第4話 予感・一
それから
そして、六日目の昼。
「そりゃ俺でも言うよ」
店先にある座敷で話を聞いた源内は、呆れ顔で湯呑みを卓に置いた。
先ほど小雪は、朱鷺が外出している間に両替してしまおうと、源内から借り受けた丁稚に荷車を押してもらって、稼いだ小銭を両替屋に持ち込んだ。しかし両替商は、いくつもの籠にぎっしりと詰まった銭を見るなり険しい声音で、『随分大量ですねえ。一体どうしたらこんなに稼げるのやら』と、小雪を疑ってかかってきたのである。裕福とは思えない身なりの盲目の小娘が下男を連れ、多量の銭を小判に変えようというのだから不審に思ったのだろう。近頃巷で噂になっている琵琶師の弟子だとわかったからよかったものの、危うく断られるところだった。
小雪は眉を下げる。
「でも、
「そりゃあ、どんな金だろうと金は金って躾が行き届いてたんだろ。まあ何にせよ、小暮の若旦那んとこに行かなくて正解だな。あそこは前に、朱鷺に小判と銭を大量に両替されるもんだからついに婆さんがぶち切れて、店から追ん出したって話だからな。あいつの弟子だってばれたら、叩き出されてただろうぜ」
それはそうだろう。あの量の両替が連日続いたら、小雪でもうんざりする。
しかし小雪と朱鷺は、銭を大量に持っていても仕方ないのだ。家を持つ身ならともかく、町や村を渡り歩く漂泊の身なのである。身軽であるほうがいいに決まっている。だから火白への道中も、できるだけ銭を持たないようにしていたのだ。
ともかく、両替できてよかった。大金を手にしていることには変わりないが、桁違いに軽い。銀貨も銭も少々残してあるから、支払いに困ることもない。
源内への師のつけは完済できた。朱鷺もこれを機に、店に代金を長期間つけたままでいることを控えてほしいものである。
くつくつと源内は喉を鳴らし、煙管に火をつけた。
「しかし、お前さんも両替屋に胡散臭く思われたか。変なとこも師匠に似るもんだな」
「私、夜中に町を出歩く趣味はありませんけど……」
「それはいいことさ。いくら治安がいいとはいえ、夜道は危険だからな。朱鷺みたいに馬鹿強いならともかく、お前さんは歩かないほうがいい。少なくても、
「……?」
「赤皮橋の向こう側は、
煙管をふかしながらの補足に、小雪はああと納得した。確かにそれは、近づかないほうがいいかもしれない。
さらに、これらの身分に属しながら何らかの理由で居住地から一定期間逃亡した者は、社会から逸脱したとして人別改帳から名を抹消され、戸籍を剥奪されて
土垢は野土と同じ『土』の名がついているものの、その実状はまるで違う。土垢は古にそう呼ばれた者たちの子孫だけでなく、垢付けと呼ばれる刑罰を受けた重罪人や年貢を納められない農民、野土狩りによって捕らえられた野土もこの烙印を押される。そして幕府や神社、藩主などその地の権力者の管理下で、死者の埋葬や町の清掃、牢番、一揆の鎮圧といった、人々がしたがらない仕事に従事させられるのだ。農業や芸能、日用品の製作など平民と同種の生業を営む者も多いが、埋葬や一揆の鎮圧などに従事させられるのは土垢だけである。身分制度の底辺にあり、蔑まれているのは、こうした不浄の仕事を負わされているためでもあった。
野土とは根本から違う土垢だが、生業やその人の才能によって豪商のように豊かな暮らしをする者がいないわけではない。特に皮革産業は、土垢に独占権が与えられているため財産を築きやすく、雇った他の土垢に生産を任せて自分は帳簿と向き合うだけということも可能だ。こうしたことも土垢が武士や平民の軽蔑、憎悪といった感情を受ける一因となっている。
そんな扱いを受けてきたため、土垢も他の身分の者たちに対して強い警戒心を抱いており、排除しようとする傾向が強い。源内が小雪を注意したのも、そういうくだらない騒動に巻き込まれないようにとの心遣いからだろう。
小雪はご忠告痛み入ります、と肩をそびやかした。
「ご心配なさらずとも、私はあまり外に出ませんし、そちらへ伺う用もありませんから。双方から襲われることはないと思います」
「まあそりゃそうだがな。でも今回みてえに、外に出ることもあるだろ」
「なあに話し込んでるんだいあんたたち」
少し呆れたふうの、聞き慣れた艶やかな声が耳を打った。小雪はそちらのほうへ顔を向ける。
同じ方向から、小雪の知らない若い男の声がかかる。
「それで、これはどちらに置きやしょうか」
「ああ、二階の右側の一番奥の部屋に置いとくれ」
朱鷺が指示すると、若い男がへいと威勢の良い返事をした。何かを運んでいく足音がする。
「おい。お前、何を買ったんだ」
「晴れの衣装に決まってるじゃないか。つけは全部払ったんだから、そんなに睨まないでくれないかい。――それより小雪、両替はできたかい」
「はい。師匠様のお部屋に置いてあります」
答えると、朱鷺は自分の部屋に下がる。しばらくして、座敷に戻ってきた。
「で? あんたは人の弟子に何を教えてたんだい?」
「弟子の心配をしねえ師匠に代わって、危ねえとこを教えてやってただけだよ」
源内は鼻を鳴らして答えた。
「ったく、騒動が起きそうなところくらい、教えてやれや。外へ出たとき、あぶねえだろうが」
「そういうとこへ一人で行くような子じゃないから、教える必要はないだろ。ここにゃそう長くいるつもりもないしね。――さて小雪、行こうかい」
「? 私もですか?」
小雪が目を瞬かせると、当然じゃないかと朱鷺は言った。
「決まってるじゃないさ。あんたがいないと始まらないんだよ」
「え、あのっ師匠様?」
小雪が状況を掴めずにいると、朱鷺はつかつかと小雪に近寄り腕を掴んだ。階段を下りてきた男たちに礼を述べ、くるりと踵を返して店の外に出ていく。小雪は半ば引きずられるようにして、朱鷺の後に続くしかない。
大通りを歩いていると、鼻の奥がつんとするようなすうっとするような、奇妙な臭気を孕んだ風がふわりと吹き抜けた。嗅ぎ慣れた臭いが小雪の鼻腔にふわりと広がり、消える。
「早く行きましょ。着物に臭いが移っちゃう」
「今日もくせえ……」
「まともな仕事をしておればいいものを……」
鼻や目につんとくる臭いを嗅いで顔をしかめる者たちの会話が、小雪にも聞こえてくる。声音にひそむ嫌悪に、小雪は肩を震わせた。
これが、皮剥ぎを営む土垢が忌まれる理由の一つだ。剥いだ皮から毛を取り除き、柔軟性や耐久性をつけるため皮を薬品に浸すなめしの作業は、悪臭を周囲にまき散らす。それを防ぐため、皮剥ぎが住む住居区は風向きも計算された上で置かれることが多いのだが、それでも風は天の仕業なのだ。町へ臭いが届くことはある。――――――――だから皮剥ぎに従事する者は、その職務だけではなく、悪臭の源だからという理由でも毛嫌いされ、町を歩くときは身分を知られないようにしなければならないのだ。まるで罪人でもあるかのように、ひっそりと。
火白での皮剥ぎの居住区は、川の向こうだと源内は言っていた。今はそちらのほうから風が吹いてきたから、薬品の臭いがここまで運ばれてきたのだろう。それは天の仕業なのだから仕方ないことなのに、と小雪は思わずにいられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます