第3話 懐古

 源内げんないが用意してくれた浴衣をまとい、廊下を歩いていた小雪こゆきは、窓から聞こえてくるざわめきにふと足を止めた。


 日はとうに沈んで冷たい夜風が吹く時間になっているが、通りの賑わいは一向に収まる気配もなく、旅籠にその熱気が届いてきている。秋祭りが終わったことなど、この界隈には関係ないといったふうだ。この旅籠が建ち並ぶ通りの近くには、色街もあるらしい。道理でこの時間になっても賑やかなわけである。


 部屋の前に立ち、襖越しに声をかけたが、師の応えはなかった。寝息が聞こえないので、寝ているわけでもなさそうだ。町へ行ったのだろうか。


「ん? どうした小雪ちゃん」


 どうしようかと立ち往生していると、源内が奥のほうから出てきた。


「源内さん。何かご用でしょうか」

「ああ、膳を下げにな。奉公人が少ないんで、店主の俺まで働かにゃならん。そっちはどうした」

「師匠様を探していて……どちらにおられるか、ご存知でしょうか」

「あの馬鹿なら、外に行っちまったぜ。あいつに何か用だったのか?」

「琵琶のことで尋ねたいことがあったのですが……」


 と、小雪は眉を下げる。なんだ、と源内は鼻を鳴らした。


「弟子に稽古つけず、遊びに出かけたのかよあの馬鹿。師匠だろうに」

「いつものことですから……」


 小雪は曖昧に微笑んで緩く首を振る。師が夜の町へ繰り出したきり何日も帰ってこなかったことは、今までも何度かあった。今更だ。

 源内ははあと息をついた。


「まあ金を払ってくれるなら、何日でもいてくれていいんだがな。あいつが金持ってるんだろ? そこが心配だよ」

「いえ、もし代金が足らなくなったときは私が支払いますから、御心配要りません。時間はかかると思いますけれど、不足の分は稼ぎます」

「ああ、あんた一応、あいつの弟子だからなあ。師匠に似ていい弾き手だって、さっき通りで演奏を聞いてた奴が言ってたよ」

「そんな、私はまだまだです。師匠様と比べれば……」


 朱鷺ときと比べられ褒められるのが気恥ずかしくて、小雪はそう眉を下げた。

 小雪があの自由な女人を師と仰いでいるのは、庇護者を求めてのことではない。故郷を離れて流れ着いた漁村で聞いた彼女の琵琶に、心底感動したからだ。それなりに裕福な家に生まれ、幼い頃から琵琶を学んでいた小雪であるが、いやそうだからこそ、自分と比べものにならない技量と音色に圧倒された。彼女に向ける小雪の敬意は、三年経った今も揺らいでいない。

 源内は小雪の頭を軽く撫でた。


「弾きたいなら、弾いたらいいぞ。色町のほうはまだ賑やかだし、外見ながら弾くのも乙だろ」

「よろしいのですか」

「構わねえよ。他の客はいねえし、お偉方の行列があるわけでもねえし。当代一の琵琶師の弟子がちょっと稽古するくらい、どうってことないさ」


 そうからからと源内は笑うと、ところで、と話題を変えた。


「お前ら、なんでこんなときに都へ来たんだ? 祭りはもう終わっちまったぞ?」

「師匠様が行きたがったのです。祭りが終わってからのほうが、あちこちを見て回りやすいからと」

「なるほど、確かに祭りの前後はえらい人出だからなあ……しかしそれならこんなしけた宿じゃなくて、どこぞの武家屋敷にでも行きゃあいいものを」

「師匠様は、自由がお好きですから」


 小雪はそう、曖昧に笑った。

 当代随一の琵琶師と名高い朱鷺を屋敷へ招きたがる者は多い。だがそうしたところでは、琵琶だけでなく彼女の体をも目当てにしていることも少なくないので、気が抜けないのだ。盲目とはいえ年頃の娘である小雪も、そういう対象にされる。それに朱鷺は人々の息遣いが感じられ、自由に振る舞える市井での演奏を楽しんでいるのだ。だから、いわゆるやんごとなき方々や豪商からの招きは、金に困っていたり何か面白いものを持っていたり、断るのが面倒だったりしたときしか応じないのだった。


「そうか。でも昼間に派手にやっちまったからなあ。明日にゃお偉方の使者がわんさとくるだろうさ」

「はい。ですから、もしかしたら急に引き払うこともあるかもしれません」

「気にすんな。あいつはいつもそんなんだから、慣れてるさ」


 嫌なことにな、と苦虫を噛み潰したような声で源内は言う。仲が良いんだなあ、と小雪は呑気に思った。


 部屋へ送ろうかという源内の親切を丁寧に断ると、小雪はあてがわれた部屋へ戻った。ひやりとした空気が入ってくる窓辺に腰を下ろし、壁に立てかけていた琵琶を手にした小雪は、稽古をするわけではなく、思いつくままに撥を繰り出した。

 神庭でもっとも栄える火白へ行こうと言い出したのは、朱鷺だった。今まで二人が巡っていたのは神庭の西から南にかけてが中心で、東へは行ったことがなかったからだ。神庭かんば中央部よりやや南に位置する和浪かずなみ藩で生まれ育った小雪は、東部に置かれた都を訪れたことがない。それを知った師が、なら行こうじゃないかと、意気揚々と小雪の手を引いたわけである。


 とりとめもない物思いに沈みながら、手遊びに琵琶を奏でてどれほど時が過ぎただろうか。ふと我に返った小雪は、部屋の外が静かになっていることに気づいた。外の賑わいに合わせるように、旅籠の他の客も宴会か何かをしていた様子だったのに。何時なのかはわからないが、もういい時間なのだろう。さすがにまずいだろうと、小雪は琵琶を仕舞った。


 師の帰還を願いつつ寝る支度を整え、小雪が床に入ろうとすると、廊下から部屋へ近づいてくる足音がした。師が帰ってきたのだろうか。

 しかしその疑問を小雪はすぐに打ち消した。足音が女のそれと違うだけでなく、刀が揺れる音もしたからだ。


 神庭において、武家以外の身分の者が刀を帯びることは、基本的に許されていない。公家や神官が行事だの神事だので使うか、町人が護身用に短刀を持つ程度だ。それ以外の目的での所持や使用がばれようものなら、たちまち笞打ち以上の刑である。

 誰なのだろう。少なくても、源内や店の者ではない。

 小雪が息を詰めていると、足音は小雪と師の部屋の前で止まった。


「……あの、どなたでしょう?」


 襖越しにおずおずと声をかけると、若い男の声が返ってきた。


「幕臣の浅野あさの正成まさなりだ。琵琶師の朱鷺殿を連れてきた。彼女を寝かせたいのだが」

「まあ、それは申し訳ありません。しばしお待ちを」


 小雪は慌てて目を帯で隠すと、襖を開いて正成を招いた。数拍もしないうちに、小さく息を呑む音が小雪の耳を打つ。

 正成の反応に、小雪は苦笑した。

 大方、目の前の娘が盲目であることに驚いたのだろう。若い娘が嫁ぎ先へ行くでもなく旅をすることからしてあまりないことだし、ましてやそれが盲目、それも琵琶師の弟子となれば、どれだけ珍しいことか。この三年、こういう反応は数えるのが馬鹿らしいほど受けている。


「申し訳ありませんが、そちらの布団へ師を寝かせていただけないでしょうか。この目では、手伝うこともままなりませんので」


 念のために敷いておいた布団があるだろう方向を指して乞うと、正成は短く了承して室内へ入ってきた。音と彼の声で師を寝かせてもらったことを確認し、襖を頼りに廊下へ出た小雪はひとまず頭を下げる。


「わざわざ師をこちらまで運んでくださって、ありがとうございます」

「礼には及ばない。運んでくれと頼まれた」

「まあ、師がそんなことを……。申し訳ありません、師が無理を言って」


 小雪は片頬を引きつらせる。どういった事情で会ったのかは知らないが、幕臣になんてことを。彼が不品行でなくて本当によかった。


「お前は、朱鷺殿の弟子か」

「はい。小雪と申します」

「……郷は、南のほうか」

「? ええ、和浪藩ですが」


 矢継ぎ早に問われ、不思議に思いながらも小雪は答える。鼓動が小さく跳ねたことは無視した。里を尋ねられるのは、普通のことだ。


「そうか……お前たちは、まだ火白ほしろに留まるのか」

「はい。今朝着いたばかりで、師はしばらく滞在すると」


 小雪が言いかけたそのとき、朱鷺が何やら寝言を言いながら大きく寝返りを打った音がした。よく聞き取れなかったが、あまり品の良い言葉ではなかったのは何となくわかる。小雪は額に指を当てたくなった。

 一方、女が口にするべきでない言葉に特に反応をした様子もなく、正成は踵を返した。


「では、私はこれで失礼する」

「はい。今宵はありがとうございました」


 もう一度礼を言って正成を見送った小雪は、彼の背が廊下の角に消えたのを足音で確認し、部屋に下がった。

 朱鷺はまだ熟睡中だった。まといつかせる酒気を嗅げば、何をしていたかはおおよそ知れる。小雪は鼻につく匂いを散らすように長息をついた。一体どれほど飲んだのだろう。


 先ほど久しぶりに故郷の名の欠片を口にしたせいか、何をせずとも心は故郷を思い描いた。

 風に揺らめく赤い花、遠い喧騒、琵琶師の弾き語りを見つめる父。差し込む陽光に煌めく水面、爆ぜる火、遠い煌びやかな着物。

 そして、埃っぽい社の中と、勇敢な少年の背中。


「……」


 目を覆う帯を外し、明かりを消した小雪は師の横に敷いた布団にもぐり込んで、きつく目を閉じた。早く眠りに就いて、遠い日々への追憶を断ち切りたかった。

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