺は呪文を終える。部屋に満ちていた異様な空気も失せて、雨天で冷えた風が身体を震わせた。
同時に、ふっと誰かが行燈の火を吹き消したかのように、小雪の視界から景色が唐突に失せる。隠神の元巫女の奇跡は終わったのだ。明徳の霊が成仏したのだから、小雪が盲目の娘に戻るのも当然のことだった。
夢と現の狭間のようなひとときを体験し、誰もが言葉を発せずにいた。当たり前だ。小雪も先ほどまでの出来事を――――この盲いた目に明徳の姿だけが見えていたという現実を認識するのにせいいっぱいで、何かを言うため思考することはできず、また振り絞る気力もない。呆然としているしかなかった。
しかし、御上だけは違っていた。
「……民と国を守り、法に基づき人々を公正に裁く責務を忘れ、抜け荷によって私腹を肥やす者を諌めぬばかりか己もそれに加わり、挙句、何の罪もない者に己の罪を着せて殺そうとしたその所業。まったくもって救いがたく、許しがたい」
歌うように罪状を連ね責め立てる声音もまとう空気も、凛として気品にあふれ、同時に近寄りがたいまでの冷たさと威厳を放っていた。力強く、わずかも荒げていないのに口を挟むことを許さない迫力が肌を打つ。
「証言と証拠が偽りであり、また他に疑わしい者がいると判明した。このような場合、裁きはどうするべきか」
「は。これまでの審理をすべて白紙とし、改めて捜査をすべきと存じます」
「ならば、そのようにせよ。また、両名の取り調べについては抜け荷と老中毒殺の件、双方について徹底的に追及せよ。それぞれの証拠については、我が側近の正成に尋ねるとよい。――――くれぐれも、先入観を持たず、公正な裁きを下すように」
「ははっ」
義忠が声を張り上げると、一様にざざ、と音がする。一同がその場に平伏したのだ。
そして久治は義忠の命により、兵らに連行されていく。両脇を固める兵から逃れ御上の慈悲を乞おうと抵抗している音声が聞こえてくるが、その声もむなしく遠ざかる。
それを見届けてか、御上も部屋を後にする。床を踏む足音は一定で乱れがない。振り返ってはくれないのだと、小雪は理解した。
それが、小雪が望んだものであり、彼が背負う荷の重さであり、二人の距離だった。
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